福原有信

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福原有信

福原 有信(ふくはら ありのぶ、嘉永元年4月8日1848年5月10日〉 - 大正13年〈1924年3月31日[1][2][注釈 1])は、日本実業家。第3代日本薬剤師会会長、資生堂を創業した。

略歴[編集]

安房国松岡村(現・千葉県館山市)の郷士の家に、平民である福原市左衛門の次男として生まれる[2][5]。1865年、18歳で幕府医学所に入って西洋薬学を学び、現代で言う薬剤師として2年後の1867年から同所で雇われる[2]。1868年7月に東京大学病院雇、1869年に大学東校(現在の東京大学医学部)中司薬(職員)となり、1871年海軍病院薬局長となる[2]

その翌年の1872年、23歳の時には、官を辞して、民間初の洋風調剤薬局となる資生堂を銀座に開業。当時の日本にはなかった医薬分業を唱えた。1888年には日本初の練り歯磨き「福原衛生歯磨石鹸」を、1897年には化粧水「オイデルミン」を発売。1917年には化粧品部を独立させて、今日の資生堂の基礎を築いた。

また、1888年には、設立発起人として帝国生命保険(現在の朝日生命保険)の設立に加わり、社長として生命保険の普及に貢献した。1907年創立より関わっていた日本薬剤師会の第3代会長に就任。

1920年に箱根に完成した福原有信の大規模な山荘は、初代資生堂社長で、写真家でもあった三男の福原信三フランク・ロイド・ライトに設計を依頼し、1918年に設計されたものである[6]

1921年に緑綬褒章を、1924年に従五位勲四等瑞宝章を受ける[2]

著作[編集]

著書[編集]

  • 田原達也『薬令輯彙』福原有信補訂、丹波敬三閲、田原達也、1890年2月。NDLJP:797184 

論文[編集]

  • 「本年虎列刺流行中石炭酸昇汞消費高及石炭酸溶解法」『薬学雑誌』第57号、公益社団法人日本薬学会、1886年、457-462頁、NAID 110003614292 
  • 「薬舗景况一斑」『薬学雑誌』第43号、公益社団法人日本薬学会、1885年、357-365頁、NAID 110003614117 
  • 「故日本薬学会有功会員雨宮綾太郎君小伝」『薬学雑誌』第288号、公益社団法人日本薬学会、1906年、1-3頁、NAID 110003664328 

伝記小説[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 没日を3月30日とする資料もある[3][4]

出典[編集]

  1. ^ 「(死亡広告)福原有信」『朝日新聞』、1924年4月2日、3面。
  2. ^ a b c d e 会員追悼録, p. 71, - Google ブックス
  3. ^ 福原有信(ふくはら ありのぶ)とは”. コトバンク. 2020年5月24日閲覧。
  4. ^ 福原 有信(フクハラ アリノブ)とは”. コトバンク. 2020年5月24日閲覧。
  5. ^ 時事新報 1916.3.29-1916.10.6 (大正5) 時事新報社第三回調査全国五拾万円以上資産家”. 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 資金(5-003). 2020年5月24日閲覧。
  6. ^ 福原有信別荘”. Wright in Japan. 2020年5月24日閲覧。

外部リンク[編集]

先代
下山順一郎
日本薬剤師会会長
第3代:1907年 - 1909年
次代
下山順一郎