白兵戦

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17世紀の白兵戦

白兵戦(はくへいせん、: close combat)は、刀剣などの近接戦闘用の武器を用いた戦闘のこと。現代では、近距離での銃撃戦と格闘戦も一体のものとして捉えており、距離によってCQBCQCとも分類される。

語源

白兵とは、銃剣ナイフなどの武器を総称した「白刃」を装備する兵士を意味する。弓矢投石器などの射撃武器、投擲武器を用いる遠戦対義語であり、近代戦においては火器を用いた火戦の対義語となる。

用語としての「白兵」は、明治初年に日本陸軍フランス軍歩兵操典を採用したときに、フランス語arme blanche翻訳したものとされるが、単語自体は刃物を指すのみである。

歴史

ユーラシア大陸各地では、遠戦戦闘の主体とする地域が多かったが、中世ヨーロッパにおいては白兵戦を重んじる文化が発達し、十字軍においても白兵戦を行った様子が記録されている。競技形式の戦闘が発達してからは、専門の甲冑も発達した。小競り合いや儀式的でない戦争異教徒との戦闘においては、弓矢投石機などが用いられた。

近代における白兵戦

日露戦争での、日本陸軍ロシア軍の白兵戦を描いたイラスト(1904年)

拳銃手榴弾を用いての近距離戦闘も白兵戦に含める場合がある。また、ゲリラ戦においては、火器弾薬の不足、あるいは敵に気付かれないようを出したくないなどの理由から、白兵戦が選択されることもある。

近代戦における白兵戦は、銃撃の後の最終的な突撃や、塹壕内における戦闘の際に行われることが多い。歩兵の主力ボルトアクション式の時代までは、装填間隔の長さから至近距離で複数の敵と銃で渡り合えない限界を、銃剣格闘などで補っていた。

第一次世界大戦機関銃が大々的に使用され、見通しのよい場所は火力で制圧されてしまうようになった。従来行われていた正面からの銃剣突撃は困難になり、騎兵突撃はより困難になった。これにより、歩兵の白兵戦は着剣小銃で槍衾をつくることから、塹壕や室内などの出会い頭の戦闘を行うことへと変わった。第一次世界大戦では塹壕戦となり、上まで届くような長い着剣小銃では取り回しが悪く、拳銃は扱いが難しかったため、代わって円匙ナイフでの斬り合い刺し合いとなり、果てはヘルメットや、手製の棍棒で殴り合うことすら珍しくなかった。また、トレンチナイフという専用の武器まで作られた。しかし、大戦末期には近接戦闘に特化した短機関銃が実用化され、近接戦闘においても銃火器が優位を大きくした。続く第二次世界大戦末期には突撃銃(アサルトライフル)が実用化され、歩兵銃も近接戦闘能力を高めたため、白兵戦はごく限定的なものとなった。

近年の対テロ作戦で、近接戦闘の機会が再び増加したが、これも旧来の白兵戦ではなく、建物内の犯人を的確に射殺する事がメインであり、これに適した小型の火器サプレッサーの導入が進んでいる。

格闘術の訓練を廃止した軍隊も存在するが、接近戦への対応を目的とした格闘術自体は無くなっていない。イギリス軍では、第二次大戦中に格闘術フェアバーン・システムを訓練しており、フォークランド戦争イラク戦争では銃剣突撃を実施した。アメリカ陸軍での格闘術訓練は減少しているが、アメリカ海兵隊は、冷戦期にフィリピン武術「カリ」に伝わる棒術の技を基にした銃剣術を新たに制定し、現在でも兵科を問わず銃剣術や格闘術の訓練を実施している。イスラエルでは、格闘術「クラヴ・マガ」が特殊部隊警察の対テロリスト部隊で訓練されている。

軍の予算が不十分な場合、低予算でも訓練可能な白兵戦が訓練項目として注目される場合もあり、隊員の戦意高揚にも役立つといわれる。

本来の定義からは外れるが、現代戦では大砲ミサイルなどによる距離を置いた砲撃戦と対比して(特に航空機艦艇などの乗員がやむなく拳銃や軽機関銃で)、近距離の銃撃戦を行う場合などにも「白兵戦」という言葉が使われることがある。

また、珍しい場合では珊瑚海海戦において大日本帝国航空母艦翔鶴の搭載機が米空母に着艦しかけるという事態が起きており、米空母側では何の迷いもなく着艦コースに入る敵機にパニックになったらしく、副長が白兵戦用意の号令をかけている。無論、空母でこんな命令が出されたのはこれが史上唯一である。 このようなことが起きた原因としては、パイロットの練度のほか、長時間に及ぶ飛行と戦闘による疲労、夕暮れ時で見えづらかった事、翔鶴型航空母艦ヨークタウン級航空母艦の大きさがほぼ同じ事等が考えられる。

日本における白兵戦

中世-近世日本では、歩兵として農閑期の農民を徴用していたため、武士に比べて白兵戦の戦果を期待できず、遠戦が主体だったという説がある[1][2]。しかし、実際には弓矢は鍛錬が必要な専門職であり、投石は限定的、鉄砲は高価であったため、正しいとは言い難い。当時は、ほとんどのは白兵戦に備えてなどの白兵武器を携帯していた。

戊辰戦争後、明治になって四民平等の世になり、徴兵制によって武士階級以外の人員で軍隊が構成されるようになると、この傾向が強まったとされる。

西南戦争田原坂の戦いでは、白兵戦能力に秀でた西郷軍に対抗できなかった政府が、警視隊の中から選抜した「抜刀隊」(機動隊の先祖)を臨時編成し、投入した。この活躍は、維新後廃れていた剣術の再評価(警視流制定など)に繋がった。

日露戦争における旅順攻囲戦奉天会戦で白兵戦に苦戦した日本軍[3]は、明治初期にフランスプロイセンの操典を翻訳して作られた陸戦の綱領『歩兵操典』を、1909年に改訂した。この操典の綱領では「戦闘に最終の決を与えるのは銃剣突撃とす」としていた。

当時の欧州先進各国陸軍も、敵軍殲滅のための包囲機会を形成するのに敵陣の突破が必要である以上、白兵突撃は必要不可欠であるとしていた[4]。これは、第一次世界大戦における砲の集中使用と機関銃の大量配備によって否定されたが、火戦の後、最終的に白兵戦で敵陣を殲滅するという考え方は残った。日本もこの状勢から、第一次大戦におけるドイツ浸透戦術を取り入れ、砲、機関銃による十分な攻撃の後の白兵突撃戦術を発展させ、その後の満洲事変支那事変において戦果をあげた。

大正-昭和初期にかけて、陸軍戸山学校は、複数の剣術家の助言を得ながら近代戦に適合する軍刀術を制定した(この軍刀術は、太平洋戦争後、戸山流居合道となった)。

日本軍の銃剣術は優秀で、兵士の練度も高く、太平洋戦争初期の自動小銃が広まっていない段階では米兵に対して優位に立ったが、米軍が反攻に転じたガダルカナル島の戦い以降は、火力に優れるアメリカ軍に対して白兵突撃はほぼ無力であった。補給の停滞で重火器の欠乏した南方戦線においては、敵に対して正面から強引に斬り込む、いわゆる「バンザイ突撃」(もしくは夜襲)しか抵抗手段がなく、部隊ごと壊滅するといった損害を被った。1942年以降、米軍にはM1ガーランドトンプソン・サブマシンガンBARが普及したのに対し、日本軍小銃ボルトアクション式三八式歩兵銃九九式短小銃が中心で、軽機関銃はおろか半自動銃さえ普及していなかったことも苦戦の原因となった。

戦後、自衛隊では、自衛隊格闘武器技術によって白兵戦への対応を行っている。64式小銃に装着する64式銃剣の全長が長い(41cm)のは、日本軍の三十年式銃剣(51cm)と、当時、陸上自衛隊で採用していた7.62mm小銃M1M4銃剣の刃長の中間としたためで、現在の89式小銃銃剣は標準的な長さ(27cm)となっている。

陸上自衛隊の、一般幹部自衛官礼装では、国際儀礼上必要がある場合などに限って佩刀を認めている。

参考資料

  1. ^ 異論もある。足軽騎馬隊の項を参照
  2. ^ 鈴木眞哉2001『謎解き日本合戦史』講談社
  3. ^ 日露戦役ノ実験上ヨリ得タル戦術 / 厚生堂編輯部編 厚生堂 明39
    日露戦ノ与フル戦術上ノ教訓 / 武章生著 川流堂 明44
  4. ^ 白兵主義 / 関太常著 兵林館 明43

関連項目

外部リンク