福原資盛
時代 | 江戸時代 |
---|---|
生誕 | 慶長8年(1603年) |
死没 | 延宝7年12月21日(1680年1月22日) |
改名 | 資盛、岩久(法号) |
別名 | 内記、淡路守(受領名) |
戒名 | 盛與 |
氏族 | 福原氏 |
父母 | 父:福原資保 母:久野氏女 |
兄弟 |
資盛、主膳、資房、蔵人、 女(大田原将監室)、女(蘆野資泰室)、 女(千本長勝室)、女(千本長勝継室) |
妻 | 大田原晴清の娘 |
子 | 資敏、資清、五郎左衛門 |
福原 資盛(ふくはら すけもり)は、江戸時代の武将、旗本。交代寄合福原氏2代目。
生涯
家督相続前
慶長8年(1603年)に下野国に4,500石を領する交代寄合の旗本である福原資保の長男として生まれる。
元和元年(1615年)に初めて徳川秀忠に拝謁。元和3年(1617年)の秀忠上洛の際には病の父資保に代わって供奉し、これ以後も父の代理で二度供奉をした。元和5年(1619年)には伏見において仰せを承り、松平重忠・秋元泰朝に属して駿府城番を務めた。
旗本としての事績
その後、家督を相続し、寛永11年(1634年)7月31日に下野壬生藩主の日根野吉明が豊後国の府内に転封になるという事で岡本義保と共に壬生城に入り同城守衛の任にあたる。
寛永17年(1640年)には4月に徳川家光が日光社参を行うという事でそれに先立って同年1月26日に日光東照宮の社殿の修理を行うように命じられた。翌寛永18年(1641年)3月3日にもまた同様の命が下され、社殿の修理を行なっている。
泉騒動
正保元年(1645年)3月10日に旗本岡本保真を甥の岡本義政が泉城内で暗殺し、その証拠隠滅を計ったとされる事件について、保真遺族などを代表して千本長勝(資盛妹婿、従兄弟)が幕府に「保真は謀略によって殺された」と訴えた。これに対して義政も「長勝と福原資盛の陰事である」と反論し、この件は幕府評定所にて審議されることになった(泉騒動)。
この一件は同年9月22日に裁定が下り、岡本義政・千本長勝の両名は改易となり、資盛も連座する形で蟄居処分を受けた。しかし、資盛は後に蟄居処分を解かれ千本長勝も蔵米500俵で旗本に返り咲く一方で、岡本義政に再び領が与えられることはなく義政方にのみ罰が下された形で決着している。
晩年
寛文11年(1671年)3月15日に嫡子資敏が52歳で家督相続前に資盛に先立って死亡。資敏には子の猪之吉が居たが、まだ生まれたばかりの幼児であり、後継に指名するには時期尚早であった。
しかしながら資盛も既にかなりの老齢であった為に猪之吉の成長は待てず、延宝元年(1673年)5月8日に次男資清に4,000石、孫猪之吉に500石を譲るという形で致仕し、隠居後は岩久と号する。延宝7年(1679年)12月21日に死去。享年77。
福原氏は後に猪之吉が継嗣なく夭折した事で500石は没収されたが、一方で資清の家系は4,000石のうちの500石を更に一族に分与し、3,500石の交代寄合の旗本として明治維新を迎えた。
参考資料
- 寛政重修諸家譜
- 正保録