石坂洋次郎

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50歳頃の石坂

石坂 洋次郎(いしざか ようじろう、1900年明治33年)1月25日 - 1986年昭和61年)10月7日)は、日本小説家青森県弘前市代官町生まれ。慶應義塾大学国文科卒。戸籍のうえでは7月25日生まれになっているが、実際は1月25日生まれ。

来歴・人物

弘前市立朝陽小学校、青森県立弘前中学校(現在の青森県立弘前高等学校)に学び、慶應義塾大学文学部を卒業。大学時代、心酔していた郷里の作家葛西善蔵を鎌倉建長寺の境内の寓居に訪ねるも、乱酔した葛西から故郷の踊りを強要され、さらに相撲で捻じ伏せられた上、長刀を頭の上で振り回されて幻滅と困惑を感じる。

1925年に青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)に勤務。翌1926年から秋田県立横手高等女学校(現在の秋田県立横手城南高等学校)に勤務。1929年から1938年まで秋田県立横手中学校(現在の秋田県立横手高等学校)に勤務し教職員生活を終える。

横手中学でのあだ名は、か細かったことから「夜蛾(ヨガ)」。3〜5年生時に国語と作文を教わったジャーナリストむのたけじは、前から成績の悪い順に着席していた当時の教室で、授業中教師と目を合わせないようにうつむいていた前列の者たちが、石坂の授業においては「あててくれ」といわんばかりに顔を上げるようになり、教室の風通しがよくなったと感じていたとのこと。また、英語の試験の試験官をしていた石坂が、答えのわからない生徒たちに聞かせるかのように窓の外に向かって正解をつぶやくのを数度目撃した。教室で人を解放させるようなあたたかなムードを持ち、空気のように包まれる感じであったと回想している(読売新聞秋田版、2008年9月10日、『あの日 X年前 - 82年前、1926年』)。

葛西文学への反撥から健全な文学を志し、『海を見に行く』で注目され、『三田文学』に掲載した『若い人』で三田文学賞を受賞。しかし、右翼団体の圧力をうけ、教員を辞職。戦時中は陸軍報道班員として、フィリピンに派遣された。

戦後は『青い山脈』を『朝日新聞』に連載。映画化され大ブームとなり、「百万人の作家」といわれるほどの流行作家となる。数多くの映画化、ドラマ化作品がある。1966年、「健全な常識に立ち明快な作品を書きつづけた功績」が評価されて第14回菊池寛賞を受ける。しかし石坂自身は「健全な作家」というレッテルに反撥し、受賞パーティの席上で「私は私の作品が健全で常識的であるという理由で、今回の受賞に与ったのであるが、見た目に美しいバラの花も暗いじめじめした地中に根を匍わせているように、私の作品の地盤も案外陰湿なところにありそうだ、ということである。きれいな乾いたサラサラした砂地ではどんな花も育たない」と語った。

還暦を超えてなお人気作を量産していたが、1971年にうら夫人が亡くなったことがきっかけで執筆意欲を失いだし、当時連載していた作品を最後に長編執筆を止め、執筆活動から遠ざかり、以後は自身の旧作の改訂や回顧録、随筆などを時折記す悠々自適の生活に入る。1976年に朝日新聞へ隔週連載された「老いらくの記」は往年の読者を中心に反響を呼び、健在ぶりを示す。翌1977年には戦中に執筆しながら連載途中で掲載終了となり未完に終わっていたフィリピン従軍記「マヨンの煙」を未発表原稿を合わせ、綿密な校訂を行い出版。30余年ぶりに陽の目を浴びせた。

1978年頃から認知症の症状が徐々に出始め、1980年ごろには徘徊や親族の顔の認識すら出来ない状態になっていたという。さらには肥満が原因による心臓肥大高血圧の症状など体調は悪化の一方を辿り、1982年には医師から余命半年の宣告が下る。それを受けて、せめて僅かな月日を穏やかに過ごさせたいという家族の想いから、長年住み慣れた田園調布の地を離れ、伊東市へ転居する。転居費用や生活費は自宅売却費や印税収入で賄い、家族に金銭的な面倒は掛けたくないという健在だった頃の本人の意思は守ることが出来た。伊東へ移ってからは体調は安定し、時折詩を書くようなこともあるなど、家族の想いをまさに汲んだように穏やかな月日を送ったという。1986年に老衰硬膜下出血)のため伊東市の自宅で死去。死の直前には「これでよし」と呟いた、自他共に納得の大往生だった。

石坂の老衰については、出版関係者内では密かに囁かれていたが、公にはなっていなかった。1982年にゴルフ仲間であった作家丹羽文雄が随筆に具体的なエピソードを交えて綴ったことで一般へも知られることとなった。

横手城址の文学碑には、横手中学(現横手高)の国語教師をしながら書き続けた『若い人』の一節、【小さな完成よりもあなたの孕んでいる未完成の方がはるかに大きなものがあることを忘れてはならないと思う】が刻まれている。

代表作[1] [2]

妻・うらとともに(1954年)

ほか

受賞歴

関連項目

脚注

  1. ^ Amazon.co/jp(石坂洋次郎)
  2. ^ 横手市観光ガイド(石坂洋次郎記念文学館)

外部リンク