町田也真人

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町田 也真人
名前
愛称 ヤマト
カタカナ マチダ ヤマト
ラテン文字 MACHIDA Yamato
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1989-12-19) 1989年12月19日(34歳)
出身地 埼玉県浦和市(現:さいたま市
身長 166cm
体重 55kg
選手情報
在籍チーム 日本の旗 大分トリニータ
ポジション MF
背番号 8
利き足 右足
ユース
2005-2007 埼玉栄高等学校
2008-2011 専修大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
2012-2018 日本の旗 ジェフユナイテッド千葉 153 (22)
2019 日本の旗 松本山雅FC 13 (0)
2020- 日本の旗 大分トリニータ 88 (9)
1. 国内リーグ戦に限る。2023年11月12日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

町田 也真人(まちだ やまと、1989年12月19日 - )は、埼玉県出身のプロサッカー選手Jリーグ大分トリニータ所属。ポジションはミッドフィールダー

実父の町田隆治は浦和サッカー少年団指導者協議会技術委員会副委員長[1]

来歴[編集]

プロ入り前[編集]

埼玉栄高校では、監督のセルヒオ・エスクデロの下3年生で埼玉県予選を制し、同校史上初の全国高校サッカー選手権出場を達成した。専修大学に進学後はトップ下として活躍し、4年次には中心選手として関東大学サッカーリーグ戦1部および全日本大学サッカー選手権での優勝を果たした。専修大学では同学年に庄司悦大、2学年下に長澤和輝らがいる。大学ではチームの快進撃を支える中心選手だった一方、「あの(小柄な)体格ではプロは厳しい」というプロ関係者の評価もあった[2]。その中でジェフユナイテッド千葉から継続的に高評価を受け、2011年8月の天皇杯東京都予選、横河武蔵野FC(現・東京武蔵野シティFC)・FC町田ゼルビアとの対戦での活躍後、獲得オファーに至った[2]

プロ入り後[編集]

2012年、J2・ジェフユナイテッド千葉に加入。3年目の2014年は出場機会を増やし、J1昇格プレーオフ決勝戦に先発出場を果たしたが、決定機を外すなど本来のパフォーマンスを発揮できず、チームも0-1でモンテディオ山形に敗れた。その後、町田の元には「お前のせいだ」というメッセージが寄せられたという[3]

2015年より背番号を14に変更。序盤戦は先発の座を守っていたが、シーズン途中のシステム変更を機に一転ベンチ外となり、出場機会が激減した。同年オフにはチームを去る覚悟を決めていたというが、監督・関塚隆の希望もあり残留を決断した[3]。2016年も開幕直後は先発出場機会が無かったが、第10節・水戸ホーリーホック戦で先発に抜擢されると主力に定着。得点力不足の克服の為、シュート練習に取り組んだ成果が実り[3]、11得点を挙げチーム得点王となった。

2017年より背番号を10に変更し、副キャプテンに就任[4]。引き続き主力として6得点8アシストの活躍を挙げた。オフにはJ1へ昇格した名古屋グランパスからオファーを受けると一時は移籍へと気持ちが傾いたが、クラブ・サポーターからの慰留に応え千葉との契約を更新した[5][6]。2018年5月、第14節・アルビレックス新潟戦で全治約3ヶ月の左肩関節脱臼の怪我を負い長期離脱となった[7]。シーズン後半はキャプテンとして千葉を引っ張ったが、目標のJ1昇格には届かないどころか、クラブ史上最低のJ2・14位でシーズンを終えた。同年オフ、複数のクラブから移籍オファーが届き、「今チャレンジできない選手が、2年後、3年後に生き残っているのか[6]」という理由から移籍を決意した。

2019年、松本山雅FCに完全移籍[8]。自身初のJ1挑戦となった中、J1第24節・浦和レッズ戦では途中出場から2得点の起点となり逆転勝利の立役者となる活躍を見せたが[9]、度重なる負傷の影響もありリーグ戦の先発機会は5試合にとどまった[10][11]

2020年、大分トリニータに完全移籍[12]。31歳の誕生日であった12月19日のJ1第34節・サガン鳥栖戦でJ1初ゴールを記録[13]。翌2021年は開幕からスタメンに定着し昨シーズンより出場機会を増やすと、リーグ戦チーム最多となる8得点を記録[14]。チームは同シーズン18位に終わりJ2降格が決まったが、天皇杯決勝を6日後に控えた12月13日に契約更新が発表された[15]

エピソード[編集]

  • 2013年 - 2014年にかけてジェフユナイテッド千葉に在籍していたケンペスのゴールでプロ初アシストを決めた際、ケンペス自身が愛用していた腕時計をプレゼントとして貰った。その後故障して動かなくなっていたが、ケンペスが飛行機事故で急逝したことを受けて、修理してもう一度使うことを示唆している[16]
  • 専修大学3年時に就活を経験。ブライダル業「ノバレーゼ」との面接では、プロサッカー選手への道を諦められないことを伝えた結果、人事担当者に「今はサッカーに専念した方がいい。もしプロになれなかったときは、うちに連絡してください」と言われ改めてプロを目指すことを決意。4年時にはチームを関東大学リーグ優勝などに導く活躍を見せ、9月にジェフユナイテッド千葉から正式オファーを受けた。入団内定後の全日本大学選手権決勝では面接した人事担当者が応援に駆けつけ、そこで町田は全3ゴールに絡む大活躍を見せた。プロ入りから3年後には、町田はノバレーゼで結婚式を挙げたという[2]
  • ジェフユナイテッド千葉時代の監督であった関塚隆については、「なんなんだ、この人は。っていつも思っていました(笑)。でも、間違いなく、僕を一番成長させてくれた監督でしたね。」と語っている[3]
  • 2019年10月3日、自身のTwitterを更新し、幼少期に耳かきをさしてしまった事が原因で右耳が聞こえないことを報告した[17]。本人のツイートによると小学校1年生の時に「手術すれば半々の確率で治る」と言われたが「これで育ってきたので不便さは感じていません」とのこと。また、1番大変だったのは、学校で後ろからトントンされてヒソヒソ話をされた時で「めんどいときは、全く聴こえてないけど、「そうなんだー」で乗り切ってました笑 乗り切れてない時いっぱいあったけど」とツイート。この件に関して地頭薗雅弥は「こういうことを明るく言えるのが、ヤマトの強さ。」とツイートしているが、これに対して町田自身は「あほなだけ笑 それと重く受け止めてない」と返信している。また、ファンに向けては「話しかけて僕が気付かなかったらそれはしかとではありません なので気付くまで話しかけて下さいね笑」とツイートしている。

所属クラブ[編集]

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2012 千葉 28 J2 7 0 - 2 0 9 0
2013 9 0 - 2 0 11 0
2014 27 0 - 4 1 31 1
2015 14 17 1 - 2 1 19 2
2016 32 11 - 3 0 35 11
2017 10 36 6 - 2 0 38 6
2018 25 4 - 0 0 25 4
2019 松本 25 J1 13 0 3 1 0 0 16 1
2020 大分 8 19 1 1 0 - 20 1
2021 32 8 2 0 3 0 37 8
2022 J2 19 0 1 0 0 0 20 0
2023 18 0 - 0 0 18 0
2024
通算 日本 J1 64 9 6 1 3 0 73 10
日本 J2 190 22 1 0 15 2 206 24
総通算 254 31 7 1 18 2 279 34

その他公式戦

  • 2013年
  • 2014年
    • J1昇格プレーオフ 1試合0得点
  • 2017年
    • J1昇格プレーオフ 1試合0得点

タイトル[編集]

クラブ[編集]

埼玉栄高校
専修大学

個人[編集]

  • 関東大学サッカーリーグ戦1部 ベストイレブン(2011年)
  • 全日本大学サッカー選手権大会 ベストフォワード賞(2011年)

選抜歴[編集]

  • 2010年 関東大学選抜

脚注[編集]

  1. ^ レッズジュニアアカデミープログラムとFC浦和のその後 浦和フットボール通信 2012年1月27日
  2. ^ a b c 就活生に贈るジェフ町田也真人物語。人生を変えたブライダル会社の面接。 NumberWeb 2018年4月25日
  3. ^ a b c d 反骨心で勝ち取った信頼を自信に変えて J1の舞台に挑む町田也真人の覚悟 【前編】”. KING GEAR (2019年1月21日). 2020年1月30日閲覧。
  4. ^ “2017シーズン新キャプテン決定のお知らせ”. ジェフユナイテッド市原・千葉. (2017年1月18日). https://jefunited.co.jp/news/2017/01/top/14847372009865.html 
  5. ^ 千葉No.10町田也真人、「とても光栄」名古屋からのオファー認めるも断って残留 ゲキサカ
  6. ^ a b 反骨心で勝ち取った信頼を自信に変えて J1の舞台に挑む町田也真人の覚悟 【後編】”. KING GEAR (2019年1月22日). 2020年1月30日閲覧。
  7. ^ 町田也真人選手の負傷及び手術について ジェフユナイテッド市原・千葉
  8. ^ 町田也真人選手 完全移籍加入のお知らせ 松本山雅FC 2018年12月17日
  9. ^ 反町監督が認める松本MF町田也真人の“3つの力””. ゲキサカ. 講談社 (2019年8月24日). 2022年5月11日閲覧。
  10. ^ 町田也真人選手の負傷について』(プレスリリース)松本山雅FC、2019年6月4日https://www.yamaga-fc.com/archives/1759102020年1月30日閲覧 
  11. ^ 町田也真人選手の負傷について』(プレスリリース)松本山雅FC、2019年11月11日https://www.yamaga-fc.com/archives/1888292020年1月30日閲覧 
  12. ^ 町田也真人選手 松本山雅FCより完全移籍加入のお知らせ』(プレスリリース)大分トリニータ、2019年12月26日https://www.oita-trinita.co.jp/news/20191256023/2019年12月27日閲覧 
  13. ^ 九州ダービーは打ち合いで痛み分け/鳥-分最終節”. 日刊スポーツ (2020年12月19日). 2020年12月21日閲覧。
  14. ^ 大分トリニータ 町田也真人 小さなエースは最後まで輝きを放つ”. オー!エス!. 大分合同新聞、テレビ大分 (2021年12月3日). 2022年5月11日閲覧。
  15. ^ 【大分】町田也真人は「勝たなければ記憶にも歴史にも残らない」。勝てなかった「甘さ」を捨てる未来へ”. ベースボールマガジン社. サッカーマガジンWeb (2021年12月20日). 2022年5月11日閲覧。
  16. ^ “【千葉】町田、ケンペスからもらった時計また使う…半旗掲げ黙とう”. スポーツ報知. (2016年12月1日). https://web.archive.org/web/20161201081011/http://www.hochi.co.jp/soccer/national/20161130-OHT1T50266.html 2016年12月1日閲覧。 
  17. ^ “松本MF町田也真人が告白「実は右耳が聞こえません」”. ゲキサカ. (2019年10月3日). https://web.gekisaka.jp/news/detail/?286849-286849-fl 2019年10月4日閲覧。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]