白洲次郎

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しらす じろう

白洲 次郎
サンフランシスコ講和会議へ向かう機内で 吉田茂(窓側)と
生誕 (1902-02-17) 1902年2月17日
日本の旗 日本 兵庫県武庫郡精道村
(現・兵庫県芦屋市
死没 (1985-11-28) 1985年11月28日(83歳没)
日本の旗 日本 東京都港区赤坂
出身校 旧制第一神戸中学校卒業
職業 貿易庁長官、内閣総理大臣秘書官(私設)
配偶者 白洲正子(妻)
子供 牧山桂子長女
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白洲 次郎(しらす じろう、1902年2月17日 - 1985年11月28日)は、日本官僚実業家兵庫県芦屋市出身。

終戦連絡中央事務局次長、経済安定本部次長、貿易庁長官、東北電力会長などを歴任した。

連合国軍占領下の日本吉田茂の側近として活躍し、終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商工省外局として新設された貿易庁の長官を務めた。吉田茂の側近として連合国軍最高司令官総司令部と渡り合う。吉田政権崩壊後は、実業家として東北電力の会長を務めるなど多くの企業の役員を歴任した。

一時は忘れられた存在であったが、1990年代前半頃から少しずつ再評価され各種メディアで取り上げられることが増え、21世紀に入ってからは「日本のプリンシパル」(ここでは“有数の要人”程度の意味)と持ち上げる書籍が多く刊行されている。

プロフィール

生い立ち

白洲次郎は1902年明治35年)2月17日、兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に白洲文平・芳子夫妻の二男として生まれた[注 1]。後に兵庫県川辺郡伊丹町[2](現:伊丹市)に建築道楽の父が建てた邸へ転居した。

1914年大正3年)旧制第一神戸中学校(のち兵庫県立神戸高等学校)に入学[3]サッカー部・野球部に所属し手のつけられない乱暴者として知られ、当時白洲家にはすぐ謝りに行けるよう菓子折りが常備されていたという。アメリカ車ペイジ・オートモビルPaige Automobile )のグレンブルック(Glenbrook )を父親から買い与えられて乗り回しており、級友等を同乗させている写真が残っている。神戸一中での成績は中以下で、成績表の素行欄には『やや傲慢』や『驕慢』、『怠惰』といった文字が並んでいる[4]。神戸一中時代には宝塚歌劇団の生徒と恋仲になった。同級生の友人には後に作家で文化庁長官となった今日出海、他に古典中国文学者の大家として、文化功労者になった吉川幸次郎がいる。

イギリス留学

1919年大正8年)神戸一中を卒業し、ケンブリッジ大学クレアカレッジに聴講生として留学[5]、西洋中世史、人類学などの授業を聴講した。自動車に耽溺し、ブガッティ・タイプ35ベントレー・3リットルを乗り回していた。7代目ストラフォード伯爵ロバート・セシル・“ロビン”・ビングと終生の友となり、1925年冬ベントレーを駆ってジブラルタルまでのヨーロッパ大陸旅行を実行している。カメラはライカを所有していた[6]

帰国

1928年(昭和3年)、神戸市神戸区(のちの中央区)で父の経営していた白洲商店が昭和金融恐慌の煽りを受け倒産したため、帰国を余儀なくされた[7]

1929年(昭和4年)、英字新聞の『ジャパン・アドバタイザー』に就職し記者となった。伯爵樺山愛輔の長男・丑二の紹介でその妹・正子と知り合って結婚に至り、京都ホテルで華燭の典を挙げた。婚姻届は兵庫県川辺郡伊丹町役場に提出されている。

結婚祝いに父から贈られたランチア・ラムダで新婚旅行に出かけた[8]。その後セール・フレイザー商会に勤務し、1937年(昭和12年)日本食糧工業(後の日本水産)取締役となった。

この間、海外に赴くことが多く駐イギリス特命全権大使であった吉田茂の面識を得[9]、イギリス大使館をみずからの定宿とするまでになった。またこの頃、牛場友彦尾崎秀実とともに近衛文麿ブレーンとして行動する。近衛とは個人的な親交も深く、奔放な息子・文隆の目付役を押しつけられていたこともあった。

戦時下

白洲夫妻が住居にしていた武相荘

第二次世界大戦勃発の翌年の1940年(昭和15年)、東京府南多摩郡鶴川村能ヶ谷(のち東京都町田市能ヶ谷)の古い農家を購入し、鶴川村が武蔵国と相模国にまたがる場所にあったことから武相荘(ぶあいそう)と名付け、政治や実業の一線から離れて農業に励む日々を送った。

第二次世界大戦戦末期に成人男子総赤紙の「国民兵役召集」を受けたものの、知己であり当時東部軍参謀長であった辰巳栄一(元駐英陸軍武官・陸軍中将・陸士27期)に頼み込み召集を免れた。一方で吉田を中心とする宮中反戦グループに加わっていたようである。同年に長女・桂子がうまれる。

終戦連絡中央事務局

1945年(昭和20年)、東久邇宮内閣外務大臣に就任した吉田の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。白洲はイギリス仕込みの英語で主張すべきところは頑強に主張し、GHQ某要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた[10]

昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われたために激怒して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたといわれる[11]

なお今日、武相荘のメールマガジンでは、『「マッカーサーを怒鳴りつけた男」 と書かれるに至っては、白洲は筋を通してもそんな失礼な男ではなかったと言いたくなります』との記述があり[12]、また、占領期のGHQ関連文章を保管しているバージニア州ノーフォークにある「マッカーサー・アーカイブ」において1945年12月・1946年12月の執務記録、面会予定表、ゲストブックの全てに白洲次郎の名前が見つからない旨を徳本栄一郎が月刊「文藝春秋」に寄稿[13]しており、このエピソードの真偽は意見が分かれる。

憲法改正

同年には憲法改正問題で、佐々木惣一京都帝国大学教授に憲法改正の進捗を督促する。1946年(昭和21年)2月13日松本烝治国務大臣が中心として起草した憲法改正案(松本案)がGHQの拒否にあった際に、GHQ草案(マッカーサー案)を提示されている。白洲は2月15日にGHQ草案の検討には時間を要するとコートニー・ホイットニーに宛てて書簡[14]を出し時間を得ようとするが、これはGHQから不必要な遅滞は許されないと言明された。

同年3月に終連次長に就任。8月、経済安定本部次長に就任。1947年(昭和22年)6月18日、終連次長を退任した。

貿易庁長官

1945年(昭和20年)12月15日商工省の外局として設立された貿易庁の長官に1949年(昭和24年)12月1日に就任する。汚職根絶などに辣腕を振るい、商工省を改組し通商産業省(のち経済産業省)を設立した。その辣腕ぶりから「白洲三百人力」と言われる。

同年、連合国軍が戦時に攻撃を避け占領後のため残したといわれた日本最大・最新鋭の日本製鐵広畑製鉄所(現在の新日鐵住金広畑製鐵所)が、日本側に返還されることになった。白洲は外貨獲得のためにイギリス企業に売却を主唱するも、永野重雄の反対によって頓挫した。永野は「(広畑製鐵所を)取れなかったら腹を切る。将来の日本経済のため、製鉄業を外国資本に任せられるか」と啖呵を切ったとされる。その後白洲と永野は銀座のクラブで取っ組み合いの大ゲンカとなり、永野が白洲の顔を机に押さえつけ、白洲が泣いて土下座して謝った逸話も残る[15]。戦後復興に欠かせない日本最大・最新鋭の製鉄所の外国資本への売却は、賛否が分かれるところである[16]

また民間航空の再開に際しては、日本企業や政府資本のフラッグキャリアである日本航空の設立の動きに対抗して、アメリカの航空会社の資本による設立を画策して藤山愛一郎や松尾静磨と対立した。

白洲は「俺はボランティアではない」が口癖で、イギリス留学時代の人脈をフルに活用し、主としてイギリス企業の日本進出を手助けし、成功報酬として成約金額の5%をロンドンの口座に振り込ませていた。広畑製鉄所の売却商談も成功していれば莫大な富を白洲次郎にもたらしたはずである。白洲は生涯浮世離れした豪奢な生活を送れたが、その根底にはこうした手数料収入があったことが挙げられている。

1950年(昭和25年)、講和問題で池田勇人蔵相・宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米しジョン・フォスター・ダレスと会談、平和条約の準備を開始した。

1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行した。外務省の説明によると、首席全権であった吉田茂は当初、英語で演説を行うつもりだったが、日本の「ディグニティ(尊厳)」のために日本語でするほうが良いだろうとの米国側からの提案に従い、当日になって、急遽日本語で演説することとした[17]という。しかし白洲の回想によれば、この時受諾演説の原稿を外務省の役人がGHQの了解を得た上でGHQに対する美辞麗句を並べかつ英語で書いたことに白洲が激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、急遽日本語に書き直したのだという。原稿は随行員が手分けして和紙に毛筆で書いたものを繋ぎ合わせた長さ30m、直径10cmにも及ぶ巻物となり、内容には奄美群島沖縄並びに小笠原諸島等の施政権返還が盛り込まれた[18]。しかし、サンフランシスコ条約会議に、事務の元締めとして参加した西村熊雄条約局長は、受諾演説文は、日英両国語で作っていたこと、および、吉田は英語で演説するつもりだったが、シーボルト大使が西村熊雄に日本語で演説することを勧めたため、同僚や白州顧問等と相談したところ、皆、賛成であり、吉田にその旨伝えた、としている[19]。1951年9月8日この原稿はオペラハウスで読み上げられたが、その様子を海外メディアは”吉田のトイレットペーパー”と報じ、朝日新聞の天声人語は「不思議な巻紙の勧進帳」と書いた。

1952年(昭和27年)11月19日から1954年(昭和29年)12月9日まで外務省顧問を務めた。吉田退陣後は政界入りを望む声もあったが政治から縁を切り、実業界に戻った。

実業界へ復帰

吉田側近であったころからすでに公社民営化を推進しており、1949年(昭和24年)には日本専売公社が発足している。そして1951年(昭和26年)5月には、日本発送電の9分割によって誕生した9つの電力会社のうちの1つ、東北電力会長に就任した。就任の同年福島県只見川流域が只見特定地域総合開発計画に指定されたことから1959年(昭和34年)に退任するまで、只見川流域の電源開発事業に精力的に動き奥只見ダムなどの建設を推進した。

また、9電力体制を作った「電力王・電力の鬼」松永安左エ門の私的シンクタンク産業計画会議の委員に就任した。東北電力退任後は荒川水力電気会長、大沢商会会長、大洋漁業(現マルハニチロ)、日本テレビ、ウォーバーグ証券(現UBS)の役員や顧問を歴任した。

死去

兵庫県三田市心月院にある白洲次郎夫妻の墓。右が次郎、左が正子の墓。

80歳まで1968年ポルシェ911Sを乗り回し、ゴルフに興じ、三宅一生のショーにモデルとして出演もした。また、同時期には没後の1986年1月に発売が開始されることとなった2代目トヨタ・ソアラのアドバイスなども行なっていた。

しかし1985年(昭和60年)11月に、妻の正子と伊賀京都を旅行後、体調を崩し胃潰瘍と内臓疾患で入院、同年11月28日死去した。83歳没。墓所は兵庫県三田市心月院である。妻の正子と子息に残した遺言書には「葬式無用 戒名不用」と記してあった。実はこの遺言書のフレーズは、白洲の父親が死去した際に残した遺言の内容とまったく同じであった。そして白洲の墓碑には正子が発案した不動明王を表す梵字が刻まれているだけで、戒名は刻まれていない。

なお、1987年11月に自動車雑誌「NAVI」で、白洲の生涯を扱った「日本国憲法とベントレー」(その後「白洲次郎の日本国憲法―隠された昭和史の巨人」として刊行)が連載されたこともあり、没後2年を経てにわかに白洲の生涯とその功績が注目されることとなった。

エピソード

  • 白洲次郎に関する一次資料は、ほとんど現存しておらず、実像としての次郎は謎が多い人物である[20]
  • 身長についてはNHK番組『その時歴史が動いた[出典無効]では185cmと紹介されたが、武相荘ホームページメールマガジン2008年12月25日第86号によると175cmとなっている(白洲自身がGHQに提出した身上書には身長:1m75cm、体重:65kgとある[21])。
  • スポーツ万能で晩年には三宅一生のモデルを務めたこともある[22]
  • コーヒーはイタリアン・ローストで細かく挽いたものを好み、青山の紀ノ国屋でよく購入していた。顔なじみだったコーヒー売り場の店員は、白洲の訃報を伝える新聞記事で初めて素性を知り驚愕するとともに、「冗談好きで素敵なおじいさんだった」と後に取材に答えている[23]
  • 手先が器用で日曜大工が趣味の1つ。しゃもじや小物入れ、キャスターテーブルなど日用品をよく作っていた。これらは現在も武相荘に展示されている。2009年にマッカーサー記念館の倉庫から、白洲が設計しダグラス・マッカーサーに贈答された椅子と書簡が見つかった。なお、書簡の一通は白洲がマッカーサーに宛てたもの、もう一通は返信の写しだがマッカーサー本人からの物ではない[24]
  • 次郎はケンブリッジ大学に留学しており、流暢なイギリス英語を話した。そのイギリス英語にはオックスブリッジ特有のアクセントがあった。イギリスでは、そのアクセントを喋る者はあらゆる場所で然るべき待遇を受ける。白洲次郎が話す英語も当然そのアクセントであった。しかし白洲の英語は19世紀風の古臭いしゃべり方だったという証言もある。アメリカでも、名門とされる大学群であるアイビーリーグですらオックスブリッジを手本に創立された。民政局長コートニー・ホイットニー准将に英語が上手いと褒められたことに対して"If you study a little harder, you will improve your English."(あなたももう少し勉強すれば上手くなる)と自分の正統英語の能力を使用して、アメリカ英語の准将に返した[25]
  • 永野が使ったのが六高時代の柔道仲間で、同郷でもある桜田武のルート。桜田は師匠・宮島清次郎に頼み、宮島は吉田茂首相が主な閣僚メンバーとの朝食会の席で、白洲に「おまえは閣僚の席もないんだから出ろ」と白洲を退席させてから吉田に「大阪の連中が会社をつくって、昭和の初めから国家資金を投入してきた事業の、いいところだけを頂戴しようとは何事だ。これは吉田内閣に汚点を残すだろう」と吉田を説得し売却を抑えた。後に桜田は白洲に「なんであんたのところのオヤジさんに嫌われるんじゃ」と聞かれたから「あんた自分の胸に聞きなはれ」と言ったという。鹿内信隆も「白洲さんは悪い人じゃないけど、女にもて過ぎたのがいかんですね」と話している[26]
  • 宮澤喜一は「永山時雄と私が一番一緒に付き合っていた一人じゃないでしょうか」と話している。講和問題1950年3月に池田勇人と三人で渡米したのが最初だが、一連の交渉に「白洲さんはまったく関係してない。全然仕事をしている感じはなかった」と答えている。当時、ワシントンには日本人は、まだ特派員の二人[27]しかおらず、池田と宮澤はアメリカの方針で安宿に泊らせられたが、白洲はイギリスの学生時代の友達の家などに泊まり歩いて、どこで何をしていたか分からなかったという。「アメリカの役人も自分たちの枠の中で動いてない白洲を嫌がったかもしれませんね」「講和のことを吉田さんは池田さんには具体的に指図していますが、白洲にはあったように思えない、この時の渡米は白洲さんにとってはあまり重要な任務でなかったのではないかと思う」と話している[28]
  • 自身が、政治家として最も評価していたのは英語使いとして知られた大蔵官僚出身の宮澤喜一であった[29][30]。白洲やロックフェラーは「なぜ宮澤のような優秀な人が日本では総理大臣になれないのか」と堤清二に話しており[30]、堤は白洲から「宮澤喜一を総理にするのを手伝え」と再三言われていたため宮澤総理の実現に画策した[29][30]。晩年の正子はこれを「白洲も人を観る目がなかったのね」と評している[31]

東北電力会長時代

当時東北地方で開発可能な水力の4分の3を有していた只見川[32]水利権を巡って、古くからの権利を主張して徹底抗戦してきた東京電力に対し、当時の野田卯一建設大臣を説得して、水利権を東北電力に切り替えるという超法規的措置を引き出した。これによって、東北電力繁栄の基礎が築かれた。

発言集

  • 「われわれは戦争に負けたが、奴隷になったのではない」(Although we were defeated in war, we didn't become slaves.)
  • 「僕は手のつけられない不良だったから、島流しにされたんだ」(ケンブリッジ大学に留学した理由を問われて)
  • 「Masa: You are the fountain of my inspiration and the climax of my ideals. Jon」(交際中に正子に送ったポートレートに添えられた言葉。Jonは次郎のことである)
  • 「お嬢さんを頂きます」(正子との結婚を承諾してもらうため、正子の父・樺山愛輔に言った台詞)
  • 「ネクタイもせずに失礼」(新婚当初、正子との夕食の席で)
  • 「監禁して強姦されたらアイノコが生まれたイ!」(GHQによる憲法改正案を一週間缶詰になり翻訳作業を終え、鶴川の自宅に帰ったときに河上徹太郎にはき捨てた台詞)
  • 「吾々(われわれ)の時代にこの馬鹿な戦争をして、元も子もなくした責任をもっと痛烈に感じようではないか。日本の経済は根本的の立て直しを要求しているのだと思う」(『頬冠りをやめろ―占領ボケから立直れ』より)
  • 「憲法にしろ色々の法規は、米国でさえ成立不可能な様なものをどしどし成立させ益々得意を増していった。一寸夢遊病者の様なもので正気かどうかも見当もつかなかったし、善意か悪意かの判断なんてもっての外で、ただはじめて化学の実験をした子供が、試験管に色々の薬品を入れて面白がっていたと思えばまあ大した間違いはなかろう」(「文藝春秋」1954年臨時増刊号より、GHQ内部の人々を評して)
  • 「自分は必要以上にやっているんだ。占領軍の言いなりになったのではない、ということを国民に見せるために、あえて極端に行動しているんだ。為政者があれだけ抵抗したということが残らないと、あとで国民から疑問が出て、必ず批判を受けることになる」(日本国憲法制定を巡ってのGHQとの攻防の折、宮澤喜一に対して)
  • 「この憲法は占領軍によって強制されたものであると明示すべきであった。歴史上の事実を都合よくごまかしたところで何になる。後年そのごまかしが事実と信じられるような時がくれば、それはほんとに一大事であると同時に重大な罪悪であると考える」(『プリンシプルのない日本』より)
  • 「プリンシプルとは何と訳したらよいか知らない。原則とでもいうのか。…西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対に必要である。日本も明治維新前までの武士階級等は、総ての言動は本能的にプリンシプルによらなければならないという教育を徹底的にたたき込まれたものらしい」(「諸君」昭和44年(1969年)9月号)
  • 「新憲法のプリンシプルは立派なものである。主権のない天皇が象徴とかいう形で残って、法律的には何というのか知らないが政治の機構としては何か中心がアイマイな、前代未聞の憲法ができ上ったが、これも憲法などにはズブの素人の米国の法律家が集ってデッチ上げたものだから無理もない。しかし、そのプリンシプルは実に立派である。マッカーサーが考えたのか幣原総理が発明したのかは別として、戦争放棄の条項などその圧巻である。押しつけられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと率直に受け入れるべきではないだろうか」(『プリンシプルのない日本』より)
  • 「私は、“戦後”というものは一寸やそっとで消失するものだとは思わない。我々が現在声高らかに唱えている新憲法もデモクラシーも、我々のほんとの自分のものになっているとは思わない。それが本当に心の底から自分のものになった時において、はじめて“戦後”は終わったと自己満足してもよかろう」(『プリンシプルのない日本』より)
  • 「占領下の日本で、GHQに抵抗らしい抵抗をした日本人がいたとすれば、ただ二人――一人は吉田茂であり、もう一人はこのぼくだ。吉田さんは、そのことが国民の人気を得るところとなりずっと表街道を歩いたが、もう一人のぼくは別に国民から認められることもなく、こうして安穏な生活を送っている。けれども一人くらいはこういう人間がいてもいいとおもい、別にそのことで不平不満を感じたこともないし、いまさら感ずる年でもないと思っている」(『「占領秘話」を知り過ぎた男の回想』より)
  • 「税金がふえて、我々の生活が今よりぐっと苦しくなっても、なお外国の軍隊を国内に駐留させるよりもいいというのが国民の総意ならば、安保など解消すべし」(「諸君」昭和44年(1969年)9月号)
  • 「死んだらこれに”俺の墓”と彫るんだ」(東北電力会長時代、只見川柳津ダム建設現場を訪れた際、石を見つけて)
  • 「“No Substitute”(かけがえのない)車を目指せ」(2代目トヨタ・ソアラ開発に際して開発責任者の岡田稔弘に)
  • 「人に好かれようと思って仕事をするな。むしろ半分の人には嫌われるように積極的に努力しないと良い仕事はできない。」(東北電力会長時代にダム建設を請け負っていた前田建設工業社長・前田又兵衛へのアドバイス)
  • 「地位が上がれば役得ではなく“役損”と言うものがあるんだよ」(犬丸一郎帝国ホテルの社長に就任するに当たって贈った言葉。地位に固執しなかった白洲の考え方が良く表れている)
  • ツイードなんて、買って直ぐ着るものじゃないよ。3年くらい軒下に干したり雨ざらしにして、くたびれた頃着るんだよ」三宅にアドバイスとして。
  • 「わからん!」(正子の『西行』を読んで)
  • 「一緒にいないことだよ」(晩年、夫婦円満でいる秘訣は何かと尋ねられて)
  • 「Hope She will be MORE TIDY! 1979」(武相荘にあるブラシ入れの底裏のメッセージ。おそらく正子へのうっぷん)
  • 「今の政治家は交通巡査だ。目の前に来た車をさばいているだけだ。それだけで警視総監にはなりたがる。政治家も財界のお偉方も志がない。立場で手に入れただけの権力を自分の能力だと勘違いしている奴が多い」(「週刊朝日」1976年(昭和51年)11月18日号)
  • 「相撲も千秋楽、パパも千秋楽」(晩年、東京赤坂・前田医科病院に入院する前にテレビで相撲を見ていながら、長女の(現・牧山)桂子に向かって)
  • 「右利きです。でも夜は左」(入院した病院で看護師に「右利きですか?左利きですか?」と尋ねられて。ちなみに“左利き”とは“酒飲み”という意味を持つ)

第三者による白洲次郎評

前出のように、白洲次郎についての一次資料は少ないとされる。彼自身の性格によるところもあるのだろう[33]。第三者による白洲次郎評を以下に記す。

  • 「流暢な英語で、人を見下して話すところは、好きになれませんでした。」―ヘンリー・スコット・ストークスニューヨーク・タイムス東京支局長)[34]
  • メトロのライオン」―青山二郎
  • 「育ちのいい生粋の野蛮人」「次郎はあまりに野心がないから誤解を受けるんだ」「“芸術家的孤独”とでもいうかな」―今日出海
  • 「次郎さんは大変な負けず嫌いだったから、負けそうになると“おい、ちょっと待て”“お前、ほんとにそれでいいのか、いいのか?”と威嚇して相手の手を変えさせるのが得意だった」―細川護熙(子供時代、軽井沢での日々を回想して)
  • 「占領期間中、白洲さんはとにかくよく占領軍に楯ついていましたよ」「当時マスコミで言われていた“白洲の側近政治”なんていう批判はまったくあたらない」「白洲さんが外資からコミッションをとるなんていうことは絶対ありえませんね」―宮澤喜一
  • “Mr.Why”“Difficult Japanese”“Sneaking eel”―GHQ内部における次郎の渾名
  • 「日本人らしくない身ぶりで、実際、調子のいい男だったよ」―民政局法規課長マイロ・E・ラウエル陸軍中佐
  • 「白洲がいなかったら、吉田はその数ヶ月後に首相になることはなかったかも知れない」―古関彰一(日本国憲法制定において“汚れ役”を演じた次郎を評して)
  • 「あいつはバガボンド(放浪児)だ」―楢橋渡
  • 「ミスター・ヴィトー(拒否権)」―吉田茂が外相だった当時、外務省内で次郎がつけられた渾名
  • 「白州三百人力」吉田茂が首相当時、ブレーンであった彼の能力を称えて言った言葉。
  • 「白洲は実際すばしこい男で、球をかかえてタックルをすり抜けて走るフットボールの選手に似ていた」―チャールズ・L・ケーディス
  • 「それには経済をよく知っておって、日本のことをよく知っておって、合理的にアメリカの考え、発想法にもとづいて、向うに反対できる男を見つけなければいかんということで、死に物狂いになって見つけたんだろうな」―伊藤昌哉(第二次吉田内閣の蔵相として池田勇人が抜擢された時の次郎の行動を振り返って)
  • 「考えてみれば、僕が作文して白洲さんが『よし』と言って通産省ができちゃったんだから、乱暴な話ですがね」―永山時雄
  • 「彼は一種の文明批評家、しかも実践的な文明批評家である。日本の政界、財界の“古い政治”をブチ壊してみたいといつも思っているのだろう」―河上徹太郎
  • 「白洲天皇」「側近政治」「ラスプーチン」―吉田茂の片腕として政治に携わっていた頃の次郎に対するマスコミ評
  • 「白洲は舌たらずなところがあるから国会の答弁はちょっと無理じゃないですか。やめたほうがいいですよ」―松本重治(吉田が次郎の国務大臣就任を打診してきた時の一コマ)
  • 「東京電力のもつ水利権を事実上奪った白洲の政治力も、腰は抜けているが野心だけは人一倍の閣僚どもを側近の威光を笠に丸めこんだもので、ある意味では天晴れな力量ともいえるだろう」―『経済往来』
  • 「白洲次郎君など、外国人と話していても、それに対する勘が我々とまるっきり違うですね」―吉田茂
  • “wonderful secret weapon”(素晴らしき秘密兵器)―サー・シグモンド・ウォーバーグ
  • 「吉田が富士なら白洲は宝永山」―大宅壮一
  • 「昔も今も白洲次郎のような人に会ったことがない。それは、自分の感じたこと思ったことを修辞を施さずに口にして憎まれない人という意味である」―辻井喬
  • 「吉田側近として活躍していた昭和20年代後半は、元首相の威を借る「日本のラスプーチン」と呼ばれ、すこぶる評判が悪かったという。高く評価されるようになったのは、吉田氏同様、死後しばらく経(た)ってからだった」―乾正人[35]
  • 昭和天皇侍従長であった入江相政の日記(入江相政日記)には、天皇の白洲評と解される記述がある。同日記の1975年(昭和50年)9月10日[36]の文章に、「五時前安井副長(安井芳郎式部副長)来。奥村勝蔵[37]氏が死の床につき乍(なが)らつまり思召を気にしてゐるとのこと。吹上(吹上御所)で拝謁。うかゞつたら『奥村には全然罪はない、白洲がすべてわるい、だから吉田(吉田茂)が白洲をアメリカ大使にすゝめたが、アメリカはアグレマンをくれなかつた』との仰せ。安井さんにすぐ伝へる。」とある。

白洲次郎を取り上げた作品

宝塚歌劇

宝塚歌劇団宙組(そらぐみ)は、2008年平成20年)に「黎明の風」という題名で白洲の波乱の生涯を扱った。2月、宝塚大劇場で初演。同大劇場は宝塚歌劇団の本拠地であり、兵庫県宝塚市は白洲家の出身地である三田市の隣町でもある。2 - 3月は宝塚大劇場で、4 - 5月は東京宝塚劇場で上演。5月にDVDやCDも発売。白洲を演じたのは同歌劇団理事で専科の轟悠。マッカーサー(大和悠河)や吉田茂(専科の汝鳥伶)をタカラジェンヌが演じ話題となった。

白洲は東宝に大きな影響を持ち(本人はフィルム納入等で直接関係を持ち義兄・樺山丑二は東宝取締役、長男・春正は元東宝東和社長)、また前述のとおり白洲が神戸一中時代にタカラジェンヌと知り合いガールフレンドとしたことなど宝塚歌劇団に対する様々なエピソードを持ち、劇中でも触れられている部分がある。

その他の作品

家系

白洲家

白洲家は、摂津国三田藩(現・兵庫県三田市を中心とした地域)の儒学者の家柄で祖父・白洲退蔵文政12年7月15日1828年8月15日)、現・兵庫県三田市屋敷町にて出生。父(曽祖父)は白洲文五郎、母(曽祖母)は播磨国小野藩(現・兵庫県小野市一柳氏家老黒石氏の娘・里子[38])は三田藩儒。明治維新後は鉄道敷設などの事業を興し、一時横浜正金銀行の頭取も務めた。また現在の元町三宮といった神戸港周辺の神戸市の都市開発や神戸ホーム(神戸女学院大学の前身)の創立にも尽力した。

父・白洲文平ハーバード大学卒業後、三井銀行、鐘淵紡績(カネボウ、現・クラシエ)を経て綿貿易で巨万の富を築き豪放磊落な人柄で「白洲将軍」と呼ばれた。

子孫

略年譜

  • 1902年(明治35年) - 2月17日、現在の兵庫県芦屋市にて誕生。
  • 1914年(大正3年) - 神戸一中入学。
  • 1919年(大正8年) - 神戸一中卒業後、イギリスに渡航。
  • 1924年(大正13年) - ケンブリッジ大学に聴講生として留学。
  • 1928年(昭和3年) - 白洲商店倒産。この頃、帰国。
  • 1929年(昭和4年) - ジャパン・アドバタイザー入社。11月19日、正子と結婚。この頃、正子の父を通じて吉田茂と知り合う。
  • 1931年(昭和6年) - 2月5日、長男春正誕生。セール・フレイザー商会入社、取締役となる。この頃から頻繁に渡欧。
  • 1937年(昭和12年) - 日本食糧工業(後の日本水産)取締役就任。やがて取締役外地部長となる。この頃、近衛文麿と知り合う。
  • 1938年(昭和13年) - 1月3日、次男兼正誕生。
  • 1940年(昭和15年) - 6月3日、長女桂子誕生。
  • 1942年(昭和17年) - この頃、日本水産を退職し帝国水産理事就任。この頃、南多摩郡鶴川村(現在の町田市)にて農家を購入。
  • 1943年(昭和18年) - この頃、鶴川村へ転居(=武相荘)。
  • 1945年(昭和20年) - 終戦連絡事務局参与に就任。
  • 1946年(昭和21年) - 2月、日本国憲法制定作業に参加。3月1日、終戦連絡事務局次長に就任、高等官一等となる。12月、経済安定本部次長に就任。この頃、読売争議に介入。
  • 1947年(昭和22年) - 終戦連絡事務局次長を退任。
  • 1948年(昭和23年) - 12月、貿易庁長官に就任。
  • 1949年(昭和24年) - 5月24日、貿易庁長官退任。翌25日、通商産業省設立。この頃、日本製鐵広畑製鉄所の外資売却問題騒動。
  • 1950年(昭和25年) - 4月25日、吉田茂首相の特使として訪米。この頃、アメリカ大使就任の話が出るが頓挫。この頃、旧日本軍播磨造兵廠払い下げ問題。この頃、日本輸出入銀行設立に奔走。
  • 1951年(昭和26年) - 5月1日、東北電力会長就任。9月8日、サンフランシスコ講和条約調印に立ち会う。この頃、「日本のラスプーチン」など白洲バッシング多数。
  • 1952年(昭和27年) - 軽井沢ゴルフ倶楽部理事長就任。11月19日、外務省顧問に就任。吉田首相の特使として欧米視察。
  • 1953年(昭和28年) - 2月、吉田首相の特使としてヨーロッパ視察。吉田の命を受けてチャーチルに面会しようとしたが果たせず。
  • 1955年(昭和30年) - 旧日本軍四日市燃料廠払い下げ問題。
  • 1959年(昭和34年) - 4月10日、東北電力会長退任。
  • 1966年(昭和41年) - 東京赤坂に転居。
  • 1982年(昭和57年) - 2月、軽井沢ゴルフ倶楽部常任理事に就任。
  • 1985年(昭和60年) - 11月28日、死去。

脚注

注釈

  1. ^ 古い書籍では自身でプロフィールを東京生まれとしている[1]

出典

  1. ^ 安藤良雄『昭和経済史への証言(下)』毎日新聞社、1966年、411頁。 
  2. ^ 牧山桂子ほか『白洲次郎の流儀』より
  3. ^ 『白洲次郎』コロナブックス p.24。
  4. ^ 『白洲次郎 占領を背負った男』(講談社文庫 上巻)より
  5. ^ 白洲次郎、旧白洲邸 武相荘、2014年4月18日閲覧。
  6. ^ 『白洲次郎』コロナブックス p.36。
  7. ^ 『白洲次郎』コロナブックス p.42。
  8. ^ 『白洲次郎』コロナブックス p.40。
  9. ^ 『白洲次郎』コロナブックス p.42。
  10. ^ 『白洲次郎 占領を背負った男』(講談社文庫 上巻)
  11. ^ 河上徹太郎「メトロのライオン 白洲次郎」 『文藝別冊 総特集 白洲次郎』、(河出書房新社 2002年)に再録。他に青柳恵介『風の男 白洲次郎』(新潮文庫)など
  12. ^ 武相荘だより 〜白洲邸 折々の記〜”. まぐまぐ. 2014年3月18日閲覧。
  13. ^ 徳本栄一郎「白洲次郎 知られざる素顔」(「文藝春秋」2008年10月号)
  14. ^ いわゆる「ジープウェイ・レター」。ホイットニーからの返事が国立国会図書館に保存されている(紹介ページ)。
  15. ^ 徳本栄一郎 「英国機密ファイルの昭和天皇」 新潮社 2007年
  16. ^ 徳本栄一郎 「英国機密ファイルの昭和天皇」 新潮社 2007年
  17. ^ 外交史料 Q&A昭和戦後期”. 外務省. 2014年3月18日閲覧。
  18. ^ 『白洲次郎』コロナブックス p.84。
  19. ^ 西村熊雄『サンフランシスコ条約日米安保条約』中央公論新社(1999.7)P234,P235
  20. ^ ドラマのみどころ”. NHKドラマスペシャル白洲次郎公式サイト. NHK. 2014年3月18日閲覧。[リンク切れ]
  21. ^ 文藝春秋 2008年10月号「白洲次郎 知られざる素顔」文藝春秋_081001[リンク切れ]
  22. ^ 2006年平成18年)4月にNHK番組『その時歴史が動いた』でも取り上げられた。[出典無効]
  23. ^ 青柳恵介『風の男 白洲次郎』
  24. ^ 開運!なんでも鑑定団 2009年6月30日放送[リンク切れ]
  25. ^ 『白洲次郎 占領を背負った男』(講談社文庫 上巻)では、ホイットニー准将は、アイビーリーグではないジョージワシントン大学出身であり、白洲次郎の「もう少し勉強」と言う言葉は「あなたも、もう少し勉強すればオックスブリッジに入学できてオックスブリッジアクセントを喋る資格を所有できる」、「あなたももう少し勉強すればオックスブリッジアクセントのことが解って、そのような失礼なことを発言しなくなる」などの皮肉が入っていたとされる
  26. ^ 桜田武鹿内信隆『いま明かす戦後秘史 (下巻)』、サンケイ出版、1986年、58-60頁
  27. ^ 朝日新聞の中村省吾と東京新聞の酒井米夫。
  28. ^ 『文藝別冊 総特集 白洲次郎』、62-65頁(河出書房新社 2002年)
  29. ^ a b 『叙情と闘争 ―辻井喬+堤清二回顧録―』 中央公論新社 2009年 313-314頁 ISBN 4-12-004033-X
  30. ^ a b c 松崎隆司『堤清二と昭和の大物』 光文社 2014年 249-252頁 ISBN 978-4-334-97801-3
  31. ^ だが両者と交流のあった江藤淳は「宰相宮沢喜一論」で、白洲の厳しい宮沢評を述べている。『大空白の時代』(PHP、1993年7月)に収録。
  32. ^ 『東北電力株式会社50年のあゆみ』
  33. ^ 死の数年前、何日かにわたって古いかばんを持ち出し、中の書類を次々に火にくべていたという。長女の桂子が「何を燃やしているの?」と尋ねるとそれには答えず、「こういうものは、墓場まで持っていくもんなのさ」と言って、焼却炉から立ち上る煙をじっと見上げていたという『白洲次郎 占領を背負った男』。
  34. ^ ヘンリー・S・ストークス (77) =元NYT東京支局長=「反日プロパガンダに惑わされず、誇りある国になってほしい」 産経新聞 2015.8.1
  35. ^ http://sankei.jp.msn.com/politics/election/090907/elc0909070818002-n2.htm [リンク切れ]
  36. ^ 入江相政『入江相政日記』 5巻、朝日新聞社、1991年、169頁。ISBN 4-02-256294-3 
  37. ^ 同書の注解(200-201頁)によれば「奥村正蔵 元外交官。(1975年(昭和50年)9月)26日に死去する。天皇とマッカーサー元帥の初の会見、四回目の会見の二回通訳をつとめた。第四回会見の内容がアメリカの報道機関にもれた責任を問われて懲戒免職となり外務省情報部長のイスを追われた。情報をもらしたのは別人だったのだが、「天皇に誤解されていては自分は死にきれない」と、死の床にのぞんでお伺いをした。」とある。
  38. ^ 高田義久. “大参事白洲退蔵”. 2014年3月18日閲覧。[リンク切れ]

参考文献

  • 白洲次郎 『プリンシプルのない日本』 ワイアンドエフ、2001年/新潮文庫、2006年6月
  • 白洲正子 『白洲正子自伝』、『遊鬼』 各新潮社、新潮文庫、のち<全集> 新潮社
  • 青柳恵介、序文白洲正子 『風の男 白洲次郎』 新潮社、1997年11月
  • 『文藝別冊 白洲次郎』 <KAWADE夢ムック> 河出書房新社、2002年4月、増補新版2016年3月
  • 『白洲次郎の流儀』<とんぼの本> 新潮社、2004年9月、ISBN 4-10-602118-8
  • 『白洲次郎』<コロナ・ブックス67> 平凡社、1999年、ISBN 4-582-63364-1。この2冊はヴィジュアル本
  • 北康利 『白洲次郎 占領を背負った男』 講談社、2005年、ISBN 4-06-212967-1
  • 北康利 『レジェンド伝説の男 白洲次郎』 朝日新聞出版、2009年/朝日文庫、2012年
  • 鶴見紘 『白洲次郎の日本国憲法光文社知恵の森文庫、2007年
  • 徳本栄一郎 『英国機密ファイルの昭和天皇』 新潮社、2007年5月/新潮文庫、2009年11月
    • ※実際には、本書の主人公は白洲次郎。続編に 『1945日本占領 フリーメイスン機密文書が明かす対日戦略』 新潮社、2011年2月
  • 須藤孝光 『1946 白洲次郎と日本国憲法』 新潮社 2010年4月
  • 須藤孝光 『白洲次郎 日本を復興させた男』 新潮社 2011年8月
  • 白洲信哉 『白洲次郎の青春』 幻冬舎、2007年※主に写真集
  • 白洲信哉 『白洲家の流儀 祖父母から学んだ「人生のプリンシプル」』 小学館101新書、2009年
  • 牧山桂子 『次郎と正子 娘が語る素顔の白洲家』 新潮社、2007年4月/新潮文庫、2009年12月
  • 牧山桂子 『武相荘のひとりごと 白洲次郎・正子の娘が語る』 世界文化社、2012年
  • 牧山桂子・青柳恵介・須藤孝光 『白洲次郎と白洲正子 乱世に生きた二人』 新潮社、2008年9月
  • 牧山圭男 『白洲家の日々 娘婿が見た次郎と正子』 新潮社、2012年4月/新潮文庫、2015年
  • 牧山桂子・野中昭夫写真 『白洲次郎・正子の食卓』 新潮社、2007年1月
  • 牧山桂子・野中昭夫写真 『白洲次郎・正子の夕餉』 新潮社、2008年12月
  • 石井妙子 『おそめ 伝説の銀座マダム』 新潮社、2006年1月/新潮文庫、2009年4月、※白洲はバー「おそめ」の常連。
  • 犬丸一郎 『軽井沢伝説 避暑地・軽井沢に集った名士たちとの半世紀』 講談社、2011年7月
    • ※「第3章 白洲次郎の息吹が聞こえる―軽井沢ゴルフ倶楽部」
  • 馬場啓一 『白洲次郎の生き方』 講談社、1999年、講談社文庫、2002年5月
    • 改訂版 『白洲次郎のダンディズム なぜ男らしくありえたのか』 ぶんか社文庫、2008年
  • 清水将大編著 『白洲次郎 男の語録 プリンシプルに生きよ』 シーエイチシー 2010年
    • 他に、白洲次郎「語録」は宝島社、 笠倉出版社、英和出版社で出版。各・2015年
  • 勢古浩爾 『白洲次郎的』 洋泉社新書y、2004年
  • 青木高夫 『白洲次郎に学ぶビジネスの教科書』講談社、2015年。 ISBN 978-4-06-219502-7

関連項目

  • 河上徹太郎 - 昭和20年(1945年)3月の東京大空襲(ないし5月の山手空襲)で焼け出され、5月より約2年間鶴川の白洲邸に寄宿する。
  • 吉田満(次郎は小林秀雄・河上徹太郎の依頼で、吉田の『戦艦大和ノ最期』の出版をGHQに働きかける)
  • UBS - 旧S.G.ウォーバーグ証券。今でも受付には次郎の肖像画がウォーバーグと共に飾られている。
  • 九鬼隆義
  • 相楽園
  • トヨタ・ソアラ - 白洲次郎の最後の愛車とされる。初代モデルの改良と2代目モデルの開発に対し助言した。

外部リンク