由良 (軽巡洋艦)
艦歴 | |
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発注 | 1919年(1918年度八六艦隊計画) |
起工 | 1921年5月21日佐世保工廠[1] |
進水 | 1922年2月15日[1] |
就役 | 1923年3月20日[1] |
その後 | 1942年10月25日沈没 |
位置 | 南緯08度15分 東経159度57分 / 南緯8.250度 東経159.950度 |
除籍 | 1942年11月20日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:5,170トン 常備:5,570トン |
全長 | 162.15m |
全幅 | 14.17m |
吃水 | 4.80 m |
機関 | 90,000馬力 |
最大速 | 36.0ノット |
乗員 | 竣工時定員450名[2] |
兵装 | |
新造時 | 50口径三年式14cm単装砲 7基7門 40口径三年式8cm単装高角砲 2基2門 三年式6.5mm機銃 2挺 八年式61cm連装魚雷発射管 4基8門 飛行機滑走台 1基 飛行機 1機 機雷 48個 |
改装後 | 50口径三年式14cm単装砲 7基7門 九六式25mm連装機銃 2基4門 13 mm機銃四連装 1基4門 八年式61cm連装魚雷発射管 4基8門 呉式二号三型射出機 1基 水上機 1機 機雷敷設軌条 2基 |
由良(ゆら)は、日本海軍の軽巡洋艦(二等巡洋艦)[3]。二等巡洋艦長良型の4番艦である[4]。その艦名は、若狭湾に注ぐ由良川に因んで名付けられた[5]。太平洋戦争で喪失した日本軍最初の軽巡洋艦となった。
艦歴
由良は、大正年間に多数建造された5500トン型軽巡洋艦の長良型の一艦として建造が決まる。姉妹艦は長良、五十鈴、名取、鬼怒、阿武隈であった[6]。ただし細かい相違点はあるものの、大まかな外観から各艦を区別するのは難しい[7]。
1920年(大正9年)3月26日、建造予定の巡洋戦艦2隻、二等巡洋艦1隻に、それぞれ天城型巡洋戦艦高雄と愛宕、二等巡洋艦由良の艦名が与えられた[8]。同日附で高雄、愛宕、由良は艦艇類別等級表に登録された[9]。 由良は1921年(大正10年)5月21日佐世保工廠にて起工、翌日には竜骨を据え付ける[10]。1922年(大正11年)2月15日午前10時30分に進水[11]。1923年(大正12年)3月20日に竣工した[12][13]。 竣工から5ヶ月後の9月1日に関東大震災が発生、首都圏は甚大な被害を受けた。戦艦長門以下連合艦隊各艦は東京湾へ急派される。由良は品川方面に配置され、霧島、比叡、北上、名取、木曾、夕張等と救援活動を行った[14]。
1926年(昭和元年)12月、日本海軍の軽巡洋艦として初めて水上偵察機を搭載している。
1927年(昭和2年)8月24日、由良は島根県美保関沖で行われた夜間無灯火演習(第八回基本演習)に甲軍所属の第六戦隊(由良、龍田)として参加した[15]。加藤寛治連合艦隊司令長官は甲部隊指揮官として戦艦「長門」に乗艦。甲軍は第一戦隊(長門、陸奥)、第三戦隊(鬼怒、阿武隈)、第四戦隊(金剛、比叡)、第一戦隊第2小隊(伊勢、日向)、第六戦隊(由良、龍田)という単縦陣で航行しており、その右舷後方から乙軍《仮想敵》の第五戦隊(加古、古鷹、神通、那珂《皇族武官伏見宮博義王乗艦中[16]》および第二水雷戦隊(旗艦夕張)が接近していた[17]。戦艦伊勢、日向および由良は仮想敵(乙軍)の第五戦隊第2小隊(神通、那珂)に対し探照灯を照射、このため神通、那珂は敵艦隊(甲軍)に対する襲撃を諦めて右に転舵した[18][19]。 すると軽巡2隻は後続していた味方の乙軍(第五戦隊第1小隊《加古、古鷹》および第26駆逐隊4隻、第27駆逐隊4隻)に突っ込んだ[20]。神通と第27駆逐隊2番艦蕨が衝突(蕨は沈没)、那珂と同駆逐隊3番艦葦が衝突、両艦ともに大破する。由良は各艦と協力して蕨の生存者の救援をおこなった[21]。のちに水城圭次神通艦長は自決。一連の事故を美保関事件という。
1929年(昭和4年)4月、軽巡五十鈴において射出実験に成功した萱場式艦発促進装置が由良に移設され、約4年間の長期試験が行われたが実用化に至らず、火薬式射出機の実用化に伴い撤去されている。萱場式艦発促進装置はスプリングの力により加速をつける方式の射出機であった。
1931年(昭和6年)12月、第一艦隊・第三戦隊(司令官堀悌吉少将)に編入された。翌1932年(昭和7年)1月、軽巡大井、夕張と共に第一次上海事変で揚子江警備に出動し、3月末まで活動した。
1933年(昭和8年)7月、呉式二号三型射出機が5番主砲と6番主砲の間に装備され、従来の滑走台は廃止された。滑走台跡に、他の長良型各艦とは異なり13mm連装機銃2基が装備されたとされている。同年11月、第二艦隊・第二潜水戦隊(司令官和波豊一少将)の旗艦となった。
1934年(昭和9年)10月12日、『昭和九年特別大演習第三期對抗演習』が実施される。12日夜間演習に参加した由良は第一戦隊(金剛、霧島、扶桑、日向)の後衛として行動したが、照射攻撃の後に日向を見失ってしまう[22]。晴夜であったが、煙幕の残部があって視界は不良だった[23]。また台風の影響が残っており、各艦は操艦に苦労していた[24]。 単艦で主力部隊を捜索中の20時30分、由良は右舷方向から出現した第八戦隊の軽巡夕張と衝突事故を起こす[25][26]。夕張は軽巡名取、長良に撃沈判定を宣告した後[27]、機関故障を想定して中軸停止状態(2軸運転)であり、これが回避行動に何らかの影響を与えたと見られる[28]。 由良に浸水被害はなく、艦の損傷は軽微であった[29]。夕張は艦首を損傷して若干の浸水被害があった[30]。
日中戦争
1935年(昭和10年)2月12日に軍令部第一課が内示した1941年度帝国海軍戦時編制において由良(改)は第1潜水戦隊旗艦を予定、航続距離の延長、水偵2機以上搭載を検討されている[31]。同時期、イギリス海軍はC級軽巡洋艦の一部を防空巡洋艦に改造していた[32]。日本海軍も呼応して天龍型軽巡洋艦、球磨型(五五〇〇トン型)、最上型軽巡1番艦最上、空母鳳翔の防空艦改造を検討した[32]。これらの防空艦は、主力艦(大和型戦艦等)や空母の護衛を担う艦隊随伴防空艦と、泊地(局地)用防空艦の二種類があったという[32]。由良型(5500トン型)の場合、六五口径九八式一〇糎高角砲14門(連装砲塔7基)、25mm連装機銃4基8梃、爆雷60個、排水量(公試状態)7,178トン、速力32.3ノット、航続力18ノット3,750海里を予定していた[33]。だが第四次海軍軍備充実計画(マル4計画)で秋月型駆逐艦が建造されることになり、これらの計画は中止された[32]。
1936年(昭和11年)12月、由良は第一艦隊・第八戦隊(司令官南雲忠一少将)に編入された。翌年1937年(昭和12年)8月、上海上陸作戦に出動し、陸軍上海派遣軍司令官松井石根大将が乗艦、8月22日に上海に到着し、11月まで揚子江の作戦に従事した。同月11月15日、小沢治三郎少将が第八戦隊司令官に着任、同戦隊の軽巡3隻(那珂、鬼怒、由良)を指揮する[34]。
1938年(昭和13年)4月、南支作戦に出動。由良以下第八戦隊は第五艦隊(司令長官塩沢幸一:旗艦妙高)の指揮下に入り、10月上旬より広東攻略作戦に参加した[34]。第八戦隊は輸送船団を護衛したのち10月12日のバイアス湾上陸作戦を支援、さらに海軍陸戦隊による10月14日の虎門要塞攻略に成功した[34]。
1939年(昭和14年)11月、特別役務艦となり修理を行った。
1940年(昭和15年)5月、第四艦隊・第5潜水戦隊(司令官鋤柄玉造少将)の旗艦となった。
翌1941年(昭和16年)11月、第28、第29、第30の各潜水隊を指揮して海南島に進出した。日本海軍は日米開戦と開戦劈頭の東南アジア進出を見据えて、弱小部隊だった南遣艦隊を一挙に増強[35]。司令長官小沢治三郎中将の指揮下に旗艦鳥海、第七戦隊、第三水雷戦隊、第4潜水戦隊、第5潜水戦隊、第12航空戦隊、第22航空戦隊等の戦力が揃う[36]。由良以下第5潜水戦隊も第四艦隊から南遣艦隊に編入され、太平洋戦争を迎えた。
太平洋戦争
開戦後、由良は南遣艦隊・第5潜水戦隊旗艦(司令官醍醐忠重少将)としてマレー上陸作戦を支援した。マレー沖海戦では、イギリス東洋艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルス捜索のため由良艦載機も偵察に参加し、12月9日に未帰還となっている。続いてボルネオ攻略作戦に参加した。
1942年(昭和17年)1月20日、第5潜水戦隊旗艦を伊65潜水艦に移した[37]。連合国軍はいまだ巡洋艦数隻の有力な水上艦隊を保持しており、馬来部隊指揮官小沢治三郎中将は対水上艦戦闘を想定して、同部隊・第二護衛隊に属していた由良を主隊(重巡鳥海、第七戦隊《熊野、鈴谷、三隈、最上》、第19駆逐隊第1小隊《綾波、磯波》、第12駆逐隊《白雲》、第三航空部隊《空母龍驤、駆逐艦敷波》)に編入、それまで主隊に属していた練習巡洋艦香椎を第二護衛隊に編入した[38]。 2月12日、由良は第三水雷戦隊(司令官橋本信太郎少将:旗艦川内)の指揮下に入る[39]。13日以降、川内等と共にシンガポールから脱出する艦船の攻撃に参加して川内、由良は3000トン級特設巡洋艦1隻撃沈を記録[38]。14日、由良は駆逐艦吹雪、朝霧を指揮下に置き、スマトラ島とバンカ島周辺を哨戒した[38]。同日18時50分、イギリス特設砲艦(1000トン級)が海上トラック部隊を襲撃し、後方20浬を航行していた由良、朝霧、吹雪は救援にかけつけイギリス特設砲艦を撃沈した[38]。15日20時45分由良、朝霧で英雑務役船撃沈、16日16時30分由良、朝霧で英砲艦捕獲、17日22時50分由良単艦で英特務船撃沈といった戦果をおさめている[40][41]。
2月16日午後6時、小沢中将は護衛部隊指揮官橋本少将(三水戦司令官)に対し、ジャワ島攻略作戦に備えて由良・第11駆逐隊・第一掃海隊のアナンバス諸島回航を下令した[41]。17日以降、各隊・各艦は次作戦に向けて移動を開始した[41]。2月21日、由良、第11駆逐隊(吹雪、白雪、初雪)、第12駆逐隊(白雲、叢雲)、第1掃海隊、特設水上機母艦神川丸、給油艦鶴見は蘭印部隊(指揮官高橋伊望第三艦隊司令長官、旗艦足柄)の第三護衛部隊(第五水雷戦隊基幹、指揮官原顕三郎第五水雷戦隊司令官:旗艦「名取」)に編入され、蘭印作戦に従事する[42][43]。由良は第6駆逐隊第1小隊(司令艦/響、暁)、第22駆逐隊第2小隊(水無月、長月)等を率いて今村均陸軍中将率いる陸軍第16軍の輸送船団56隻を護衛した[43][44]。 この頃、ABDA連合軍艦隊が出現したため五水戦司令官原少将は水上戦闘を挑む方針を示し由良を含めた各艦に集結を下令したが、先任指揮官の第七戦隊司令官栗田健男少将は決戦を回避する意向だった[45]。五水戦と七戦隊の電報の応酬に対し、みかねた連合艦隊司令部が仲裁に入る一幕もあった[45]。2月28日、原少将は由良に対し第三水雷戦隊への復帰を命じた[45]。なお由良は12時15分に「敵巡洋艦1、駆逐艦1発見」の報告をおこない、第七戦隊第1小隊(熊野、鈴谷)は一度この敵に向かったものの、「バタヴィアに入港した」という偵察結果を受け反転している[45]。
2月27日-28日、日本軍の東部ジャワ攻略部隊を攻撃した連合国軍艦隊はスラバヤ沖海戦に敗北、残存艦艇は各艦ごとに脱出を開始した。重巡洋艦ヒューストン、軽巡洋艦パースは28日バタビアへ入港後、ジャワ島西部のスンダ海峡を通過して脱出を試みた。だがパンタム湾泊地の第三護衛部隊と遭遇し、3月1日午前0時~2時のバタビア沖海戦により2隻とも沈没した。由良はこの戦闘に参加できなかった。同日夜、敵潜から雷撃を受け魚雷2本を回避、爆雷にて反撃しつつ駆逐艦長月をして附近を掃蕩させた[46][47]。敵潜の正体はオランダ海軍潜水艦のK XIVであった。 3月4日には駆逐艦松風と共同し米潜水艦の雷撃で沈没した給油艦襟裳(第七戦隊補給後、シンガポール回航中)の乗員162名を救助した[46][48]。3月4日、ジャワ攻略任務を終えた由良と第11駆逐隊はシンガポールに回航され、他部隊も同様にシンガポールやマカッサルへ向かった[46]。補給後、北部スマトラ、アンダマン攻略作戦に従事した[49]。
その頃、馬来部隊指揮官小沢治三郎中将はアマンダン攻略作戦と南方攻略作戦終了の間に日程的余裕があることから、臨時部隊(鳥海、第七戦隊、第三水雷戦隊、第四航空戦隊)を編制し、ベンガル湾で独自の作戦を行う方針を示した[50]。また南雲忠一中将ひきいる南雲機動部隊のセイロン島方面機動作戦実施を知り、山本五十六連合艦隊司令長官や南方部隊指揮官/第二艦隊司令長官近藤信竹中将の許可をとり、馬来部隊の行動と南雲機動部隊の作戦を呼応することにした[50]。馬来部隊は5分割され、中央隊(指揮官小沢中将:鳥海、由良、龍驤、夕霧、朝霧)、北方隊(栗田少将:熊野、鈴谷、白雲)、南方隊(三隈艦長:三隈、最上、天霧)、補給隊(綾波駆逐艦長:綾波、汐風、日栄丸)、警戒隊(三水戦司令官:川内、第11駆逐隊)という編制になる[51]。4月1日、「由良」を含む馬来部隊機動部隊はミャンマーのメルギーから出撃[52]。空母「龍驤」を基幹として、中央隊は輸送船8隻撃沈・8隻大破(のち1隻は北方隊が撃沈)・地上施設襲撃(油槽2個爆破、倉庫二棟爆破)、北方隊8隻撃沈、南方隊5隻撃沈、合計21隻(約137,000トン)撃沈・8隻(約47,000トン)大破という大戦果をおさめた[52]。由良、龍驤《砲撃》、夕霧による戦果は、3000トン級蘭商船1隻、6000トン級英武装商船1隻、3000トン級蘭武装商船撃沈である[52]。
第四水雷戦隊
4月10日、由良はペナン島に入港[52]。同日附で第5潜水戦隊旗艦に復帰し、シンガポール(昭南)を出発して日本本土に帰還、20日佐世保へ戻った[52][53]。5月中旬まで同地で待機、修理整備に従事する[54]。 5月9日附をもって由良は第二艦隊第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将)旗艦だった川内型軽巡洋艦那珂の代艦として同戦隊に編入、それまでの第5潜水戦隊旗艦を特設潜水母艦「りおでじゃねろ丸」に譲った[55]。那珂はクリスマス島攻略のために四水戦と軽巡名取、長良等と共に占領作戦に従事していたが、4月1日に米潜水艦シーウルフに雷撃され大破していた(6月15日四水戦より除籍[56])。桂島泊地に移動した5月20日、四水戦旗艦は駆逐艦夏雲から由良に移った[57]。 5月22日-23日、連合艦隊第1回応用教練に参加[58]。四水戦各隊は桂島泊地で出撃準備をおこなう[59]。29日、由良は桂島泊地を出撃、ミッドウェー島へ向かう[60]。
6月1日の時点で由良を旗艦とする第四水雷戦隊は、第2駆逐隊(村雨、夕立、春雨、五月雨)、第4駆逐隊(嵐、萩風、野分、舞風)、第8駆逐隊(朝潮、荒潮)、第9駆逐隊(朝雲、夏雲、峯雲)で編制されていた[61]。このうち第4駆逐隊は第一機動部隊(通称南雲機動部隊)の空母4隻(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)直衛、第8駆逐隊は第七戦隊(司令官栗田健男少将:熊野、鈴谷、三隈、最上)に引き抜かれており、由良と別行動をとっている[62]。 ミッドウェー海戦において第四水雷戦隊は第二艦隊(司令長官近藤信竹中将:旗艦愛宕)を基幹とする攻略部隊主隊に所属しており、アメリカ艦隊と直接交戦する機会はなかった[63]。だがアメリカ軍機動部隊が追撃してきた場合は空母瑞鳳艦載機及び各艦水上偵察機により決死攻撃を行い、しかる後に夜戦を挑む可能性もあった[64]。6月14日、由良は呉に帰港し27日から小松島にて待機した[65]。この作戦中、由良の機関は旧式ながら一度も故障する事がなかったという[66]。
6月20日、四水戦司令官は西村祥治少将から高間完少将にかわった。7月14日、四水戦に第27駆逐隊(時雨、白露、夕暮、有明)が加入し、第4駆逐隊が編制から外れた。
ガダルカナル島の戦い
8月7日、アメリカ軍はウォッチタワー作戦を発動しガダルカナル島とフロリダ諸島に上陸を開始、ガダルカナル島の戦いが始まった。ガダルカナル島を巡る戦闘は、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場を確保して制空権を維持するアメリカ軍に対し、ガダルカナル島の日本陸軍が飛行場奪回を試みる形で展開した。日本海軍はガダルカナル島の日本陸軍に対し兵器・物資・増援部隊を送り込もうと輸送船団を編成したが、アメリカ軍機動部隊とヘンダーソン基地から発進するアメリカ軍機によって低速の輸送船は撃退されてしまう(第二次ソロモン海戦等)。この海戦で由良は前進部隊に編入され第二艦隊司令長官近藤信竹中将(旗艦愛宕)指揮下で参加したが、大きな戦闘は起きなかった。トラック泊地で待機中の9月7日、重巡愛宕から借りていた映写機が故障を起こし、愛宕での映画上映が出来なくなるアクシデントが起きた[67]。
制空権を掌握できない中での輸送船運用を諦めた日本海軍は、敵艦隊との魚雷戦を前提に建造された艦隊型駆逐艦を、想定外の輸送任務に投入することになった。これを鼠輸送という。9月20日、由良以下第四水雷戦隊は外南洋部隊(第八艦隊)増援部隊に編入された[68]。同日午後、由良および第27駆逐隊第1小隊(時雨、白露)は前進部隊(第二艦隊)と分離、油槽船玄洋丸から燃料補給を受けたのち、ショートランド泊地へ移動[69]。既にソロモン海で活動していた夕立、有明、夕暮と合流した[70]。だが同泊地はアメリカ軍大型爆撃機の空襲に曝されていた[71]。9月24日、特設水上機母艦讃岐丸が小破[71]。9月25日朝、ショートランド泊地で由良はアメリカ第11飛行団のB-17爆撃機2機による攻撃を受ける[72]。至近弾3、250kg爆弾1発が後部7番砲の砲身に命中[73][74]。士官室から甲板に出たばかりの通信長が爆風に巻き込まれ戦死した[75]。
10月1日、増援部隊挺身輸送隊旗艦由良は、伊号第二潜水艦、伊号第三潜水艦、駆逐艦4隻(綾波、浦波、敷波、天霧)の輸送作戦[76]、及び大発動艇・小発動艇による蟻輸送を指揮した[77]。10月12日から20日までは第四水雷戦隊司令官にかわり由良の艦長が蟻輸送の指揮官を命じられている[78]。
その頃ガダルカナル島の日本陸軍は、物資欠乏・高温多湿の密林・装備兵力とも優勢なアメリカ軍といった諸条件により苦戦していた。第八艦隊および上級司令部第十一航空艦隊は、10月13日前後を目標に再び輸送船団を投入する計画をたてる[79]。 10月9日、高間司令官はガ島輸送作戦についてラバウル所在の第八艦隊司令部と打ち合わせを行うため、由良から第2駆逐隊五月雨に移乗すると同艦を旗艦としてショートランド泊地を出発した[80][81]。高間司令官は有明に乗艦してショートランド泊地に戻ってきたが、今度は最新鋭の秋月型駆逐艦秋月(9月26日外南洋部隊編入[82])を四水戦旗艦とした[83]。 日本側が制空権をうしなった海域において重要視される要素は、雷撃能力ではなく対空戦闘能力だったのである[84]。また秋月型の旗艦能力も、短時間の任務ならば『概ね支障ない』との評価を得ている[85]。
10月12日午前2時、増援部隊指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官(旗艦川内)はサボ島沖海戦でアメリカ軍の脅威にさらされた日進輸送隊(水上機母艦《日進、千歳》、駆逐艦《秋月、綾波、白雪、叢雲、朝雲、夏雲》)を収容するため「川内、由良、天霧、浦波、磯波、時雨、白露」をひきいてショートランド泊地を出撃した[86]。橋本司令官は日進隊と合流後、由良、天霧、時雨、白露に日進、千歳、秋月、綾波の護衛を命じ、自身は白雪、朝雲、夏雲、叢雲救援のためガ島方面へ向かった(空襲により夏雲、叢雲沈没)[87]。由良隊および日進隊は同日14時ショートランド泊地に到着した[87]。10月13日夜間の戦艦金剛、榛名によるヘンダーソン基地艦砲射撃の際には、水上偵察機2(川内、由良)が弾着観測を、水偵2(衣笠、古鷹)が照明弾投下機となって艦砲射撃を支援した[88]。
10月14日、橋本三水戦司令官のもと、増援部隊(軽巡《川内、由良、龍田》、駆逐艦《朝雲、白雪、暁、雷》)はショートランドを出撃[89]、ガダルカナル島エスペランス岬に揚陸を実施した[90][91]。また外南洋部隊主隊(鳥海、衣笠、天霧、望月)がガ島ヘンダーソン飛行場に艦砲射撃をおこなった[91]。だが飛行場の戦力は健在だった。駆逐艦「秋月、村雨、五月雨、夕立、春雨、時雨、白露、有明、夕暮」が護衛する輸送船6隻は、アメリカ軍機の空襲で輸送船3隻(吾妻山丸、笹子丸、九州丸)が炎上喪失、揚陸した物件も米軍機の空襲で焼き払われてしまった[91][92]。
10月16日、連合艦隊は水上機母艦日進、千歳、千代田による輸送を止め、軽巡洋艦及び駆逐艦での輸送を下令、日本陸軍ガ島総攻撃前の最後の輸送作戦とした[93]。軽巡戦隊(1番艦川内、2番艦由良、3番艦龍田)、水雷戦隊(秋月《四水戦旗艦》、一番隊《朝雲、白雪、暁、雷》、二番隊《村雨、五月雨、夕立、春雨》、三番隊《浦波、敷波、綾波》、四番隊《時雨、白露、有明》)という区分だった[94][95]。 10月17日午前2時以降ショートランド泊地を出撃した輸送隊は、同日午後10時にガダルカナル島へ到着[95]。駆逐艦「時雨、村雨」および外南洋部隊主隊から派遣された駆逐艦「天霧、望月」が警戒及び陸上砲撃を行う中[96][95]、各艦・各部隊は陸軍兵2159名、大砲18門、軍需物資の揚陸に成功した[97]。 10月18日4時45分、輸送作戦を終えて帰投中、チョイセル島沖で由良は米潜水艦グランパス (USS Grampus, SS-207) に雷撃された。左舷前部に1本が命中するが[98]、不発だったため速力低下等の影響は出ず、9時30分にショートランド泊地へ戻った[99][95]。
沈没
日本陸海軍は、サボ島沖海戦(10月11日~12日)での失敗はあったものの、第三戦隊(金剛、榛名)や重巡洋艦(鳥海、衣笠、妙高、摩耶)によるヘンダーソン基地艦砲射撃でアメリカ軍機の活動を封殺し[100]、また幾度かの輸送作戦でガ島の日本陸軍も充分増強されたと判断した[101]。 そして10月22日を予定し、アメリカ軍のヘンダーソン飛行場に対する総攻撃を決定する[102]。 山本五十六連合艦隊司令長官は第三艦隊(南雲機動部隊)と前進部隊(第二艦隊基幹)をソロモン海に派遣[103]。一方ウィリアム・ハルゼー・ジュニア南太平洋方面軍司令官も空母「エンタープライズ、ホーネット」、戦艦「サウスダコタ」等を投入、両軍とも機動部隊決戦にむけて活発に索敵行動を繰返した。
10月24日、由良は第四水雷戦隊(司令官高間完少将:旗艦秋月、第2駆逐隊《村雨、五月雨、夕立、春雨》)各艦と共に第二攻撃隊を編成し、日本陸軍のガダルカナル島総攻撃に呼応してガダルカナル島へ出撃するが、25日にアメリカ軍機の波状攻撃を受けて航行不能となり、自沈処分となった[104][105]。由良は太平洋戦争における日本海軍の軽巡洋艦戦没第1号となった。経過の詳細は以下の通りである。
10月20日、連合艦隊の下令に従い外南洋部隊指揮官(第八艦隊司令長官三川軍一中将)と同部隊増援部隊指揮官(第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将)は、ガダルカナル島日本陸軍総攻撃および飛行場攻略にあわせて指揮下の艦艇を以下のように区分、それぞれに任務を与えた[106][107]。
- 第一攻撃隊
- 第二攻撃隊
- 秋月型駆逐艦(秋月)、第四水雷戦隊(由良、第2駆逐隊《村雨、五月雨、夕立、春雨》) ・敵艦艇東方脱出阻止撃滅[106]
- 甲増援隊 敷設艦(津軽)、軽巡(龍田)、駆逐艦(時雨、有明) ・飛行場陥落後の陸軍コリ支隊(一個大隊)急速輸送揚陸[106]
- 乙増援隊 駆逐艦(白雪、天霧、望月) ・基地航空部隊(第十一航空艦隊)急速輸送揚陸[106]
- 挺身輸送隊 蟻輸送隊 ・状況に応じ大発動艇による海上輸送[106]
- 第三攻撃隊 水上機母艦(千歳、千歳、日進) ・状況に応じ各隊支援[106]
10月23日15時30分、第二攻撃隊(秋月《四水戦旗艦》、村雨、五月雨、夕立、春雨)はショートランドから出撃してガダルカナル島のアメリカ軍攻撃に向かったが、日本陸軍総攻撃1日延期のため艦隊は反転、帰投した[108][103][103]。 10月24日、外南洋部隊水上部隊の各部隊はショートランド泊地を出撃、再びガダルカナル島へむかった[109]。第二攻撃隊は前日と同戦力での再出撃である[110]。突撃隊(指揮官山田勇助大佐/兼第6駆逐隊司令 第6駆逐隊《暁、雷》、白露)の駆逐艦3隻もガ島ルンガ泊地攻撃を命じられており、既に戦闘海域へ向かっていた[109]。24日21時以降、第二攻撃隊含め日本海軍に対し、ガダルカナル島の日本陸軍第二師団(丸山政男陸軍中将)による総攻撃成功とヘンダーソン飛行場占領の速報が入る[109][111]。これを受けて各部隊は行動を開始した[112]。
10月25日3時40分、由良から九四式水上偵察機が発進、ガダルカナル島を偵察し約3時間後に「アメリカ軍機の存在なし」と報告した[113][114]。ところが第八艦隊及び第十一航空艦隊に対し『先の陸軍ヘンダーソン飛行場占領は誤報』という一報が入る[109][115]。その情報はヘンダーソン飛行場のアメリカ軍機空襲圏内に入っていた各艦隊にも伝達された[116]。由良以下第二攻撃隊は反転したが[117]、突撃隊(暁、雷、白露)にはルンガ泊地への突入命令および陸戦協力命令(ルンガ岬附近のアメリカ軍砲兵陣地艦砲射撃)が出された[109][118]。 ガダルカナル島からの報告によれば、軽巡洋艦1隻を含む数隻の米艦隊がルンガ泊地に存在していた[119]。これを受けて第二攻撃隊は突撃隊を支援すべく反転してルンガ泊地へ向かい、また外南洋部隊指揮官からも陸上戦闘を支援するよう命令があった[120][121]。
午前9時、山本五十六連合艦隊司令長官は、第三艦隊麾下の第二航空戦隊(司令官角田覚治少将:空母隼鷹)の艦載機をもってガダルカナル島のアメリカ艦隊及び地上陣地を攻撃するよう命じた[122]。これに対しラバウルの第十一航空艦隊より零式艦上戦闘機の派遣はなく、突撃隊及び第二攻撃隊は空からの攻撃に対し完全に無防備であった。一方、第二攻撃隊は先行した突撃隊(暁、雷、白露)より「軽巡洋艦1、駆逐艦1隻撃沈」との通信を受信した[123]。実際には、駆逐艦ゼインに対し損傷を与え、艦隊曳船セミノール、沿岸哨戒艇YP-284を撃沈、暁、雷に軽微な損傷という戦果であった[109]。さらに突撃隊は『敵軽巡2隻が東方へ敗走中』と通報し、第二攻撃隊はこの敵軽巡洋艦(実際には存在しなかった)を補足すべく、フロリダ諸島とマライタ島の間に位置するインディスペンサブル海峡を通過する航路を選んだ[114][124]。由良以下第二攻撃隊はアメリカ艦隊と遭遇しなかった場合、13時の対地砲撃を予定していた[125]。
10時50分、由良はヘンダーソン飛行場から飛来したアメリカ軍SBDドーントレス急降下爆撃機とF4Fワイルドキャット戦闘機の空襲を受けた(アメリカ軍記録、艦爆5機出撃)[126]。10時55分、由良と秋月が被害を受けた[127][128]。由良に対しては、爆弾2発がそれぞれ艦橋射撃指揮所及び後部機械室に命中[129][130]。 五月雨の乗組員は、艦橋上部が破壊され、左舷後部に大孔があき、中央部に火災が発生する由良を目撃した[131]。速力23ノットに低下、舵故障により人力操舵となる[132]。機関室を密閉して消火に努めたが、後部火薬庫に注水し最大発揮速力は15ノットに減少[133]。 第二攻撃隊は、浸水して速力低下をきたす由良と至近弾により片軸運転となった秋月を護衛して北方への退避を開始する[134]。その後、機関室にまで浸水が及んだ由良は徐々に速力が低下、沈没の危険性が高まる[127]。高間司令官や由良の佐藤艦長は由良を座礁させて救おうと試みたが、電線通路を通じ浸水が拡大したため情況は悪化する一方であった[135]。 高間司令官は幾度も零戦の援護を求めたが[136]、五月雨の下士官によれば零戦20機がやってきたのは空襲と空襲の合間で、艦隊の援護には何の役にも立たなかったという[137]。
戦闘機の援護のない由良以下第二攻撃隊に、アメリカ軍は波状攻撃を繰返した[132]。 15時10分過ぎ、第二攻撃隊はガ島ヘンダーソン基地発進のドーントレスと、エスピリトゥサント島から飛来したB-17爆撃機6機の攻撃を受ける。由良と秋月に命中弾1、五月雨に至近弾があった[138][127]。消火に成功しかけてした由良はこの攻撃と被弾により大火災を起こして航行不能となり、救援の見込みがなくなる[127]。上村大尉(由良機関科)の回想によれば、この頃の由良は中央部分で折れかけていたという[139]。高間司令官は15時20分になると第二駆逐隊(村雨、五月雨、夕立、春雨)各艦に由良乗組員救助を命じた[140]。 16時14分、総員退去命令[141]。 誘爆の危険性がある中で駆逐艦夕立は由良の左舷後部に接舷して救助を行い[142]、他艦は艦載艇を派遣して由良乗組員を救助した[143]。乗員退去後、駆逐艦春雨に対し由良の雷撃処分を行うよう命令があった[144]。次に夕立も雷撃処分に加わる[145]。夕立、春雨の発射した魚雷2本が命中して由良は艦首から沈みはじめたが、18時30分になっても艦尾は僅かに水面から出ていた[146]。最終的に夕立の砲撃により、19時00分に由良は全没した[147][127]。
沈没地点南緯08度15分 東経159度57分 / 南緯8.250度 東経159.950度[148]。 戦死者は准士官以上9名・下士官兵45名、負傷者准士官以上6名、下士官兵84名[149]。
由良の沈没後、艦隊上空に由良艦載機が飛来[150]。由良の沈没地点上空を旋回すると戦闘空域を去っていった[150]。これは高間司令官が13時30分に呼び寄せた由良機(レカタ基地待機)であった[151]。 各駆逐艦に救助された乗組員は、損傷して最大発揮速力22ノットになっていた「秋月」に移乗(四水戦旗艦も秋月→村雨に変更)、ラバウルへ向かう[152][153]。大西新蔵第八艦隊参謀長は草鹿任一第十一航空艦隊司令長官に対し、戦場を離脱する第二攻撃部隊の上空掩護を依頼したが、第十一航空艦隊側に「不可能だ」と拒否された[154]。26日、外南洋部隊水上部隊はショートランド泊地へ帰投[153]。27日、残存していた由良の九四式水上偵察機は重巡洋艦衣笠に補充するよう下令された[155]。
1942年(昭和17年)11月20日、由良は帝国軍艦籍[156]および長良型軽巡洋艦[157]より除籍された。
歴代艦長
※『艦長たちの軍艦史』155-157頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
艤装員長
- 小副川敬治 大佐:1922年2月16日 - 11月1日[158]
艦長
- 小副川敬治 大佐:1922年11月1日 - 1923年12月1日
- 石川清 大佐:1923年12月1日 - 1924年11月1日
- 中原市介 大佐:1924年11月1日 - 1925年7月2日
- (兼)重岡信治郎 大佐:1925年7月2日 - 8月25日
- 小槙和輔 大佐:1925年8月25日 - 1926年11月1日
- 豊田副武 大佐:1926年11月1日 - 1927年11月15日
- 池田武義 大佐:1927年11月15日 - 1928年12月10日
- 大田垣富三郎 大佐:1928年12月10日 - 1929年11月1日
- 和田専三 大佐:1929年11月1日 - 1930年12月1日
- 小倉万次郎 大佐:1930年12月1日 - 1931年12月1日
- 谷本馬太郎 大佐:1931年12月1日 - 1932年12月1日
- 富田貴一 大佐:1932年12月1日 - 1933年6月15日
- 杉山六蔵 大佐:1933年6月15日 - 1933年11月15日
- 春日篤 大佐:1933年11月15日 - 1934年11月1日
- 若林清作 大佐:1934年11月1日 - 1935年10月25日
- 友成佐市郎 大佐:1935年10月25日 -
- 徳永栄 大佐:1937年12月1日 -
- 市岡寿 大佐:1938年11月15日 -
- 魚住治策 大佐:1939年11月1日 -
- 三好輝彦 大佐:1941年9月1日 -
- 佐藤四郎 大佐:1942年4月20日 -
同型艦
参考文献
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- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書83 南東方面海軍作戦(2) ガ島撤収まで』朝雲新聞社、1975年8月。
- 小沢提督伝刊行会編『回想の提督 小沢治三郎』原書房、1971年3月。
- 五十嵐邁『黒き日本海に消ゆ 海軍・美保関遭難事件』講談社、1978年11月。
- 五月会『波濤と流雲と青春と 第二期二年現役海軍主計課士官 四十周年記念文集』朝雲新聞社、1980年4月。
- 加代信司『思い出は昨日のごとく』(昭和16年5月~昭和17年10月上旬まで由良主計長)
- 須藤幸助『駆逐艦五月雨』朝日ソノラマ文庫、1988年。ISBN 4-257-17097-2。
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- 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集14 軽巡 長良型』光人社、1997年。
- 上村嵐『海軍は生きている』新人物往来社、2000年8月。ISBN 4-404-02873-3。
上村は海軍大尉。前職は戦艦長門分隊長。昭和17年5月~沈没まで由良に勤務。のちに島風型駆逐艦島風機関長。 - 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
- 小板橋孝策『愛宕奮戦記 旗艦乗組員の見たソロモン海戦』光人社NF文庫、2008年。ISBN 978-4-7698-2560-9。
- 原為一ほか『軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌』潮書房光人社、2014年12月。ISBN 978-4-7698-1580-8。
- 当時由良の機械分隊長・海軍大尉上村嵐『乗艦由良わが訣別の絶唱を聞け 敵機の空爆によりガ島輸送に殉じた長良型四番艦の沈没遭難体験記』
- 「丸」編集部『外国戦史に見る日本軽巡の最後』/戦史研究家柏木浩『日本の軽巡洋艦かく戦えり』/戦史研究家落合康夫『日本海軍軽巡洋艦戦歴一覧』
- 『官報』
- 近代デジタルライブラリー - 国立国会図書館
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- Ref.C08030105200『昭和17年2月1日~昭和17年5月31日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。
- Ref.C08030105300『昭和17年2月1日~昭和17年5月31日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。
- Ref.C08030105400『昭和17年2月1日~昭和17年5月31日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。
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- Ref.C08030112300『昭和17年4月1日~昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。
- Ref.C08030112400『昭和17年4月1日~昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)』。
- Ref.C08030112500『昭和17年4月1日~昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)』。
- Ref.C08030112600『昭和17年4月1日~昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(4)』。
- Ref.C08030040400『昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)』。
- Ref.C08030112900『昭和17年9月25日~昭和17年11月9日 第4水雷戦隊戦闘詳報(1)』。
- Ref.C08030113000『昭和17年9月25日~昭和17年11月9日 第4水雷戦隊戦闘詳報(2)』。
- Ref.C08030113100『昭和17年9月25日~昭和17年11月9日 第4水雷戦隊戦闘詳報(3)』。
- Ref.C08030113200『昭和17年9月25日~昭和17年11月9日 第4水雷戦隊戦闘詳報(4)』。
- Ref.C08030113300『昭和17年9月25日~昭和17年11月9日 第4水雷戦隊戦闘詳報(5)』。
- Ref.C08030113400『昭和17年9月25日~昭和17年11月9日 第4水雷戦隊戦闘詳報(6)』。
- Ref.C08030022500『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(1)』。
- Ref.C08030022600『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(2)』。
- Ref.C08030113700『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。
- Ref.C08030113800『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)』。
- Ref.C08030113900『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)』。
- Ref.C08030114000『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(4)』。
- Ref.C12070173700『昭和17年11月(4) 内令(昭和17年11月17日~昭和17年11月25日)』。
脚注
- ^ a b c #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.4『由良|二等巡洋艦|(艦要目略)|佐世保工廠|大正10-5-21|大正11-2-15|大正12-3-20|(艦装備略)』
- ^ 大正11年11月10日付 海軍内令 第392号改正、海軍定員令「第50表 二等巡洋艦定員表 其4」。この数字は特修兵を含まない。
- ^ #ポケット海軍年鑑(1935)p.33『ニ等巡洋艦"由良 ゆら" 由良は昭和10年度は第二潜水戰隊に編入されその旗艦である。二等巡洋艦は俗に軽巡とも云はれ、ロンドン條約以來るは亦乙級巡洋艦と称せられるやうになつた。即ち排水量1,850噸以上10,000噸以下の艦で備砲口徑が5.1吋を超え6.1吋(15.5糎)以下のものがこれである。この艦は全長152.40米、幅は14.40米で平均吃水4.84米。この寫眞で目新しいのは前部の飛行機滑走臺を撤去してこれを後部の5、6番14糎砲の中間にカタパルトとして移してゐることゝ、後檣を三脚式に改造されてゐる點である。煙突の白線は同型艦の多い戰隊では見分がつきがたいためそれを補ふためのマークである。』
- ^ #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.2『巡洋艦|二等|長良型|長良、五十鈴、名取、由良、鬼怒、阿武隈』
- ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.134『川名に採る。由良川は丹後国にあり、音無瀬川一名大雲川又は福知川の下流にして其の海口を由良港とす』
- ^ #ポケット海軍年鑑(1937)p.38『二等巡洋艦"由良 ゆら" 全要目{排水量5,170噸 速力33.0節 備砲14糎砲7門 8糎高角砲2門 魚雷發射管8門 起工大正10年5月 竣工大正12年3月 造船所 佐世保海軍工廠} 二等巡洋艦は俗に軽巡ともいはれ、ロンドン條約は備砲口徑15.5糎砲以下をもつて一括して乙級巡洋艦と称した。わが二等巡洋艦の名称は是等の條約とは初めから關係のないもので、その任務はまた一様にいふことが許さぬが、乙級巡洋艦も二等巡洋艦の俗称として残ることだらう。長さは152.40米、幅は14.40米、平均吃水4.84米で同型艦に"長良ながら" "五十鈴いすゞ" "名取なとり" "鬼怒きぬ" "阿武隈あぶくま"の4艦がある。カタパルトは5、6番砲塔間に、後檣は三脚にかへられた。』
- ^ #ポケット海軍年鑑(1935)p.38『ニ等巡洋艦"夕張 ゆふばり" 全要目{排水量2,890頓 速力33.0節 備砲14糎砲6門 8糎高角砲1門 魚雷發射管4門 起工大正11年6月 竣工大正12年7月 建造所佐世保海軍工廠} 由良又は鬼怒などの軽巡洋艦が申し合せたやうに同型艦として續々出現し、どれが由良か鬼怒か見分けがつかない思ひをしてゐる中へ大正12年7月忽然として現はれた甚だ軽快さうな巡洋艦、ナリは小さいが由良や鬼怒に比べて全然艦型を異にしたスマートな姿であつたから見る者凡てが目を瞠つた。それが夕張であつた。排水量僅かに2,890頓で上記の兵装も而もその悉くが首尾線上に装備されてゐるのみならず、14糎砲は各2門宛を砲塔式に即ち2連装砲塔として備へて、速力は5,000頓級と同じ33節である。全く素晴らしい進歩である。今後はこれだと人々に思はせたが果たせるかな後年になつて計畫されたのがあの7,100頓の加古級である。即ちこの夕張は現在の一等巡洋艦完成の手引であつたとも見られるものである。』
- ^ #大正9年達3月p.19『達第三十號 軍備補充費ヲ以テ建造ニ着手スヘキ巡洋戦艦二隻及二等巡洋艦一隻ヲ左ノ通命名セラル 大正九年三月二十六日 海軍大臣加藤友三郎|巡洋戦艦二隻 高雄(タカヲ)、愛宕(アタゴ)|二等巡洋艦一隻 由良(ユラ)』
- ^ #大正9年達3月p.21『達第三十二號 艦艇類別等級別表巡洋戦艦ノ欄赤城ノ次ニ「、高雄、愛宕ヲ、巡洋艦二等ノ欄名取ノ次ニ「、由良」ヲ加フ』
- ^ #軍艦由良製造一件p.16『工事名称/一.起工「キール」据付/着手年月/10.5.22』
- ^ #軍艦由良製造一件pp.11-12
- ^ #軍艦由良製造一件p.39『発信者:佐世保工廠/受信者:艦政本部 由良本月二十日受領ヲ了セリ』
- ^ #日本軍艦集2600年版p.34『ニ等巡洋艦 由良(ゆら) 基準排水上5,170噸、長さ152,4米、幅14,4米、平均吃水484米、速力33節、備砲14糎砲7門、8糎高角砲2門、魚雷發射管8門、起工大正10年5月21日、進水大正11年2月15日、竣工大正12年3月20日、建造所佐世保海軍工廠-名取と同型。なほこれらの同型艦として鬼怒(大正11年11月10日竣工)がある。』
- ^ #震災救護日報(6)p.1『地.救護関係艦船ノ行動 救護用物資ノ輸送、陸揚、交通通信等ノ諸作業及警備ニ従事時中ノ艦船左ノ如シ (一)品川方面(軍艦)霧島比叡北上由良名取木曾夕張(特務艦)富士石廊(駆逐艦)十一席(以下略)』
- ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(6)p.47『(二)第八回基本演習(略)竜田、由良ヲ以テ第六戦隊ヲ編成シ第一水雷戦隊司令官之ヲ指揮ス』
- ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(5)p.8『五.那珂御乗船中ノ博義王殿下ニハ御無事ニアラセラル』
- ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(7)pp.7-16』
- ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(1)p.5『此ノ時左舷艦尾方向ヨリ甲軍後衛ノ一艦ヨリ照射ヲ受ケ神通ハ伊勢ニ対シ反照シ那珂ハ探照燈ヲ以テ友軍敵情ヲ通報シ次テ神通ハ航行灯ヲ点シ南東ニ変針(略)11時16分敵後尾ニ触接スルノ目的ヲ以テ両舷灯ヲ消シ第三戦速(28節)ニ増速面舵転舵中…』
- ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(7)p.9-10『伊勢-照射砲撃 由良-照射砲撃』
- ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(7)p.43『…當時神通と那珂は隊を組んで敵に迫ったが其の照射猛撃に遭ふて一時避退の止むなきに至って反転した、煌々たる探照燈に眩まされて居る、其處を同しく敵に向かって突進中の第二七駆逐隊と反航の對勢で急速に近接した…』
- ^ #神通蕨那珂葦衝突報告(1)p.12『当時遭難地附近ニ在リテ極力短艇等ヲ以テ救難ニ従事シツツアリシ艦艇左ノ如シ 伊勢、加古、古鷹、鬼怒、阿武隈、由良、龍田、第二十六、第二十七駆逐隊』
- ^ #軍艦由良触衝事件報告(1)p.8『10月12日1850金剛ヨリ電令ニ依リ第一戦隊ノ後衛トナリ(略)第1戦隊4番艦(日向)ノ左斜後視界限度(6000米乃至8000米)附近ヲ燈火戦闘管制トナシ警戒ヲ厳ニシ航行中1945右前方ニ反航スル水雷艇初雁ヲ認メ之ヲ照射砲撃ノ為転舵シ遂ニ味方主力部隊ヲ見失フ』
- ^ #軍艦由良触衝事件報告(1)p.7『二.触衝前後ニ於ケル風向風速天候海上ノ模様其ノ他四圍ノ状況|(一)触衝前後ニ於ケル風向北風速12米/秒 (二)天候海上ノ模様 晴天ノ晴夜ナリシモ海上荒長濤アリ時々飛沫艦橋ヲ襲フ (三)其ノ他四圍ノ情況 海上稍濛気アリ且煤煙及煙幕残部ノ為メ味方主力部隊附近視界不良』
- ^ #軍艦由良触衝事件報告(1)p.23『当時風向北乃至北東風力12.3米海上前日来ノ颱風ノ影響ト覚シキ北東方ヨリスル長大濤ニ依リ動揺相当大ニシテ操舵亦意ノ如クナラザリシモノアリシナラン為之触衝回避ニ対スル最前ノ方法ヲ講ジ概ネ所期ノ目的ヲ達シタルモ…』
- ^ #軍艦由良触衝事件報告(1)p.2『軍艦由良触衝事件報告 由良艦長海軍大佐春日篤 軍艦由良ハ昭和九年十月十二日青軍第二潜水戦隊旗艦トシテ第三期対抗演習ニ参加中同日2029.5北緯26度18分東経129度22分ノ海面ニ於テ赤軍第八戦隊ノ一艦夕張ト触衝セリ』
- ^ #軍艦由良触衝事件報告(1)pp.14-15『附圖第一、第二』
- ^ #軍艦由良触衝事件報告(1)p.30『1958想定 三缶室ニ敵弾命中出シ得ル最大速力28節|2003夕張艦長/本艦 長良名取ト交戦シ両艦ヲ撃沈ス』
- ^ #触衝当時の状況に関する件p.4『但シ触衝ノ直前想定ニ依リ中軸ノ運転ヲ停止スルニ至リタルコトハ操舵ノ効果ヲ減ジ且後進全速ニ對スル中軸ノ操作ヲ遅延セシメ前進惰力ノ減退亦従ッテ充分ナラザルヲ以テ衝突回避上多少影響シタルベシ』
- ^ #軍艦由良触衝事件報告(1)p.6『損害ノ状況|短艇甲板面右舷168番「ビーム」ニ於テ幅2米深サ0.7米ノ凹ミヲ生ジ附近ノ「フレーム」一本舷側ニ近キ處ニテ切損魚雷「ダビット」1及外舷「スタンション」3本屈曲ス。凹ミノ前方約5米後方約8米上甲板外側ニ擦過ノ跡アリ』
- ^ #軍艦由良触衝事件報告(2)pp.8-14『附圖(夕張艦首断面図及び損傷状態スケッチ)』
- ^ #S16年度海軍戦時編制案(昭和10年2月)p.2『GF|1Ss/1Csg/2Cgc|巡潜|由改(航続距離大 飛行機二以上)』
- ^ a b c d #日本巡洋艦物語341-343頁『日本海軍の防空巡洋艦構想』
- ^ #日本巡洋艦物語346頁『第20図由良型(5500トン型)改造防空艦案』
- ^ a b c #回想の提督19-20頁『第八戦隊司令官時代』
- ^ #回想の提督25-27頁『南遣艦隊司令長官時代』
- ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦(付図第一)『南方作戦関係主要職員表 昭和十六年十二月八日』
- ^ #軽巡二十五隻329頁
- ^ a b c d #戦史叢書26海軍進攻作戦294-298頁
- ^ #S1702三水戦日誌(1)p.27『2月12日 一.由良指揮下ニ入ル』
- ^ #S1702三水戦日誌(2)pp.25-27『(一)ム作戦中撃沈拿捕(捕獲)船舶一覧表』
- ^ a b c #戦史叢書26海軍進攻作戦310-311頁『16日以後の水上部隊の作戦』
- ^ #S1701五水戦日誌(4)p.11『2月21日一.本日附由良、11dg、12dg、1wg、神川丸及鶴見ヲ蘭印部隊ニ編入セラル(後略)』
- ^ a b #戦史叢書26海軍進攻作戦427-430頁『西部ジャワ方面水上部隊の作戦』
- ^ #S1701五水戦日誌(7)pp.8,20,31『(イ)第一軍隊区分(輸送船入泊迄)第三嚮導隊/指揮官由良艦長 兵力/由良、1D/6dg、2D/22dg、w×1/1wg 4Tgノ直接嚮導護衛』
- ^ a b c d #戦史叢書26海軍進攻作戦431-436頁『第七戦隊、決戦を回避』
- ^ a b c #戦史叢書26海軍進攻作戦526-528頁『西部ジャワ方面部隊、敵を一掃』
- ^ #S1701五水戦日誌(5)pp.58-59『3月1日2100由良艦長/第四警戒隊戦闘概報第一号(略)六.由良ハ1日1605地点6ッ度4分南108度東ニ於テ敵潜ノ攻撃ヲ受ケタルモ(魚雷2本)之ヲ回避被害ナシ、発射点ニ対シ爆雷攻撃(6個)ヲ行ヒ更ニ附近ヲ長月ヲシテ掃蕩セシム』
- ^ #S1701五水戦日誌(3)p.46『4日1715由良艦長/一.1505襟裳沈没位置4度22分南108度23分東|二.同艦々長以下162名(内重傷下士官兵5名軽傷下士官兵15名)ヲ由良ニ収容ス。戦史18名(内准士官以上1名)艦ト運命ヲ共ニセリ、救難ニ従事セル各艦ハ固有任務ニ復帰ス』-p.70『4日(略)三.(自1600至1700)松風ハ襟裳救難ニ従事右終了後「バンタム」湾ニ向ケ発』
- ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦607-608頁『敵守備兵、無条件降伏す』
- ^ a b #戦史叢書26海軍進攻作戦590頁『ベンガル湾機動作戦』
- ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦636頁
- ^ a b c d e #戦史叢書26海軍進攻作戦663-669頁『馬来部隊機動部隊、ベンガル湾を制圧』
- ^ #昭和17年4月~第5潜水戦隊詳報p.15『(前略)1月下旬以来馬来部隊ニ編入中ナリシ由良ヲ四月十日附當隊ニ復帰セシメラルルコトトナリタレバ同月之ヲ昭南ニ回航セシメ将旗ヲ之ニ移シ翌日同地発四月二十日佐世保軍港ニ帰還セリ』
- ^ #S1704四水戦日誌(2)p.47『(一)麾下艦船部隊ノ行動』
- ^ #S1704五潜水戦詳報p.22『(前略)五月九日附ヲ以テ旗艦由良ハ那珂ノ代艦トシテ第四水雷戦隊ニ編入セラレタルヲ以テ旗艦ヲりおで志゛やねう丸ニ変更セリ』
- ^ #戦隊行動調書p.42『6.15 那珂4sdヨリ除カル』
- ^ #S1704四水戦日誌(2)p.10『20日1500旗艦ヲ夏雲ヨリ由良ニ変更』
- ^ #S1704四水戦日誌(2)p.11『2駆ハ2F機密第661番電ニ依リ1小隊(村雨、五月雨)ハ蒼龍ノ直衛トナリ22日横須賀発24日桂島着、2小隊(夕立、春雨)ハ愛宕ノ直衛トシテ24日横須賀発26日「クダコ」水道南口ニ於テ當隊ニ合同セリ。之ヨリ先22.23日由良9駆ヲ率ヰGF第1回応用教練ニ参加セリ之ニ関連夏雲ハ2F基地設置撤収作業ニ従事セリ』
- ^ #S1704四水戦日誌(2)p.11『當隊(由良、9駆、2駆1小隊)25日2200桂島泊地発「クダコ」水道南口ニ於テ2駆1小隊ヲ合同シ伊予灘ニ於テ第一類戦闘訓練ヲ実施シ26日補給ノ為呉軍港ニ入港セリ。尚攻略部隊電令作第4号ニ依リ夏雲ハ25日迄春雨ハ尓後瑞鳳附属ト定メラル』
- ^ #S1704四水戦日誌(2)p.12『28日呉発桂島泊地着、同日愛宕ニ於テ作戦打合セヲ了シ前路掃蕩ノ為29日0400桂島泊地発豊後水道外方ノ対潜掃蕩ヲ了シ1345掃海水道南口ニ於テ攻略部隊主隊ニ合同セリ』
- ^ #ミッドウエー海戦日誌(1)p.3『聯合艦隊編制表(六月一日現在)』
- ^ #S1704四水戦日誌(2)p.11『20日附ニテ第二段作戦第二期兵力部署発令セラレ由良2駆9駆ハ攻略部隊主隊ニ編入セラレ8駆ハ攻略部隊支援隊ニ編入セラレタリ』
- ^ #S1704四水戦日誌(3)p.8『7日0900攻略部隊ハ2D/7S 8dg救援ノ為針路180度トル8日0215索敵機ヲ発進セルモ敵情ヲ得ズ0300反転針路0度0400更ニ反転針路180度トシ主力部隊ヲ掩護スル如ク行動ス。0910 8S、4sdハ8S司令官之ヲ率ヰ攻略部隊ヨリ分離、第三次補給ヲ実施、9日1120補給終了、由良村雨春雨ヲ率ヰ10日0355主力部隊ニ合同ヲ了ス』
- ^ #S1704四水戦日誌(3)p.61『敵空母ト至近距離ニ相見ユル算大ナリトシ先三座水偵隊ヲ以テ黎明索敵瑞鳳艦攻隊及二座水偵ノ全力ヲ以テ敵空母撃滅ヲ企図ス、當隊ハ又敵ガ其ノ侭ニ2D/7Sヲ追囁スル場合本夜2100以後会敵算少カラズト判断シ咄嗟会敵ニ応ズル如ク艦内哨戒第一配備(見張二直)ニテ警戒セリ』
- ^ #S1704四水戦日誌(3)p.57『(一)麾下艦船部隊ノ行動』
- ^ #海軍は生きている201-202頁
- ^ #愛宕奮戦記155頁
- ^ #S1709八艦隊日誌(2)pp.8-9『第二十四駆逐隊山陽丸夕立|9-5|GF電令作第264号ニ依リ外南洋部隊ヘ編入』-『四水戦(九駆、二七駆二小隊、夕立欠)国川丸|9-20|GF電令作第300号ニ依リ外南洋部隊ニ編入』
- ^ #戦史叢書83ガ島戦143頁
- ^ #S1709八艦隊日誌(2)p.14『(二)麾下及友軍ノ行動概要』
- ^ a b #戦史叢書83ガ島戦156頁
- ^ 日本軽巡戦史、326ページ
- ^ #波濤と流雲と青春と239頁
- ^ #軽巡二十五隻112-113頁
- ^ #海軍は生きている85頁
- ^ #S1710四水戦日誌(1)p.6『(ハ)任務編制配備(一)軍隊区分及主要任務 10月1日 外南洋部隊増援部隊挺身輸送隊/指揮官:将旗4sd(由良)/兵力:4sd(dg欠)伊二伊三綾波浦波敷波天霧』
- ^ #S1710四水戦日誌(1)p.13『4sdハ上旬前月ニ引続キ外南洋部隊増援部隊ニ編入セラレショートランド泊地(RXE)ニ在リテ警泊4sd司令部(由良)ハ挺身輸送隊トシテ「ガ」島ニ対スル大発ニ依ル兵器軍需品ノ輸送ニ従事、dgハ増援部隊本隊(指揮官3sd司令)ニ属シ「ガ」島ニ対スル増援輸送及敵増援阻止任務ニ従事シ(但シ夕暮ハR方面航空部隊ニ編入中有明ハ1日附一時SNB主隊ニ編入)シツツアリ…』
- ^ #戦史叢書83ガ島戦186頁
- ^ #S1709八艦隊日誌(2)pp.10-11『(一)中央及其ノ他トノ連絡(略)(B)大海参一部長 GF参謀長宛(9月30日) 「ガ」島制圧畧成功セバ10月13日頃高速輸送船団ヲ以テ大規模ノ揚陸作戦ヲ計画中ナル處揚陸作業ニハ約一昼夜ヲ要シ昼間敵機ノ爆撃下ニ之ヲ行フノ外ナキノミナラズ「ガ」泊地近接並ニ避退ニハ各十時間敵機ノ攻撃圏下ヲ行動スル要アルヲ以テ防空砲火ノ特ニ大ナル駆逐艦ヲ以テ船団ヲ護衛スル事緊急要ナルニ付駆逐艦照月ヲ右作戦期間當隊ニ編入方特ニ御配慮ヲ得度』
- ^ #S1709四水戦詳報(3)p.8『九月下旬以来「ショートランド」ヲ基地トシ四水戦駆逐艦ノ大部ヲ挙ゲテ増援部隊ニ編入セラレ鼠上陸ニ従事、四水戦司令部ハ由良、天霧(綾波)、初雪ヲ率ヒ挺身輸送隊ノ指揮ニ當リツツアリタル處護衛隊作戦準備ノタメ十月九日夕刻一時将旗ヲ五月雨ニ移揚シテ「ショートランド」発、十日朝「ラバウル」ニ入港直ニ第八艦隊ト作戦打合セヲ遂ゲ同日午後第一船団長トノ協定ヲ完了セリ』
- ^ #戦隊行動調書p.42『10.9 将旗ヲ五月雨ヘ|10.12 将旗ヲ秋月ヘ』
- ^ #S1709八艦隊日誌(2)p.10『第九駆、秋月|9-26|外南洋部隊ニ編入』
- ^ #S1709四水戦詳報(3)pp.8-9『翌10月11日(略)同夕刻有明ニ将旗ヲ移揚シテ「ラバウル」発12日1300「ショートランド」泊地着、同日夕刻秋月ニ将旗ヲ移揚、同夜27駆(夕暮欠)及秋月駆逐艦長以上船長(第一分隊)打合ヲ行ヒ作戦準備ヲ完了セリ』
- ^ #S1709四水戦詳報(3)p.7『輸送船航行中及泊地ニ於ケル揚搭作業中ハ護衛隊ノ全力ヲ以テ対潜対空威力ノ最大発揮ニ努ム。特ニ秋月ノ対空威力ノ最大発揮ニ努ム』
- ^ #S1709四水戦詳報(4)pp.12-13『十.護衛隊旗艦トシテノ秋月能力 今次作戦ノ如ク極メテ短期間護衛駆逐艦七隻輸送船六隻ヲ指揮セル情況ニ於テハ左ノ人員兵器ヲ増加セルノミニテ概ネ支障ナク護衛任務ヲ遂行シ得タリ|(イ)人員(司令部)幕僚全部、信号員3、電信員8、暗号員特務士官2下士官兵2|(ロ)兵器(由良)方向信号灯2』
- ^ #戦史叢書83ガ島戦200頁(註:白雲と夕霧は日本本土で修理中のため不在)
- ^ a b #戦史叢書83ガ島戦201-202頁
- ^ #戦史叢書83ガ島戦213頁
- ^ #戦史叢書83ガ島戦218頁
- ^ #S1709八艦隊日誌(2)p.42『川内由良龍田|10-14|陸兵1129、野砲4、速射砲4、弾薬ヲ「エスペランス」ニ揚陸ス』
- ^ a b c #戦史叢書83ガ島戦220-221頁
- ^ #S1709八艦隊日誌(2)p.43『輸送船(崎戸九州笹子佐渡南海及吾妻山丸)|10-15|14日「タサファロング」ニ入泊セル船団ハ15日0335以後ヨリ連続的敵機ノ爆撃ヲ受ケ0945吾妻山丸火災續イテ笹子山丸1120九州丸火災擱坐、1530残存船団帰途ニ就ク』
- ^ #S1709四水戦詳報(5)p.4『10月16日連合艦隊ヨリノ指令ニ依リ日進、千歳ノ輸送ハ取止メラレ千代田ノ進出モ亦延期トナレルヲ以テ増援部隊ヲ軽巡戦隊(川内、由良、龍田)水雷戦隊(秋月、7dg、11dg、6dg、2dg、19dg、27dg)ニ分ケ第四水雷戦隊司令官ハ水雷戦隊ヲ指揮スルコトトナレリ』
- ^ #S1709四水戦詳報(5)pp.14-15『16日2335 3sd司令官→4sd司令官8F長官/翌17日出撃要領左ノ通改ム|一.出撃時刻0430|二.出撃部隊軍隊区分 軽巡戦隊1番艦川内2番艦由良3番艦龍田・水雷戦隊旗艦秋月、一番隊9駆11駆6駆、二番隊2駆、三番隊19駆、四番隊27駆(略)五.入泊(引揚)時刻「エスペランス」「タサハロング」共2100(2300)|六.入泊地19駆ヲ「タサハロング」ニ、龍田ヲ「エスペランス」ニ変更ス|七.日進千歳千代田ノ出撃ハ追テ令ス』
- ^ a b c d #戦史叢書83ガ島戦224-225頁『十七日の輸送』
- ^ #S1709四水戦詳報(5)p.6『『村雨時雨ハ適時哨区ヲ撤シ2210予定ノ如ク陸上砲撃ヲ実施ス(発射弾数村雨60発時雨100発)』
- ^ #S1709八艦隊日誌(2)p.43『増援部隊|10-17|陸兵2159、野砲6、速射砲12、弾薬器材ヲ「エスペランス」「タサファロング」ニ揚陸ス』
- ^ #S1709四水戦詳報(5)p.7『18日0445軽巡戦隊ニ対シ左斜前約1粁ヨリ敵潜水艦ノ雷撃(発射雷数3)アリ内1由良ノ左舷前部清水タンクニ命中セルモ不爆ニシテ大ナル損害ナク0930増援部隊全部RXEニ帰着セリ。本行動中敵機竝ニ敵水上艦艇ノ妨害ヲ受ケズ』
- ^ #S1709四水戦詳報(5)p.9『18日0445(略)内1由良ニ命中前部清水タンクニ小浸水アルモ不発ナリシ為大ナル被害ナシ速力ニ影響セズ|0930RXE帰着』
- ^ #S1710四水戦日誌(1)p.18『尚本作戦中敵航空兵力制圧ノ為直前航空機ニ依ル「ガ」島飛行機ノ攻撃航空撃滅戦ヲ強化スルト共ニ同飛行場砲撃ヲ企図シ、11日夜ノ6Sニ依ル計画ハ敵水上艦艇ト遭遇セル為実施セラレザリシモ13日夜3S、14日夜ノ鳥海衣笠ニ依ル艦砲射撃ハ順調ニ実施セラレ特ニ13日夜ノ3Sニ依ル砲撃ハ効果甚大ニシテ敵機ノ跳梁ヲ低下シ船団ノ進出ヲ容易ナラシメタリ』
- ^ #S1710四水戦日誌(1)p.20『9月第一回「ガ」島総攻撃ニ奏効セザリシ以来敵ハ益々航空基地ヲ整備シ守備ヲ強化シツツアル状況ニ鑑ミ一日モ速ニ敵飛行場ヲ占領スルノ要アリ之ガ為下旬第二回総攻撃ヲ期シ中旬船団輸送ニ依ル大量増援ニ成功、更ニ引続キ艦艇ニ依ル輸送ヲ行ヒ概ネ攻撃準備態勢ナリ陸軍ハ大ナル自信ヲ以テ24日(22日ノ予定ナリシ処24日ニ順延トナル)総攻撃ヲ実施、海軍ハ之ニ呼応、同方面ニ出動海上ヨリ攻撃ニ策応セントス』
- ^ #S1709八艦隊日誌(2)p.21『(イ)一般情勢 敵ハ逐次RXN(ガダルカナル)ニ増強シ飽ク迄之ヲ固守セントスルノ對勢ヲ示スニ至レリ。帝国海陸軍ハ之ニ対シ基地航空兵力竝ニ在RXN陸軍、第三戦隊、鳥海及第六戦隊ノ射撃ニ依リ敵機ヲ撃砕シ其ノ虚ニ乗ジ高速船団ニ依ル輸送ヲ強行セリ。斯クテ在RXN陸軍ノ増強ヲ計リ24日総攻撃ニ転ジタルモ敵飛行場ヲ占領スルニ至ラズ、目下彼我共ニ増勢シツツ次期作戦ヲ畫シアル情況ナリ』
- ^ a b c #戦史叢書83ガ島戦249-251頁『攻撃開始日の延期と再延期』
- ^ #S1709八艦隊日誌(2)pp.43-44『外南洋部隊|10-24 10-25|RXN陸軍総攻撃ハ22日ト決定サレタルモ陸軍進出ノ関係上順次繰下ゲラレ24日ト決定セリ、海軍ハ右作戦ニ策応スル為出撃セリ。飛行場占領ノ報ニ接シ各隊予定ノ如ク進撃中右ハ誤報ナル事判明進出ヲ中止ス。但シ突撃隊(6dg駆2欠、白露)ハ予定ノ通「ルンガ」ニ突入ニ決ス、敵巡「ルンガ」ニ在ルノ報ニ接シ第2攻撃隊4Sd(9dg、27dg欠)ヲ増派ス。突撃隊ハ特巡1、小型輸送船2撃沈、駆逐艦ハ遁走ス。第2攻撃隊ハ連続敵機ノ爆撃ノ為由良ヲ失ヒ秋月亦被害アリ、依ッテ損傷艦ハRXEニ帰投スベキ命ジ其ノ他ハ作戦ヲ続行ス。陸軍部隊ハ飛行場奪取ニ成功セズ』
- ^ #S1710四水戦日誌(1)pp.20-22『将旗4sdハ第二攻撃隊ヲ率ヰ24日1530RXE出撃予定ノ如ク「ソロモン」群島北方海面ニ進出シアリシガ24日2100陸軍飛行場占領ノ報アリ引続キ進撃中25日0515飛行場ハ未ダ占領シ非ザルコト判明令ニ依リ反転シアリシ処、0530将旗SNBヨリ予定通進撃陸上戦闘ニ協力スベキ命ニ接シ再ビ反転進撃ス。且「ルンガ」方面ニ敵巡洋艦及駆逐艦数隻アリ突撃隊之ト交戦ストノ報アリ、更ニ0830将旗SNBヨリ第二攻撃隊ハ直ニ突入敵巡洋艦ヲ撃滅シタル後陸上戦闘ニ協力スベキ命アリ、「ガ」島東側ヨリ突入スベク「インデスペンサブル」海峡ヲ東進進撃中、1055敵艦爆五、1215敵艦爆及戦闘機約一〇、1330艦爆4、1500艦爆6、1510B-17型六、ト各交戦、由良及秋月ニ爆弾命中由良ハ被害大ニシテ萬策盡キ人員ヲ救助シタル後処分1900沈没ス。尓後外南洋部隊電令作第200号ニ依リ待機地点ニ至リ由良乗員ヲ秋月ニ移乗、同艦ヲシテ「ラボール」(RR)ニ向ケ回航セシメ26日0000将旗ヲ村雨ニ移揚シ2dgヲ率ヰ命ニ依リRXEニ回航2000同地ニ到着尓後同地ニ在リテ待機ス』
- ^ a b c d e f g h #戦史叢書83ガ島戦246-247頁『外南洋部隊』
- ^ #S1710四水戦日誌(4)p.45『(イ)麾下艦船部隊ノ行動』
- ^ #S1709四水戦詳報(6)p.23『23日1530秋月2dg由良ノ順序ニ北水道ヲ出撃ス|1615第一警戒航行序列ニ占シ針路210度トセラルモY日(総攻撃日)ヲ更ニ延期24日ニ改メラレタルヲ以テ1630反転ス|1745「ショートランド」泊地ニ帰投ス』
- ^ a b c d e f #戦史叢書83ガ島戦257-259頁『突撃隊(第六駆逐隊)のルンガ泊地攻撃』
- ^ #S1709四水戦詳報(6)p.11『24日1530RXE出撃(秋月、2dg、由良ノ順)速力18節』
- ^ #S1710四水戦日誌(4)pp.9-10『24日2100(ガ基地)/2100飛行場占領』-『24日2337GF司令長官/8F機密第2437番電 陸軍ハ「ガダルカナル」飛行場ヲ占領セリ、各隊ハ予定ノ如ク行動セヨ』-『24日2250(ガ基地)/一.主力ノ右翼ハ2100飛行場占領|二.主力ノ左翼隊ハ飛行場附近ノ敵ト交戦中』
- ^ #S1710四水戦日誌(4)p.10『24日2350将旗6dg/突撃隊発動2345』-『25日将旗3sd/各隊速ニ進出セヨ、乙増援隊揚陸終ラバ突撃隊ト共ニ「ルンガ」泊地ノ警戒残敵掃蕩ニ任ズベシ』
- ^ #S1709四水戦詳報(6)p.6『25日0340由良飛行機ヲ発進「タイボ」岬「コロンブス」岬附近ノ敵情(特ニ防御陣地及飛行場ノ情況)竝ニ「インデスペンサブル」海峡「ヌ・ヲ」哨区及「フ」哨区北部ヲ偵察セシメ同機ハ0630「ガ」島中央ヨリ東側ニハ敵飛行場竝ニ陣地ナク又「インデスペンサブル」海峡ニ敵影ナキヲ報告セリ』
- ^ a b #戦史叢書83ガ島戦260頁『由良の沈没』
- ^ #S1710四水戦日誌(4)p.10『25日0236島田参謀→0425GF、11SF参謀長、カ作B、龍田、津軽/飛行場ハ未ダ占領シアラズ、主力ハ目下自下飛行場附近ニ在リテ激戦中』
- ^ #S1710四水戦日誌(4)p.11『25日0452将旗8F→0527 ZOB、白鷹/SNB電令作第19号 「ガ」島飛行場未ダ占領シアラズ、敵情確保迄各隊進撃待テ』
- ^ #S1710四水戦日誌(4)p.12『25日0700将旗4sd/ガダルカナル飛行場未ダ占領シアラズ我同飛行場ヨリ150浬附近ニ避退ス』
- ^ #S1710四水戦日誌(4)pp.12-13『25日0530将旗SNB→0603将旗3sd・6dg/突撃隊ハ予定通進撃陸上戦闘ニ協力スベシ』-『25日0545 8F参謀長/突撃隊ヲシテ「ルンガ」附近ノ敵陣地ヲ砲撃陸戦ニ協力セシメラレ度』-『25日0615将旗6dg/突撃隊反転進撃0830「ルンガ」沖突入ノ予定』-『25日0640将旗6dg/「ルンガ」沖ノ敵巡洋艦ヲ片附ケタル後「ルンガ」岬附近敵陣地攻撃ノ予定』
- ^ #S1710四水戦日誌(4)p.11『25日0515三井少佐/先ノ軽巡ハ「ルンガ」岬東泊地ニ入泊セリ』-p.15『25日三井参謀→0815 11AF・8F参謀長/先ノ軽巡ハ「ルンガ」岬「コリ」岬間ニアリテ荷揚中ナルガ如シ』-p.16『25日0830三井少佐/0825味方駆逐艦3隻「ルンガ」岬ニ近接軽巡ハ出港シツツアリ』
- ^ #S1710四水戦日誌(4)p.14『25日0720将旗4sd/當隊突撃隊ノ進撃ニ策応シガ島東方ニ進撃セントス』-『25日0720将旗4sd→0728カ号作戦部隊/當隊突撃隊ノ突撃ニ策応シ「ガ」島東方ニ進撃セントス 我地点ケホノ24速力24節』-p.16『25日0823将旗SNB/一.主隊ハ急速進撃1600「ガダルカナル」着陸戦闘ニ協力セントス|二.第一攻撃隊ハ第二攻撃隊ニ引続キ突入陸戦ニ協力スベシ』-『25日0917第二攻撃隊指揮官/日ノ丸標識ヲ出シ置ケ』
- ^ #S1709四水戦詳報(6)p.6『「ガ」島飛行場ハ24日2100陸軍占領セリトノ報竝ニ外南洋部隊指揮官ノ令ニ依リ第二攻撃隊ハ引続キ進撃中0515飛行場未ダ占領シアラザルコト判明、令ニ依リ一旦待機位置ニ反転ス。然ルニ突撃隊ニ対シ外南洋部隊指揮官ヨリ0530予定通進撃陸上戦闘ニ協力スベキ令アリテ突撃隊ハ反転進撃ヲ開始シ且「ルンガ」方面ニハ敵巡洋艦及駆逐艦数隻アリトノ報アリ、第二攻撃隊ハ突撃隊ノ突入ニ策應シ之が支援ニ任ズルヲ至当ト判断シ0715反転1200「ガ」島東方ニ進入ノ予定ヲ以テ南下中0830外南洋部隊指揮官ヨリ第二攻撃隊ハ直ニ突入敵巡洋艦ヲ撃滅シタル後陸戦ニ協力スベキ命アリ』
- ^ #S1710四水戦日誌(4)p.17『25日0857連合艦隊司令長官→0930各隊/2sf適宜ノ航空兵力ヲ以テ「ガ」島附近所在敵艦船又ハ「ルンガ」岬附近敵陣地ヲ攻撃セシムベシ』
- ^ #五月雨126頁
- ^ #S1709四水戦詳報(6)p.7『時恰モ突撃隊ハ「ルンガ」沖ニ於テ敵軽巡洋艦及駆逐艦ト交戦中トノ報アリ之ガ戦況ニ依リテハ「サボ」島北方ヨリ直ニ「ルンガロード」ニ突入スベキモ先ヅ「シンゴ」水道ノ東方ヲ握レタル後西進「ルンガ」ヲ砲撃シタル後突撃隊ヲ支援セント決意シ「インデスペンサブル」海峡ヲ南下中…』-p.60『外南洋部隊第二攻撃隊行動図(自10.24.1530至10.26.2000)』
- ^ #S1710四水戦日誌(4)pp.18-19『25日1020将旗4sd/東口ニ至リ敵艦船ヲ見ザレバ「ルンガロード」ニ突入「ルンガ」岬附近ヲ砲撃陸戦ニ協力ノ予定』-『25日0957将旗8F→1035ZOB(カ号作戦部隊各指揮官)/SNB電令作第199号 第1・2攻撃隊ハ陸戦協力終ラバ一部兵力ヲ以テ「ツラギ」「ガ」島間哨戒ニ任ゼシメ尓余ハ概ネ集結「ルッセル」島附近海面ニ在リテ機宜行動警戒待機セヨ、主隊ハ射撃終了後北上「イサベル」島南方海面ヲ機宜行動ス』-『25日1050将旗4sd→1104第1攻撃隊 将旗6dg(将旗8F)/第二攻撃隊ハ1300「ルンガ」岬砲撃ノ予定射撃針路270度速力30節』
- ^ #軽巡二十五隻191頁
- ^ a b c d e #戦史叢書83ガ島戦261
- ^ #S1709四水戦詳報(6)p.7『1055同海峡中央(9度40分S160度55分E)ニ達スル頃図ラズモ敵艦爆5機ノ襲撃ヲ受ケ由良及秋月ニ被害アリ』
- ^ #S1710四水戦日誌(4)p.19『25日1110将旗4sd/一.1055敵艦爆ノ爆撃ニ依リ由良ニ命中|二.(射撃指揮所破壊)秋月ニ至近弾2(舵取機械1台故障後部27番30番重油タンク浸水)攻撃隊ハ一時北方ニ避退ス』
- ^ #S1709四水戦詳報(6)pp.39-40『25日1315将旗4sd司令官/1055艦爆ノ爆撃ニ依リ前電ノ外由良後部機械室ニ直撃後部機械室満水間モナク全軸使用不能トナル虞アリ、秋月右軸室ニ満水後部機械室後部隔壁膨出ノ為使用不能速力23Kt地点「ケミヒ16」』
- ^ #五月雨127頁
- ^ a b #S1709四水戦詳報(6)p.7『爾後左ノ如ク敵機来襲セリ|1215敵艦爆竝ニ戦闘機計十機|1330敵艦爆四機|1500敵艦爆六機|1510敵B-17型六機|第一次敵機ノ爆撃ニ依リ由良ハ2弾ヲ受ケ後部機械室浸水シ最大使用速力23節ニ減ジ人力操舵依リ舵行ス』
- ^ #S1710四水戦日誌(4)pp.20-21『25日1210由良/両舷機関室火災密閉消火中、後部火薬庫注水本艦間モナク全軸使用不能トナル虞アリ』-『25日1338由良/発揮シ得ル最大速力15節、只今全力航行中』
- ^ #S1709四水戦詳報(6)p.8『又秋月ハ至近弾ニ依リ右軸室満水後部機械室隔壁膨出シ最大使用速力23節前記ノ如ク連続敵機ノ来襲アルヲ以テ第二攻撃隊ハ由良ヲ護衛シツツ一時北方ニ避退スルニ決ス』
- ^ #S1709四水戦詳報(6)pp.40-41『25日 由良艦長→4sd司令官1415/其ノ後ノ浸水状況左ノ通 左舷軸運用科倉庫満水、左舷内軸室及軸室及び左舷外軸室下甲板七区電線通路浸水ノ為傾斜防水遮防見込ナシ』-『25日1420将旗4sd司令官→由良艦長/為シ得レバ「ファラ」島附近ニ擱座セヨ』-『本艦運転シ得ル見込後約1時間浸水遮防竝ニ排水ノ見込立タズ、「ファラ」島迄タドリ付キ得ルヤ否ヤ疑問ナリ』
- ^ #S1710四水戦日誌(4)p.22『25日1341将旗4sd/敵艦爆4機来襲ス「ケミヒ」二四、由良上空ニ直衛配慮シ得度』-p.23『25日1530将旗4sd→1540将旗11Sf レカタ基地/敵機連続来襲 上空直衛配サレ度我ケマハ四五』
- ^ #五月雨127頁
- ^ #S1710四水戦日誌(4)p.23『25日五月雨→1555将旗4sd/至近弾ニ依リ右舷ニ小破口多数ヲ生ズ浸水シ見ズ 魚雷頭部1破片ニ依リ引火セシモ消セリ』
- ^ #軽巡二十五隻116-117頁『退艦時の一瞬の迷い』
- ^ #S1709四水戦詳報(6)pp.8-9『1453更ニ為シ得ル限リ「ファラ」島ニ向フベキヲ命ジ「ラモス」島南方ヲ低速力ニテ西進中1500乃至1510敵艦爆六機及B-17型六機ノ爆撃ヲ受クルニ及ビ命中弾由良ニ対シ秋月ニ対シ1、五月雨ニ至近弾1アリ、由良ハ全ク航行不能ニ陥リ艦橋下及中部ヨリ起リタル火災ハ漸次蔓延シテ全艦火ニ蔽ハルルニ至リ之ガ復援ノ策全ク絶ヘタルヲ以テ1520第二駆逐隊各艦ニ対シ由良乗員ノ救助ヲ命ズ』
- ^ #S1710四水戦日誌(4)p.24『25日1614由良/萬策盡キ総員退去由訳ナシ』
- ^ #軽巡二十五隻114頁
- ^ #五月雨129頁
- ^ #S1710四水戦日誌(4)p.24『25日将旗4sd→1620第2攻撃隊/春雨ハ由良ヲ雷撃処分セヨ』
- ^ #S1709四水戦詳報(6)p.14『25日1620春雨次イデ夕立ニ由良ノ雷撃処分ヲ命ズ』
- ^ #S1709四水戦詳報(6)p.9『此ノ頃ヨリ同艦ハ漸次後部喫水ヲ増大シツツアリシモ猶沈没スルニ至ラズ翌朝ノ任務行動及「ガ」島ヨリノ距離ヲ考慮シ之ヲ処分スルヲ適当ト認メ、春雨夕立ニ雷撃ヲ命シ各一本ノ命中ニ依リ1830頃艦首ヨリ沈下ヲ始メタルモ尚艦尾ヲ僅ニ水面ニ露シテ沈没スルニ至ラズ』
- ^ #S1709四水戦詳報(6)p.9『ヨッテ夕立ヲシテ砲撃セリ、1900位置(8度15.5分北159度57分東)ニ於テ全没セリ』
- ^ #S1710四水戦日誌(4)p.33-35『27日0212将旗4sd/SNB第二攻撃隊戦闘概報(略)二.被害(イ)由良 命中弾計5 大火災運転不能戦死准士官以上砲術長以下9下士官兵45 重(軽)傷准士官以上3(3)下士官兵12(72)|(ロ)秋月 命中弾1 至近弾2(一号罐竝ニ右舷軸使用不能前部高射機旋回不如意後部機械室後部隔壁膨出(高速時保安上不安)戦闘航海ニ支障アリ、戦死准士官以上1下士官兵8、重(軽)傷下士官兵4(7)|(ハ)五月雨 至近弾1、舷側ニ小破口多数軽傷兵6|(ニ)4Sd司令部 戦死兵1 重傷兵1|三.1900由良ヲ地点(8度15分S-159度57分E)ニ於テ処分同艦長以下生存者ヲ2dg各艦ニ収容ノ上「ガ」島北方150浬ノ地点ニ避退|26日0000将旗ヲ秋月ヨリ村雨ニ移揚、秋月ヲシテ由良生存者ヲ収容 RRニ帰投セシム』
- ^ #S1710四水戦日誌(4)pp.31-32『26日0800由良(秋月)/本艦増援部隊第二攻撃隊トシテ作戦中10月25日1037ヨリ1510ニ至ル間「ツラギ」東方海面ニ於テ三次ニ至リ敵機(約20機)ノ来襲ヲ受ケ第一次(1054)艦爆4機ニ依ル至近弾数発命中弾2発(内1射撃指揮所他ハ変圧機室及後部ヲ破壊浸水 機射撃指揮所通信装置操舵装置及消防管系使用不能トナリテ下甲板第七区下方及左舷前機等ニ浸水ヲ始ム。午後排水竝ニ遮防ニ努メツツアリ応急操舵ニ依リ辛ジテ16節程度ノ航行ヲ続行中外軸次第二焼損(後機室内注油ポンプ破損ノタメ)速力漸次低下1400ニ至リ尓後2時間以上航行ハ不能ト認メラルルニ依リ「ファラ」島ニ擱座ヲ決意シ行動中、第三次敵襲ヲ蒙リ艦爆竝ニ戦闘機ノ攻撃ハ之ヲ回避シ得タルモB-17六機ノ爆撃ハ全弾夾叉命中弾3ノ為病室及3・4番砲附近一面火災、2・3缶室破壊次デ火災竝ニ航行不能トナリ尓後消火ニ努メタルモ消防ポンプ使用不能、2・3番砲々側ヨリ逐次誘爆等ノタメ火勢次第ニ熾烈トナリ遂ニ全般ニ拡マレリ、命ニ依リ1620頃総員退艦セリ。本戦闘ニ依ル戦死者准士官以上砲術長以下9名下士官兵45名負傷者准士官以上6名、内重傷3名、下士官兵84名(内重傷3名)戦死者以外全部秋月ニ収容セリ』
- ^ a b #五月雨130頁
- ^ #S1709四水戦詳報(6)p.13,39『1330尚連続来襲ノ虞アルヲ以テ上空直衛機ノ派出ヲ依頼スルト共ニ「レカタ」基地ニ待機中ノ由良飛行機ニ対シ由良上空警戒ヲ命ズ』
- ^ #S1710四水戦日誌(4)pp.26-27『25日1920将旗4sd/秋月ハ敵機ノ爆撃ニ依リ左ノ被害アリ作戦行動ニ支障アルニ付由良ノ乗員ヲ収容ノ上「ラボール」ニ帰投セシム|(一)1号缶使用不能|(二)右舷軸使用不能|(三)後部機械室後部隔壁膨出高速時保安上不安アリ|(四)発揮シ得ル最大速力22節』-『25日2115将旗4sd→第二攻撃隊/2300漂泊ス、秋月ハ由良乗員ヲ収容ノ上「ラボール」若ハ「ショートランド」ニ回航セヨ|2330将旗ヲ村雨ニ移揚ス』
- ^ a b #戦史叢書83ガ島戦262
- ^ #S1710四水戦日誌(4)p.25『『25日1737 8F参謀長→11AF参謀長1925/8F機密第251737番電 本日ノ4sdニ対スル敵機来襲情況ニ鑑ミ上空警戒機ノ急速派出ニ関シ一層配慮ヲ得度 尚明日早朝ヨリ由良及秋月ノ上空警戒機派出方取計ハレ度』』-p.28『25日1739 11AF→8F参謀長各隊2130/全力「ガダルカナル」飛行場方面作戦中ニシテ上空警戒ノ実施ハ不可能ナリ』
- ^ #S1710四水戦日誌(4)p.36『27日将旗8F→4sd1007/タナ15 由良九四式水偵(搭乗員欠)ヲ衣笠ニ補充スベシ』
- ^ #内令昭和17年11月(4)p.5『内令第二千百三十三号 佐世保鎮守府在籍 軍艦 由良 右帝國海軍籍ヨリ除カル 昭和十七年十一月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎』
- ^ #内令昭和17年11月(4)pp.31-32『内令第二千百六十六號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和十七年十一月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎 軍艦、巡洋艦二等長良型ノ項中「、由良」ヲ削ル』
- ^ 『官報』第3077号、大正11年11月2日。
- ^ #ポケット海軍年鑑(1937)p.38
関連項目
- 由良川
- 軽巡洋艦
- 5500トン型軽巡洋艦
- ゆら型輸送艦
- ゆら (輸送艦)(由良川ではなく由良半島由来)