矢作水力
矢作水力株式会社(やはぎすいりょくかぶしきがいしゃ)は、大正から昭和初期にかけて存在した日本の電力会社である。
「電力王」と称された実業家福澤桃介が率いる大手電力会社大同電力の系列で、福澤らの発起により、長野・岐阜・愛知3県を流れる矢作川の電源開発を目的として1919年に発足。1930年代に天竜川水系を地盤とする天竜川電力、北陸を地盤とする白山水力をそれぞれ合併し、最終的に矢作川水系のみならず天竜川水系、九頭竜川水系、手取川水系の河川において合計19か所の水力発電所を運営した。戦時下における電力の国家統制の進展により、発電設備を日本発送電、配電設備を中部配電に出資して1942年に解散した。
主力の電気事業のほか、軌道事業などを兼営した。このうち余剰電力の活用を目的に進出した化学工業部門は会社解散にあわせて分離された後、化学メーカーの東亞合成として今日まで続いている。
沿革
設立と矢作川開発
矢作水力株式会社は1919年3月、矢作川水系の開発を目的に設立された電力会社である[1]。設立にかかわった人物の一人が、「電力王」と称された実業家福澤桃介である。
福澤桃介は1909年に福岡県で福博電気軌道を設立したのを手始めに電気事業に乗り出し、次いで1910年に名古屋電灯の経営に参加した。どちらも1922年に成立した大手電力会社東邦電力の前身であるが、東邦電力が発足するころには福澤は同社の経営から手を引いていた。その代わりに、名古屋電灯が取得した木曽川・矢作川の水利権を元に1918年に新設した木曽電気製鉄、後の大同電力を以後本拠としていく[2]。
この福澤が代表となって1912年に組織した「大正企業組合」が矢作水力の前身である。同組合は矢作川などの河川を調査して水利権を出願し、このうち矢作川水系4地点の水利権を元に矢作水力を設立することになった。矢作川水系は水勢が急で水量も多く、名古屋や岡崎などの市街地に近く建設や送電の便が良く発電所建設には好適であった。1918年7月に水力使用許可を得たことから設立準備を進め、1919年3月3日に創立総会を開催、20日に設立登記を完了して発足した[3]。初代社長には福澤の北海道炭礦汽船時代の上司井上角五郎が就任、福澤自身は相談役となった[4]。
設立翌年の1920年4月、岩村電気軌道を合併した。同社は中央本線大井駅(現・恵那駅)から岐阜県恵那郡岩村町(現・恵那市)へ至る電気軌道を運営しており、矢作水力はこの路線を用いた発電所の資材輸送を円滑に行う目的で合併した。同社は水力発電所1か所を運営、沿線において電気の供給事業も兼営しており[5]、矢作水力はこの合併をもって電気事業者として開業した[1]。なお、同社から引き継いだ軌道事業については1935年まで兼営した(後述の軌道事業参照)。
矢作水力による矢作川水系開発の第一弾として、1920年12月恵那郡下原田村(現・恵那市)に下村発電所が完成。次いで恵那郡上村に1921年飯田洞発電所を建設、以降1927年までの間に恵那郡内に上村発電所・島発電所を建設した。恵那郡に隣接する愛知県北設楽郡武節村・稲橋村(稲武町を経て現・豊田市)にも1922年・23年に押山発電所・真弓発電所を建設した。以上6か所の水力発電所完成によって当初計画地点の開発は終了したが、さらに予備電源確保を目的に1928年名古屋市内に火力発電所を新設した[6]。
矢作川水系で発電した電力の供給先は主に愛知県内であった。工業用動力としての供給先には名古屋市とその周辺部、それに西三河地方があった。一方電灯用電力の一般供給は、岩村電気軌道から継承した恵那郡大井町・岩村町などのほか、発電所所在地の恵那郡上村・下原田村と北設楽郡武節村・稲橋村、それに送電線通過地の愛知県額田郡竜谷村(現・岡崎市)があった[7]。
1934年、稲橋村内に黒田発電所が完成した。同発電所が、矢作水力が矢作川水系で開発した最後の発電所となった。
天竜川の開発
矢作水力は矢作川水系のほか、天竜川水系においても水力発電所の建設を行った。自社で水利権を取得して行ったもののほか、大同電力系の天竜川電力を合併し同社の計画を引き継いだもの、南信電力の計画を引き継いだものの3通りがある。
このうち天竜川電力にかかるものが天竜川本流の開発である。天竜川電力は1926年3月5日に大同電力などの出資により設立、初代社長には福澤桃介が就任していた。同社は天竜川本流・長野県内に計9地点の水利権を取得し、1927年9月まず最上流部に大久保発電所を建設した。続いて1929年2月に南向発電所が完成する。天竜川電力による開発はこの2か所で終了し、同社は1931年11月に矢作水力に合併された。矢作水力では天竜川電力の計画を継承し、泰阜発電所の建設に着手、1936年10月に竣工した。続いて平岡発電所の建設に1939年に着手。折からの日中戦争を背景に早期完成を目指したが、結局完成は戦後中部電力時代の1951年となった[8]。
矢作水力が直接水利権を取得した河川は、矢作川水系の分水嶺を挟んで反対側にあたる天竜川支流和知野川・売木川水系である。長野県南部の下伊那郡平岡村(現・天龍村)、大下条村(現・阿南町)、豊村(現・阿南町および売木村)、波合村(現・阿智村)にまたがる地域で水利権を出願した[9]。実際に和知野川に発電所が建設されたのは1930年後半で、1936年から1939年にかけて下流側から和知野発電所、豊発電所、和合発電所がそれぞれ完成した。
和知野川よりも上流側で天竜川本流に合流する支流阿知川でも矢作水力は水利権を取得した。ただし最初に取得したのは、1923年5月18日に発足した南信電力株式会社である。同社は株式の3分の1を矢作水力が引き受けており、1927年10月1日に矢作水力が吸収して阿知川、下伊那郡三穂村(現・飯田市)における水利権を引き継いだ[10]。1930年、この場所は立石発電所として完成した。
白山水力の合併
1933年2月28日[11]、矢作水力は同じ福澤系の白山水力を合併し、同社が福井県の九頭竜川水系、石川県の手取川水系に開発していた水力発電所を継承した。
白山水力は1919年6月28日[12]、福澤桃介らによって設立された。社名は、計画中の発電所が白山を水源とする河川であったことにちなむ[13]。同社はまず1923年10月、福井県の九頭竜川筋に西勝原発電所を建設[14]。続いて石川県側手取川水系に吉野谷発電所を1926年5月に建設した。1927年には西勝原発電所の放水を利用する西勝原第二発電所、1928年には手取川水系の鳥越発電所がそれぞれ完成し、白山水力の発電所は計4か所となった[14]。
矢作水力合後の1938年、手取川水系に尾口発電所が完成した。これにより矢作水力の水力発電所は北陸地方に5か所となった。
解散への道
天竜川電力、白山水力を合併した後の1938年度下期(1938年10月 - 1939年3月)の時点では、矢作水力は他の電気事業者へ電力を供給する電力卸売会社としての性格が強かった。具体的には供給電気量の64%を大同電力や東邦電力、京都電灯など電気事業者への供給が占めていたのである。供給電気量の残り36%を占めていた一般供給では、余剰電力活用を目的に設立した子会社の矢作工業、昭和曹達、大北工業の3社が主要な供給先であった[15]。矢作水力は最終的に19の水力発電所と1つの火力発電所を保有したが、この電気事業から撤退し会社を解散する要因となったのは、日中戦争から太平洋戦争に至る戦時下で進んだ電力の国家管理の進展である。
電力国家管理の第一段階として、1939年4月1日、半官半民の国策電力会社日本発送電株式会社が発足した。同社はまず各電力会社に所有する火力発電所と主要な送電線を現物出資させた。そして直営とした火力発電所と各電力会社が保有したままの水力発電所からの電力を、自らの送電線によって消費地へ送電し、小売会社や卸売会社へと電力を販売する、という供給システムを築いた[16]。この第一次国家管理に際し矢作水力は、名古屋火力発電所と5つの送電線、および送電線に関連する変電所を日本発送電に出資した。また東邦電力と大同電力が主たる電力供給先であったが、東邦電力向け電力を供給していた送電線や変電所を日本発送電に出資したため供給先が日本発送電に切り替わり、大同電力向けについては同社が全資産を日本発送電に出資したためこれも日本発送電への供給に切り替わった[17]。
続く第二次国家管理では、1941年10月1日と1942年4月1日の2度にわけて、各電力会社に残されていた水力発電所や送電線の強制的な現物出資が実施に移された。各社の配電事業については国内を9地域に分割し、それぞれの地域に存在する配電設備と関連設備の現物出資によって、1942年4月1日に地域独占の配電会社9社が設立された。一連の再編により電力の流れは、日本発送電→配電会社→需要家、という構図に単純化された[18]。この第二次国家管理の完成によって矢作水力は解散する。まず1941年10月1日、大久保発電所・西勝原発電所など計8つの水力発電所と送電線8路線を日本発送電へ出資した[19]。次いで1942年4月1日、残る鳥越発電所など11か所の発電所と送電線17路線を日本発送電へ、送電線12路線と9つの変電所、および配電設備を配電会社中部配電へ、それぞれ出資した。2度にわたる出資で電気事業から撤退した矢作水力は4月1日付で解散して消滅した[20]。
年表
- 1919年3月3日 - 矢作水力株式会社、創立総会を開催。20日に設立登記。
- 1919年12月26日 - 子会社・矢作索道株式会社を設立。
- 1920年2月16日 - 岩村電気軌道株式会社を合併。
- 1920年12月 - 最初の発電所である下村発電所が運転開始。
- 1923年5月18日 - 南信電力株式会社を設立。
- 1927年10月1日 - 南信電力を合併。
- 1931年11月 - 天竜川電力株式会社を合併。
- 1933年2月28日 - 白山水力株式会社を合併。
- 1933年5月5日 - (第1次)矢作工業株式会社を設立。
- 1934年4月1日 - 岩村電気軌道から継承した電気軌道の運転を休止(翌年廃止)。
- 1936年1月 - 社内最大の泰阜発電所が運転開始。
- 1937年12月28日 - 矢作製鉄株式会社を設立。
- 1939年4月1日 - 名古屋火力発電所などを日本発送電に出資。
- 1940年3月1日 - (第1次)矢作工業を合併、工業部を設置。
- 1941年10月1日 - 水力発電所8か所などを日本発送電に出資。
- 1942年3月31日 - 矢作工業株式会社(第2次、現・東亞合成)を設立、工業部を分離。
- 1942年4月1日 - 水力発電所11か所などを日本発送電へ、配電設備を中部配電へ出資。同時に解散。
本社
矢作水力の本社は愛知県名古屋市東区東片端町2丁目12-1にあった[21]。
発電所
矢作水力が所有した発電所は計21か所である。
内訳は、水力発電所20か所、火力発電所1か所である。矢作水力が開発した発電所は14か所で、岩村電気軌道の合併(1920年2月)で1か所、天竜川電力の合併(1931年11月)で2か所、白山水力の合併(1933年2月)で4か所、それぞれ発電所を継承した。矢作水力の手で1か所廃止されたため日本発送電に出資されたのは20か所の発電所で、火力発電所は1939年4月、水力発電所は1941年10月と1942年4月にそれぞれ同社に出資されている。戦後、日本発送電の解体に伴い旧矢作水力の発電所は中部電力に14か所、北陸電力に4か所それぞれ継承された(日本発送電時代の統廃合で2か所減じている)。
発電所名 | 取水河川[22] | 所在地(当時)[22] | 最大出力[23] | 運転開始年月[23] | 現在名 | 備考[23] |
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水力発電所 - 矢作川水系(7か所) | ||||||
真弓 | 名倉川(矢作川支流) | 愛知県北設楽郡武節村 | 5,100kW | 1924年4月 | 中部電力真弓発電所(北緯35度15分12.7秒 東経137度28分44.5秒) | |
黒田 | 黒田川(名倉川支流) | 愛知県北設楽郡武節村 | 3,100kW | 1934年7月 | 中部電力黒田発電所(北緯35度12分19.4秒 東経137度28分45.7秒) | |
押山 | 矢作川 | 愛知県北設楽郡稲橋村 | 2,500kW →3,200kW |
1922年7月 | 中部電力押山発電所(北緯35度15分40.2秒 東経137度29分53.3秒) | 1924年11月出力増強 |
下村 | 上村川(矢作川支流) | 岐阜県恵那郡下原田村 | 4,200kW | 1920年12月 | 中部電力下村発電所(北緯35度15分52.4秒 東経137度29分24.9秒) | |
島 | 上村川 | 岐阜県恵那郡上村 | 1,600kW | 1927年12月 | 中部電力上村発電所(北緯35度17分53.3秒 東経137度29分16.0秒) | |
上村 | 上村川 | 岐阜県恵那郡上村 | 8,600kW →9,600kW |
1925年11月 | 中部電力上村発電所(北緯35度18分9.9秒 東経137度31分24.6秒) | 1930年9月出力増強 |
飯田洞 | 飯田洞川(上村川支流) | 岐阜県恵那郡上村 | 630kW | 1921年10月 | 中部電力飯田洞発電所(北緯35度18分40.5秒 東経137度30分18.7秒) | |
水力発電所 - 木曽川水系(1か所) | ||||||
小沢 | 岩村川(阿木川支流) | 岐阜県恵那郡本郷村 | 90kW →100kW |
1906年1月 | - | 前所有者岩村電気軌道 1933年9月矢作水力により廃止 |
水力発電所 - 天竜川水系(7か所) | ||||||
和知野 | 和知野川(天竜川支流) | 長野県下伊那郡大下条村 | 6,400kW | 1939年12月 | 中部電力和知野発電所(北緯35度18分6.1秒 東経137度49分32.8秒) | |
豊 | 和知野川(和合川) | 長野県下伊那郡豊村 | 13,600kW | 1936年12月 | 中部電力豊発電所(北緯35度18分11.5秒 東経137度47分25.2秒) | |
和合 | 和知野川(浪合川) | 長野県下伊那郡豊村 | 3,000kW | 1937年12月 | 中部電力和合発電所(北緯35度21分4.6秒 東経137度43分40.7秒) | |
泰阜 | 天竜川 | 長野県下伊那郡泰阜村 | 52,500kW | 1936年1月 | 中部電力泰阜発電所(北緯35度22分34.2秒 東経137度48分43.3秒) | |
立石 (三穂) |
阿知川(天竜川支流) | 長野県下伊那郡三穂村 | 5,400kW →6,000kW |
1930年3月 | 中部電力三穂発電所(北緯35度25分36.3秒 東経137度46分42.9秒) | 1937年6月出力増強 1940年10月三穂発電所に改称 |
南向 | 天竜川 | 長野県上伊那郡南向村 | 24,100kW | 1929年2月 | 中部電力南向発電所(北緯35度36分38.3秒 東経137度55分52.8秒) | 前所有者天竜川電力 |
大久保 | 天竜川 | 長野県上伊那郡伊那村 | 1,500kW | 1927年9月 | 中部電力大久保発電所(北緯35度45分42.3秒 東経137度57分35.2秒) | 前所有者天竜川電力 |
水力発電所 - 九頭竜川水系(2か所) | ||||||
西勝原 | 九頭竜川 | 福井県大野郡五箇村 | 15,000kW →20,000kW |
1923年10月 | 北陸電力西勝原第一発電所(北緯35度57分37.0秒 東経136度36分51.0秒) | 前所有者白山水力 1927年出力増強 |
西勝原第二 | 九頭竜川 | 同上 | 640kW →800kW |
1927年12月 | - | 前所有者白山水力 日本発送電時代に西勝原第一発電所に統合 |
水力発電所 - 手取川水系(3か所) | ||||||
鳥越 | 牛首川(手取川) 下田原川(手取川支流) |
石川県能美郡鳥越村 | 13,000kW | 1928年12月 | - | 前所有者白山水力 北陸電力により1978年9月廃止 |
吉野谷 | 尾添川(手取川支流) | 石川県石川郡吉野谷村 | 6,250kW →12,500kW |
1926年5月 | 北陸電力吉野谷発電所(北緯36度18分1.0秒 東経136度38分22.3秒) | 前所有者白山水力 1927年出力増強 |
尾口 | 目附谷川(尾添川支流) | 石川県能美郡尾口村 | 11,300kW →17,200kW |
1938年12月 | 北陸電力尾口発電所(北緯36度16分19.3秒 東経136度41分36.7秒) | 1939年1月出力増強 |
火力発電所(1か所) | ||||||
名古屋火力 (名古屋東火力) |
- | 愛知県名古屋市港区昭和町 | 14,000kW | 1928年11月 | - | 1939年4月名古屋東火力発電所に改称 日本発送電により1939年12月廃止 |
供給区域
1936年時点における矢作水力の電灯・電力供給区域は以下の通り[24]。
軌道事業
矢作水力では1920年に岩村電気軌道を合併してから1935年に廃止するまで、岐阜県恵那郡大井町(現・恵那市大井町)と岩村町(現・恵那市岩村町)を結ぶ電気軌道を運営していた。
この軌道は岩村の有力者浅見與一右衛門が設立した岩村電気軌道により1906年12月5日に開業した。路線の中間部にあたる本郷村飯羽間(現・恵那市岩村町飯羽間)に岩村川から取水する水力発電所(小沢発電所)を設置して動力としており、発電機を増設して1907年11月28日からは電灯供給事業も兼業していた[27]。同社の軌道事業・電灯事業は、開業後需要を伸ばしたものの設備がそれに追いついておらず、設備を改善する必要性が生じたが、資金に余力がなく困難であった。一方、発電所の資材輸送に同社の電気軌道を利用していた矢作水力は、電力や貨車をはじめとする設備不足により輸送に支障が出ていた。このため矢作水力は岩村電気軌道を合併し、軌道事業を直営とした[28]。両社の合併手続きは1920年2月16日に完了した[29]。
矢作水力は岩村電気軌道を合併した後、軌道の電力供給源を自社の小沢発電所から東濃電化株式会社からの受電に切り替えた。それに伴い小沢発電所は一般供給用となった[30](その後1933年廃止)。
矢作水力の電気軌道が廃止される契機となったのは、現在の明知鉄道明知線にあたる鉄道省明知線の開通である。大井町の中央本線大井駅(現・恵那駅)から阿木駅まで1933年5月に開通、続いて翌1934年1月には岩村町内の岩村駅まで達した。明知線開通で電気軌道の収入は激減し営業が困難となったため、矢作水力は1934年3月31日限りで軌道の運転を休止する。そして政府より補償を受けて1935年1月19日正式に廃止した[31]。なおこの軌道の廃止直前より岩村町-大井町間にて乗合自動車業を始めていたが[32]、1937年12月に他社へ譲渡されている[33]
子会社・関連会社
矢作索道
矢作川水系にある発電所の建設資材は、中央本線大井駅より岩村町を経由し輸送された。大井駅より岩村町までは電気軌道を利用できたが、岩村町から恵那郡上村までは木ノ実峠を挟んでおり資材輸送の隘路となってきた。この区間の輸送を改善すべく、矢作水力は1919年11月、岩村町を起点に峠を越えて上村に至る架空索道を建設した。当初は直営であったが資材輸送のみならず一般用にも開放するため独立した会社とすることとなり、矢作水力の出資の下、矢作索道株式会社が1919年12月26日に設立された。索道は同社へと譲渡されている[34]。
この索道は資材輸送のほか、上村周辺の薪、木炭、木材などの搬出や、岩村方面からの生活物資の搬入などにも利用され、人を乗せることもあったという。1927年に島発電所が建設されて木材の流送が不可能となると、索道がかわりに利用されるようになった[35]。
矢作工業
昭和になって天竜川水系の電源開発を進めた矢作水力であったが、当時は電力供給が過剰であり、発電所の新規建設許可は自家用に限られていた。そこで余剰電力を活用する目的でアンモニア工業への進出が企画された。1931年に計画は決定され、1933年1月に矢作水力の手によって名古屋港七号地(名古屋市港区昭和町)において工場の建設が開始された。建設途中の1933年5月5日、矢作水力や福澤桃介・駒吉らの出資で(第一次)矢作工業株式会社が設立され、建設中の化学工場を継承。同社の手によって工場は同年10月に完成した。
完成した矢作工業の工場にはアンモニア合成設備、硫酸・硫酸アンモニウム(硫安)・硝酸の製造設備などが設置された。このうちアンモニアの原料である水素を製造する電気分解設備が多量の電力を消費した。主力製品は硫安(窒素肥料の一つ)であったが、日中戦争下で食糧増産を目的に硫安に対する国家統制が強化され、大量に消費する電力も同様に国家管理が推進されていく中で、円滑な事業推進が困難になっていった。これに対応するため矢作水力と矢作工業の合併が決定され、1940年3月1日、矢作工業は矢作水力を存続会社として合併して同社の工業部となった。
前述の通り、電力の国家管理強化に伴い1942年4月1日をもって矢作水力は電気事業に関する設備を日本発送電などに出資して電気事業から撤退、あわせて解散する。だが工業部は新会社に分離して存続させることとなり、解散前日の3月31日付で(第二次)矢作工業が現物出資により設立された。同社は1944年7月、同じ福澤系で昭和町に水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)・塩素生産工場を持っていた昭和曹達(1928年設立)と三井系のソーダ会社2社と合併し、アンモニア工業とソーダ工業の2部門を基幹とする化学メーカー・東亞合成化学工業(現・東亞合成)となった[37]。
矢作製鉄
1937年12月28日、矢作水力や大同電力系の大同電気製鋼所(後の大同製鋼、現・大同特殊鋼)などの出資で矢作製鉄株式会社が設立された。矢作水力の余剰電力により電気製鉄炉を稼動させ、矢作工業の硫酸製造過程で発生する硫酸滓(硫酸焼鉱)を鉄源として活用して銑鉄を製造することを目的とした。矢作水力の出資比率は88.95%、大同電気製鋼所の出資比率は10.00%である。社長は矢作水力・矢作工業社長の福沢駒吉が兼任。工場を昭和町に置き、1939年5月に操業を開始した。矢作水力が大同製鋼に株式を順次譲渡したため、1941年8月に大同製鋼傘下となった[21]。
日清レイヨン
紡績会社日清紡績(現・日清紡ホールディングス)と矢作水力の共同出資により、1933年2月12日、日清レイヨン株式会社が設立された。
共同出資の相手となった日清紡績は、1907年に福澤桃介らにより設立された企業で、福澤は創業当初の専務取締役兼筆頭株主であった。1910年に福澤は同社の経営から手を引くが、名古屋電灯(後の東邦電力)社長時代に日清紡績の工場を名古屋電灯の供給区域である名古屋に誘致するなど関係があった[38]。
昭和に入って日清紡績はレーヨン(人造絹糸)製造への進出を企画し、福澤は矢作水力の供給区域へのレーヨン工場建設を同社に対して要請した。この結果、日清紡績と矢作水力、それに福澤の友人川崎八右衛門の川崎第百銀行の出資で日清レイヨンが設立された。出資比率は日清紡績が68.8%、矢作水力が21.2%、川崎第百銀行が10.0%である。福澤自身は同社の役員にはならなかったが、長男福澤駒吉が監査役となった。日清レイヨンは愛知県岡崎市を工場用地に選び、1934年4月より操業を開始する[39]。操業開始4年後の1938年9月25日、親会社の日清紡績に合併された[40]。
中部共同火力
大手電力会社の東邦電力が中心となり矢作水力、日本電力、大同電力、揖斐川電気(現・イビデン)、中部電力(旧岡崎電灯、現在の中部電力とは別)、合同電気の電力会社7社が出資し、1936年に中部共同火力株式会社が設立された。同社は名古屋市港区に火力発電所(名港火力発電所)を建設、1939年1月より運転を開始した。発電した電力は出資会社に分配されたため、矢作水力も同社から受電していた[41]。
株主
株数は1936年時点で計168万7000株。そのうち大株主6社と保有株数および出資比率は以下の通り[42]。
- 金城証券(矢作水力子会社):24万1433株 (14.3%)
- 大同電力:14万9399株 (8.9%)
- 東京海上火災保険:10万1875株 (6.0%)
- 伊那電気鉄道:10万株 (5.9%)
- 東邦電力証券保有(東邦電力子会社):8万9266株 (5.3%)
- 千代田生命保険:8万6056株 (5.1%)
元々は大同電力が約28万株を保有していたが、大同電力の会社整理に伴う持ち株処分の一環として、同社は1934年に矢作水力株約13万株を売却した[43]。
役員
脚注
- ^ a b 『中部地方電気事業史』上巻、p.236
- ^ 『日本コンツェルン全書』13、pp.279-282,322-329
- ^ 『十年史』、pp.1-3
- ^ 『十年史』、pp.146-148
- ^ 『浅見與一右衛門翁と岩村電車』
- ^ 『十年史』、pp.18-19
- ^ 『十年史』、pp.114-124
- ^ 「伊那谷の電源開発史」
- ^ 『十年史』、pp.9-10
- ^ 『十年史』、pp.11-13
- ^ 『北陸地方電気事業百年史』、p.859
- ^ 『北陸地方電気事業百年史』、p.850
- ^ 『北陸地方電気事業百年史』、p.152
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参考文献
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- 名古屋経済評論社(編)『名古屋会社年鑑』 昭和11年版、名古屋経済評論社、1936年。NDLJP:1109475
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- 三宅晴輝『日本コンツェルン全書』 13巻、春秋社、1937年。NDLJP:1278498
- 矢作水力『矢作水力株式会社十年史』矢作水力、1929年。NDLJP:1031632