種子島久基

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種子島 久基(たねがしま ひさもと、寛文4年9月5日1664年10月23日) - 寛保元年7月16日1741年8月26日)は、薩摩藩(鹿児島藩)家臣、種子島氏第19代当主。

父は種子島久時。母は北郷久精の娘。正室は島津光久の十一女の千代松。継室は島津光久の十四女の袈裟千代。子は種子島憲時種子島久達。幼名は鶴袈裟丸、初名は義時、伊時。通称は三郎次郎、左内、弾正、号栖林。

略歴

寛文4年(1664年)9月5日に生まれる。延宝3年(1675年藩主島津光久の加冠で元服天和元年(1681年)藩主・光久十一女・千代松と結婚。同年五番組頭、番頭となる。天和3年(1683年)左内と改名。貞享4年(1687年)弾正と改名。同年正室・千代松死去。元禄元年(1688年)藩主・光久十四女・袈裟千代と再婚。元禄2年(1689年)長男・熊袈裟(憲時)誕生。元禄4年(1691年)次男・伝次郎(久達)誕生。元禄8年(1695年)伊時と名を改める。

元禄9年(1696年)父・久時が国老を辞任することを請うも許されず、伊時が島内の政務を代行することとなる。元禄11年(1698年)領内の農民の救済作として、琉球国王尚貞より甘藷一篭を譲り受け、家老西村時乗に命じ領民に栽培させる。このことが、甘藷栽培が全国的に普及する端緒となった。元禄12年(1699年)三ヶ国宗門改惣奉行となる。同年横目頭となる。元禄13年(1700年)藩主・綱貴の江戸出府の供をする。同年、第3代将軍徳川家光五十年忌の際に、藩主・綱貴の使者として、日光山輪王寺三仏堂に赴き拝礼する。

武田流軍法を和田義之に、本心鏡智流槍術を梅田治繁に、関口流剣術を渋川義方に学び印可を受けており、同年、藩主・綱貴の命で、江戸藩邸において、槍術の演舞を行い賞された。元禄14年(1701年)藩主・綱貴息女・亀姫と、大納言近衛家久結納の使者として京に赴き、関白近衛基熙(家久の祖父)、右大臣近衛家熙(家久の父)に拝謁する。同年寺社奉行となる。

宝永元年(1704年)藩主・綱貴が死去し、葬儀の奉行を務める。宝永2年(1705年)勝手方役、若年寄となる。同年近衛家久正室・亀姫が死去し、大徳寺の墓に詣でて焼香する。宝永4年(1706年)藩主・島津吉貴の命で薩摩大隈日向の領内を巡察する。宝永5年(1707年)藩主・吉貴の江戸出府の供をする。宝永6年(1708年徳川家宣の将軍宣下使者として、江戸に下向していた近衛家久に、江戸藩邸で拝謁する。宝永7年(1710年)父の隠居により家督相続し国老となる。

正徳2年(1712年)藩主・吉貴に「久」の字を賜り久基と改名する。享保元年(1716年)藩主・吉貴の江戸出府の供をする。同年藩主・吉貴の供をして江戸城で第8代将軍・徳川吉宗に拝謁する。享保6年(1721年)藩主・島津継豊家督相続の御礼言上の際に江戸城で将軍・吉宗に拝謁する。享保12年(1727年)長男・憲時が死去。次男・時春(久達)を嫡子とする。享保13年(1728年)病により国老辞任を請い、乗輿を許可される。

元文元年(1736年)国老を辞任し、隠居して家督を嫡男・意時(久達)に譲り、栖林と号する。寛保元年(1741年)7月16日鹿児島で死去。享年78。

文久3年(1863年)第23代当主・種子島久道の正室・松寿院によって、久基を祭神とする栖林神社が創建された。

参考文献