甲木清実
甲木 清實(かつき きよみ、1919年(大正8年)4月10日 - )[1]は、日本海軍の水上機操縦員。
「ジェロニモ」の異名を持つエース・パイロットで、日本海軍で2名しかいない水上機エースのうちの1人[2]。
零式水上観測機に搭乗し、南方戦線で戦果を挙げた。実戦部隊では零式観測機を皮切りに幾多の機種に搭乗した。各地を転戦しつつ太平洋戦争を生き延びた。
略歴・戦歴
- 大正8年4月10日 福岡県三潴郡蒲池村(現:柳川市の一部)で生まれる。
- 昭和13年6月 海軍佐世保海兵団に入団。
- 昭和16年5月 第54期操縦練習生を卒業し二座水上機の操縦員となる。鹿島海軍航空隊、館山海軍航空隊、博多海軍航空隊での勤務を経て、水上機母艦千歳乗組となる。乗機は零式観測機。
- 昭和17年1月11日 セレベス島北部のケマで上陸支援中、オランダ軍のPBY飛行艇を1機撃墜。
- 昭和17年9月 千歳の飛行機隊はR方面航空部隊に編入。甲木もショートランドに移動。
- 昭和17年10月4日 YI-23号機にて水上機母艦日進ほかの輸送船団を護衛中、B-17爆撃機を体当たりで撃墜。甲木(当時の階級は一等飛行兵[3])と後席偵察員寶田三千穂二等飛行兵曹(昭和18年1月27日戦死)は駆逐艦秋月に救助された。甲木と寶田は本件により10月10日付で千歳艦長古川保大佐から褒状を授与され、特別善行章一線も付与される。
- 昭和18年2月 R方面航空部隊解散。のち、甲木は第四五二海軍航空隊水戦隊へ転勤し、乗機が二式水上戦闘機となる。
- 昭和18年8月~10月 占守島での防空戦においてB-25爆撃機1機を単独撃墜(日付不詳)、9月12日には幌筵島上空でB-24爆撃機2機を共同撃墜。当時の階級は二等飛行兵曹[4]。10月に第四五二海軍航空隊から水戦隊が除かれ、甲木は潜水艦イ36で内地に帰還した。帰還後は横須賀海軍航空隊で水上戦闘機強風の訓練に従事し、訓練終了後に第九三四海軍航空隊へ転勤する。
- 昭和19年1月16日 アンボン付近でB-24爆撃機1機を単独撃墜。これは強風による初の撃墜戦果とされる。[5]
- 昭和19年3月 第三八一海軍航空隊へ転勤。4月に戦闘機隊に配属される。乗機は零式艦上戦闘機。バリクパパン、次いでシンガポールと転戦し、シンガポールではB-24爆撃機2機を単独撃墜する。
- 昭和20年2月 内地に帰還。大村海軍航空隊、第三三二海軍航空隊、第三五二海軍航空隊へ転勤。乗機は零式艦上戦闘機および雷電。兵庫方面での防空戦闘に従事しつつ敗戦を迎える。最終階級は飛行兵曹長。甲木の総撃墜戦果は16機で、そのうちの7機が水上機によるものだった。[6][7]
脚注
- ^ 書籍によって清実あるいは清美と記述される。本稿では昭和17年10月10日付千歳艦長署名の褒状に記載された清實を用いる。
- ^ サカイダ、p. 42。
- ^ サカイダ、p. 68およびp. 109。
- ^ サカイダ、p. 43-44。
- ^ コーエー(2006年)では、これを第九四三海軍航空隊の戦果としているが、そのような名の海軍航空隊は歴史上存在しない。
- ^ コーエー(2005年)、78頁およびモデルアート(1994年)、58頁。
- ^ サカイダ、p. 45。
出典
- 戦史叢書 第83巻 『南東方面海軍作戦2 ガ島撤収まで』、朝雲新聞社、1975年。
- モデルアート No. 439 11月号臨時増刊 『海軍航空英雄列伝 -戦功表彰者達の戦歴-』、モデルアート社、1994年。
- ヘンリー・サカイダ 『オスプレイ軍用機シリーズ1 日本海軍航空隊のエース 1937-1945』、大日本絵画、2000年、ISBN 4-499-22712-7。
- AEROミリタリーコレクション2 『日本海軍戦闘機パート1』、コーエー、2005年、ISBN 4-7758-0262-3。
- AEROミリタリーコレクション5 『日本海軍戦闘機パート2』、コーエー、2006年、ISBN 4-7758-0373-5。
- JT96 1:48 『三菱 F1M2 零式水上観測機11型(マーキング及び塗装図)』、ハセガワ、2009年。