田英夫

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田 英夫
でん ひでお
生年月日 (1923-06-09) 1923年6月9日
出生地 日本の旗 日本東京府東京市
没年月日 (2009-11-13) 2009年11月13日(86歳没)
死没地 日本の旗 日本東京都港区
出身校 東京大学経済学部卒業
前職 共同通信記者
東京放送社員
所属政党日本社会党→)
(社会クラブ→)
社会民主連合→)
(護憲リベラルの会→)
新党護憲リベラル→)
(平和・市民→)
(参議院フォーラム→)
社会民主党
称号 従三位[1]
勲一等旭日大綬章[2]
参議院永年在職議員
経済学士
親族 田健治郎(祖父)
田艇吉(大伯父)
公式サイト 田英夫 ジャーナリスト・元社会民主党護憲連合参議院議員

選挙区全国区→)
東京都選挙区→)
比例区
当選回数 6回
在任期間 1971年7月4日 - 2001年7月
2003年4月 - 2007年7月28日

在任期間 1978年3月26日 - 1985年2月10日
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田 英夫(でん ひでお、1923年6月9日 - 2009年11月13日)は、日本のジャーナリスト政治家従三位勲一等参議院議員を務めた。

人物・来歴

生い立ち

貴族院勅選議員台湾総督を務めた男爵田健治郎の次男で、鉄道省国際観光局長や華中鉄道副総裁をつとめた田誠の次男として、田英夫は東京で生まれた。東京帝国大学入学直後の1943年(昭和18年)に学徒出陣で海軍に入隊、海軍兵科第4期予備学生を経て、第16震洋特別攻撃隊艇隊長として宮崎県の赤水に配置され訓練を重ねていたが、出撃命令が下る前に海軍中尉で終戦を迎え復員した。

ジャーナリストとして

1947年、東京大学経済学部卒業[3]共同通信社に入社し[3]社会部、政治部記者(東京裁判等の取材にあたる)、1956年の第一次南極観測隊報道担当隊員。1960年に共同通信社会部長、1962年に文化部長を経て、同年11月に当時のラテ兼営放送局・TBS(東京放送[4])に入社した。

1962年10月から放送を開始した『JNNニュースコープ』の初代のメインキャスター[5]となり、1968年3月まで務めた。日本独特の文化であるニュースキャスターの先駆けであるとされている[6]

『JNNニュースコープ』降板の原因は、西側のテレビメディア初の、北ベトナムでのベトナム戦争取材の最中に発生した。建前上の解雇理由は「『北ベトナムが負けていない』という『真実でない』報道」での放送法第3条2違反であるが、その真実は、報道姿勢そのものを反米的と見なした政府筋、自民党及び田中角栄幹事長などが、TBS社長の今道潤三を自民党本部に呼んでTBS首脳部に圧力をかけたからだとされている[7]。TBSへの再免許更新なしをちらつかせる最終段階まで経営首脳部は解任圧力に抵抗したが、1968年3月10日成田空港建設反対集会取材のさなか、TBSのドキュメンタリー製作スタッフのマイクロバスにプラカードを所持した集会参加者の反対同盟の農婦7人とヘルメットを着けた若い男3人を乗せたTBS成田事件の影響もあり[7]、最後の放送では降板の経緯に触れることなく「それではみなさん、また明日」を「それではみなさん、さようなら」と言い換えるのみでTV界から去っていった。1970年同社を退職[8]

後日談として、後の首相である自民党衆議院議員三木武夫が「田英夫君を励ます会」を帝国ホテルで主催し、同じく後の首相であり当時運輸大臣であった中曽根康弘をはじめ宇都宮徳馬など多数の自民党議員も出席した。

政治活動

1971年6月、日本社会党から第9回参院選全国区に立候補して192万票を獲得し、トップ当選した(いわゆるタレント候補)。

当選間もないころ、通商産業大臣を務めていた田中角栄のもとを陳情で訪れた際に封筒を持たされ、その中身は100万円の裏金だったことを、後にオフレコ扱いで政治評論家の岩見隆夫に告白した。岩見は田の死後、その事実を発表した[9]

1972年に発生したあさま山荘事件の直後に連合赤軍について述べ、「赤軍派を非難する声があるが、幕末明治維新を御覧なさい。正義のための殺人もあれば暗殺もある。水戸の天狗党は維新に先駆けて決起し結局幕府のために死刑になったが、全ては歴史が審判する」と擁護する発言を行った。四面楚歌の連合赤軍をかばったのは、若松孝二、竹中労と田英夫ぐらいだった。

横路孝弘らとともに「新しい流れの会」を結成し、党改革を目指していたが、1977年中道左派リベラル派の結集を目指して離党した[3]

社会党時代は穏健な社会民主主義者として知られ、向坂逸郎社会主義協会とは激しく対立した。1977年に党改革が不十分であることを理由に社会党を離党した。その後、社会党を除名された。西欧型の社会民主主義路線を掲げる社会民主連合を結成した。

社民連時代

1978年3月、社会民主連合の結成に参画し、初代代表となった[3]1983年横路孝弘八代英太らと共にMPD・平和と民主運動の呼びかけ人となり、事実上の中心人物でもあった。

リベラル政党の新自由クラブや田川誠一代表の進歩党と統一会派新自由クラブ民主連合進歩民主連合を結成、新自由クラブ民主連合で比例区の名簿も共同で出した。長年対立してきた東京都知事鈴木俊一を自公民相乗り候補となった磯村尚徳の対抗馬として支持・支援した。

金大中元大統領候補を支援

田英夫で一番よく知られているのは、韓国のリベラル派、金大中大統領候補を、長年支援したことである。韓国の朴軍事独裁政権から激しい弾圧を受けていた金大中を、田は懸命に支援していた。

民主カンプチア支援

1980年4月に発足した「カンボジア救援センター」の事務局長に就任、8月には民主カンプチアの支配地域に入り、キュー・サムファン首相と会談した。その際、キュー・サムファン首相が語ったことばをそのまま信用し、「(ポル・ポト派による)大虐殺はベトナムの宣伝に過ぎない」と主張していた。[10]

辛光洙釈放署名

1989年在日韓国人政治犯釈放の要望書に署名した。この中には当時から拉致事件容疑者として韓国で逮捕され、日本でも報道されていた北朝鮮による日本人拉致問題の容疑者が含まれていた(辛光洙の項目参照)。田の求めで、菅直人(後の第94代内閣総理大臣)・千葉景子(後の第83・84代法務大臣)・江田五月(後の第87代法務大臣)もこの釈放署名要望書に署名した。

社民連解党後から社民党入党まで

1994年、國弘正雄翫正敏三石久江ら小選挙区制に反対する社会党参院議員と共同で院内会派「護憲リベラルの会」を結成、同年9月22日、新党護憲リベラルを結党した。その間、反小沢一郎色を強めていく。

自社さ連立政権についてはいち早く支持を表明した。さらには社会党最左派と言われた伊東秀子北海道知事選挙に自民党推薦で擁立したりもした。これらの行動は彼とさまざまな社会運動を共にしてきた支持者・支援者からは裏切りとも取られ、東京都議会議員下元孝子は代表を務めていた大衆党を離党したり、護憲リベラルは「平和・市民」と憲法みどり農の連帯に分裂したりと数々の対立・分断の原因ともなった。

95年参院選後、田らの「平和・市民」は解党。田は椎名素夫らと院内会派「参議院フォーラム」を結成する。

社会民主党時代

1997年に社会党の後身である社民党に入党した[3]。党外交・防衛部会長を務めた。民主党の成立後は左派色を前面に出して活動した。

1998年第18回参議院議員通常選挙福島瑞穂が立候補した(結果、当選)際『瑞穂はやっぱり社民党』というキャッチコピーを考えだのは田である[11]

1999年8月に参院本会議の国旗・国歌法に反対した。

2001年7月の第19回参院選では戦争に対する危惧から、以前より表明していた引退を撤回して比例代表区(社会民主党)から出馬するも落選する。しかし田嶋陽子の議員辞職に伴って2003年4月に繰り上げ当選となり、6期目を務めることになった。

2003年静岡空港建設反対の国会議員署名活動で署名者に加わっている[12]

2004年の年金国会においては、本会議における年金法案の採決阻止を目的として与党出身者を議長職から退かせた場合に、最年長議員が仮議長を務める国会の慣例として名前が浮上していた。しかし副議長の散会宣言に同調して再出席しなかったこともあるが、最年長議員が仮議長に就任する慣例がないと参院事務局から見解を出されて、仮議長には就任できなかった。

2005年3月、脳内出血を患い[6]4月からは療養のために国会に登院していなかったが2005年8月には郵政国会において政局となった郵政法案の賛成派と反対派が拮抗し、1票の価値が重要視されるようになると4ヶ月ぶりに登院し、反対票を投じた。

2006年12月、2007年夏の参院選に出馬しないことを表明し、34年間の議員生活を終えた[6]

政界引退後

2009年11月13日8時50分、呼吸不全のため東京都港区東京慈恵会医科大学附属病院で死去した[13]。86歳没。

選挙歴

当落 選挙 施行日 選挙区 政党 得票数 得票率 得票順位
/候補者数
比例区 比例順位
/候補者数
第9回参議院議員通常選挙 1971年6月27日 全国区 日本社会党 1,921,641 ' 1/106 - -
第11回参議院議員通常選挙 1977年7月10日 1,587,262 ' 1/102 - -
第13回参議院議員通常選挙 1983年6月26日 比例区 新自由クラブ・民主連合 ' ' ' 第1位 -
第15回参議院議員通常選挙 1989年7月23日 東京都選挙区 無所属 1,164,511 22.7 1/43 - -
第17回参議院議員通常選挙 1995年7月23日 平和・市民 435,773 11.4 4/72 - -
繰当 第19回参議院議員通常選挙 2001年7月29日 比例区 社会民主党 134,934 10.1 4/10 - -
当選回数6回 (参議院議員6)

栄典

脚注

注釈・出典

  1. ^ 平成21年12月7日付け官報本紙第5209号
  2. ^ 平成13年11月5日付け官報号外第235号
  3. ^ a b c d e 「田英夫さん死去:元社民連代表、ハト派論客:86歳」 『毎日新聞2009年11月18日、13版、1面。
  4. ^ 会社としては、現在の東京放送ホールディングス。放送局としては、現在のTBSテレビTBSラジオ。TBSの略称は、2009年4月よりTBSテレビに引き継がれているが、TBSラジオでも使われることがある。
  5. ^ 開始1か月は共同通信社から出向扱い。上記のとおり同11月から正式にTBSに移籍
  6. ^ a b c 「田英夫さん死去:特攻隊の経験が原点『平和のために議員に』」 『毎日新聞』 2009年11月18日、13版、27面。
  7. ^ a b 美智子上皇后は義弟の姉、テレビプロデューサー「大原れいこ」の華麗なる交流”. 週刊新潮. p. 2 (2020年6月14日). 2020年6月14日閲覧。
  8. ^ 「ハノイの微笑」オンライン復刻版 (田英夫公式サイト)”. 2007年7月4日閲覧。
  9. ^ 「近聞遠見」 『毎日新聞』 2009年11月28日
  10. ^ 本多勝一『虐殺と報道』すずさわ書店、1980年11月
  11. ^ “「瑞穂はやっぱり社民党」 分裂寸前に福島党首が「1998年フレーズ」再強調する理由”. JCASTニュース. (2020年10月23日). https://www.j-cast.com/2020/10/23397325.html?p=all 2020年10月24日閲覧。 
  12. ^ 国会議員署名これまでと今後の展望 - 空港はいらない静岡県民の会(2009年3月7日時点のアーカイブ
  13. ^ “「田英夫氏が死去 ニュースキャスターの草分け」”. ZAKZAK. (2009年11月17日). http://www.zakzak.co.jp/smp/entertainment/ent-news/news/20091117/enn0911171625016-s.htm 2020年2月27日閲覧。 
  14. ^ 「2001年秋の叙勲 勲三等以上と在外邦人、外国人叙勲の受章者一覧」『読売新聞』2001年11月3日朝刊

関連項目

外部リンク

党職
先代
結成
社会民主連合代表
初代:1978年 - 1985年
次代
江田五月
名誉職
先代
大田昌秀
最年長参議院議員
2003年4月 - 2007年7月
次代
木村仁
ビジネス
先代
番組開始
JNNニュースコープ
月・火曜メインキャスター

1962年 - 1968年
次代
古谷綱正