百々綱家

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百々 綱家(どど つないえ、天文17年(1548年) - 慶長14年12月22日1610年1月16日[1])は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将は安信、安行とも。越前守。養子に美作津山藩森氏)家老の大塚丹後守の子、直安(百々出雲)がいる。


経歴

天文17年(1548年)頃に誕生したといわれる。百々氏は、近江国犬上郡百々村に居を構えて百々氏を称し、浅井氏に属した。

姉川の戦い浅井長政織田信長に敗れた後は織田氏に仕え、中山道北国街道の分岐点の摺針峠の関所を護る。天正10年(1582年)、本能寺の変において信長が横死すると羽柴秀吉に属し、山崎の戦いで軍功を上げる。その後、秀吉によって信長の嫡孫・三法師(美濃岐阜城織田秀信)の後見役を命じられて配され、後には織田家の家老を務めた。この際、自領・代官領と併せて1万1千石を領している。文禄元年(1592年)、文禄の役の際には、秀信の名代として兵6000を率いて朝鮮へ渡海している。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、石田三成ら西軍に与した秀信に対して徳川家康ら東軍に与するよう諫言したが、聞き入れられなかった。米野の戦いでは、飯沼長資や津田藤左衛門らとともに兵2500を率いて東軍1万8千を相手に奮戦するが、やがて劣勢に陥ったため、殿軍を務め岐阜城に撤退した。織田軍は籠城の方針を決めるが城は攻略され、本丸のみを残した時点で福島正則池田輝政とも)の言に従って降伏する。秀信は剃髪し戦後に高野山に流され、綱家は京都で蟄居を命じられた。

関ヶ原の戦い後は西軍方の重臣という立場で浪人していた。この頃、戦功により土佐一国を与えられたがしかし高知城の築城普請に苦労していた土佐藩山内一豊の請願により、家康から百々に対する赦免状が出され、6000石の築城総奉行[2]として乞われて土佐山内氏に仕えた。当時綱家は築城の、特に石垣普請の名手として知られており、同郷の近江坂本の石工集団「穴太衆」の技術力を駆使して、低湿地で難工事であった高知城の築城および城下の町割りの全てを任された。慶長6年(1601年)には江戸城の石垣修復にも山内氏の配下として参画している。引き続き高知城築城の総奉行を務めていた途上、慶長14年(1609年)に天下普請で作られる予定の丹波篠山城の石垣普請に山内氏として参画するため兵2000を率いて赴くが、心労が重なって病に倒れる。篠山より良い治療ができる京に移送されて静養したが、病死した。享年63。 南筆山公園の麓に百々一族子孫の墓地があり、綱家の墓も同所に存在する。

現在、高知市に越前町という町名が残り、同所に「百々越前屋敷跡」の標柱がある。

高知市洞ケ島町の薫的神社の境内に、「高知城建設百々越前子孫 百々勘左衛門夫婦墓」という墓石があるなど、子孫は代々山内氏に仕える。なお、幕末の土佐藩参政吉田東洋の父・光四郎正清は、百々家から吉田家へ養子入りしている。

 

築城の名手

江戸時代末期に岡田文圓が表した「新撰美濃誌」には、「岐阜中納言秀信の家臣百々越前守、ここに居りしゆえ、名字を百々と称しけるとぞ」と書かれている。また昨今の「地名事典」の中には、岐阜市の最高峰の「百々ヶ峰の名は、越前守の居城があったから」と書いているものがある。また「岐阜城落城後の越前守は行方不明」と書いている人物事典もあるが、「築城の名手」として高知城・江戸城・篠山城の築城に関与している。安土城には百々橋なる橋があったことから、本能寺の変の前に安土城の築城にも関わっていたとする説がある。

脚注

  1. ^ 寺石正路『土佐名家系譜』(高知県教育会、1942年)
  2. ^ 「御城築記」

参考文献