祐子内親王

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祐子内親王

  1. 後朱雀天皇の第三皇女:祐子(ゆうし/すけこ)内親王
  2. 昭和天皇の第二皇女:祐子(さちこ)内親王

いずれも本項で記述する


祐子内親王 (後朱雀天皇皇女)

祐子内親王(ゆうし(すけこ)ないしんのう、長暦2年4月21日1038年5月27日) - 長治2年11月7日1105年12月15日))は後朱雀天皇第三皇女、母は中宮藤原嫄子敦康親王女で藤原頼通養女)。別名高倉一宮あるいは高倉殿宮高倉宮)。同母妹に禖子内親王藤原師通を養子とした。

生後2ヶ月で内親王宣下を受ける。母后嫄子の死後は頼通に養育され、長久元年(1040年)10月に着袴と共に准三宮。頼通とともに高倉第に住んでいたため、高倉一宮あるいは高倉殿宮と呼ばれた。延久4年(1072年出家承保元年(1074年)甥白河天皇から二品を授けられたが辞退した。長治2年(1105年)11月7日、68歳で薨去。

祐子内親王は歌合を盛んに催すなど一大サロンを形成し、歌人祐子内親王家紀伊菅原孝標女などが仕えたことで知られる。

祐子内親王 (昭和天皇皇女)

1928年1月1日発表の写真

久宮祐子内親王(ひさのみや さちこないしんのう、1927年9月10日 - 1928年3月8日)は、日本皇族昭和天皇香淳皇后の第二皇女。御称号久宮

生涯

1927年(昭和2年)9月10日昭和天皇香淳皇后の第二子、第二皇女として誕生。身長50.8cm、体重3300g[1]

「久宮祐子」の名は、吉田増蔵らによって選定された三つの候補から、父:昭和天皇が選び9月16日に命名式が行われた[1]。由来は『易経』。後朱雀天皇第三皇女と同字、また同第一皇女の名は「良子」で、久宮の母:香淳皇后と同字であった。守り刀は月山貞一の作[1]

同年12月17日、香淳皇后が大正天皇の権殿へ拝礼する際、姉の照宮成子内親王とともに宮城(皇居)を訪れた[2]のが、はじめての外出となる[3]

皇后自ら母乳を与え、順調に発育しており、1928年(昭和3年)3月3日には初節句を、特に諒闇あけという状況もあり盛大に祝う予定であった。天皇・皇后は30種のひな菓子を用意し、皇后の実家:久邇宮家からは内裏びな、その他に宮妃となった明治天皇皇女たち[4]からも贈り物が用意された[5]

しかし2月27日に、湿疹と高熱が生じ、咽喉カタルと診断された[6]。初節句の祝いは延期され、皇后・侍医らが尽きっきりで看病した。発病が公表された3月1日時点では医師らは「ご心配申し上げるほどではない」との認識であり、3月3日に熱が下がった際も、数日中に全快するという見通しだった。

ところが、3月4日再び熱が39度台まで上昇、午後9時には重態となり敗血症の疑いが濃厚となった[7]。皇后は女官共々徹夜で看病にあたるようになる。なお同時期に天皇も発熱したが、これは風邪によるものだった。3月6日地久節(皇后誕生日)の行事も中止され、深夜までに熱海滞在中の久邇宮夫妻にも帰京が要請された。

3月7日午後8時40分頃容態が悪化し、翌3月8日午前3時38分、逝去した。その後、演芸放送や陸軍記念日行事などが自粛された。皇室喪儀令の規定は、同17条により7歳未満の久宮には適用されず、3月13日に簡素な葬儀が行われた後、豊島岡墓地に埋葬された。

皇后は悲しみから、その後しばらく久宮と同じ重さの人形を抱いたという。

脚注

  1. ^ a b c 1928年3月8日 朝日新聞「お傷わしき御一生 御誕生より御7ケ月目 桃の節句も御むなしく」
  2. ^ 当時、昭和天皇一家は赤坂離宮で生活していた
  3. ^ 1927年12月17日 朝日新聞「きょう久宮様はじめて宮城へ」
  4. ^ 竹田宮妃 昌子内親王北白川宮妃 房子内親王朝香宮妃 允子内親王東久邇宮妃 聡子内親王の4名
  5. ^ 1928年2月25日 朝日新聞「お喜び一入深き 久宮様初のお節句 両陛下にも両内親王殿下に、ひな30種を御買上」
  6. ^ 1928年3月2日 朝日新聞「久宮内親王御不例 咽頭カタルと拝診さる」
  7. ^ 1928年3月6日 朝日新聞(夕刊)「久宮祐子内親王殿下 御重態に陥らせらる」