田崎潤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
たざき じゅん
田崎 潤
田崎 潤
地獄門』(1953年)
本名 田中 実
別名義
  • 月波洋三郎
  • 毛利賢二
生年月日 (1913-08-28) 1913年8月28日
没年月日 (1985-10-18) 1985年10月18日(72歳没)
出生地 青森県青森市
死没地 東京都世田谷区瀬田
国籍 日本の旗 日本
職業 俳優
ジャンル 映画テレビドラマバラエティー番組声優CM
活動期間 1933年 - 1985年
配偶者 田中満(長男)
所属劇団 新生喜劇座劇団たんぽぽ
事務所 新東宝
主な作品
テンプレートを表示

田崎 潤たざき じゅん[1][2][3]1913年大正2年〉8月28日[1][4] - 1985年昭和60年〉10月18日)は、日本俳優。本名は田中 実。新東宝入社前は舞台俳優として、本名のまま、または月波洋三郎、毛利賢二の芸名を使っていた。青森県[4]青森市[1]出身。

来歴・人物[編集]

父は公務員。地元の小学校から県立青森商業に進学し、1932年に卒業。1933年、地方巡業の役者となり各地を回る。1935年森川信らのレヴュー劇団ピエル・ボーイズに入団。この時、月波洋三郎月波貫一の芸名を名乗る。1936年に退団後は中華民国だった上海にわたり、劇場の踊りの振付師を務める[5]1937年、帰国して名古屋の劇団に身を寄せるが、まもなく応召。1938年に除隊し、1939年毛利賢二の芸名で新興キネマ演芸部に所属。1942年、かつてピエル・ボーイズで一緒だった清水金一堺駿二らと新生喜劇座を結成、以後は本名の田中実で舞台に立つが、座長である清水の横暴振りから不満を抱き堺と共に退団。水の江瀧子主宰の劇団たんぽぽに堺や有島一郎と共に入団し、軽演劇の舞台に出演を続けるが、1944年に再び応召、終戦まで軍隊生活は続く。

1947年、たんぽぽに戻るが、戦前のスター・松山宗三郎こと小崎政房がいた空気座に移り、原作・田村泰次郎、脚色・小沢不二夫、演出・小崎による舞台『肉体の門』に娼婦たちと共に廃屋に同居する復員兵・伊吹新太郎役を演じる。センセーショナルな内容を描いた舞台は大評判を呼び、1948年マキノ雅弘監督によって映画化される際、舞台と同役にキャスティングされ、映画デビューをかざる[6]。これをきっかけに新東宝に入社する[6]1950年、新東宝の大作『細雪』に出演する際、芸名を田崎潤に変える。理由は本作の共演者の田中春男と苗字が被るため、宣伝部から改名を要求されたからで、芸名の由来は本名のの字と『細雪』の原作者谷崎潤一郎崎潤とを組み合わせた。

1951年には『オール讀物』に連載が始まったばかりの村上元三の小説『次郎長三国志』を読んで、作中人物・桶屋の鬼吉を自ら演じたくてマキノ雅弘監督に映画化の企画を持ち込み、この『次郎長三国志』は東宝映画でシリーズ映画化され、東宝のドル箱シリーズとなる[6][4]1960年代からは東宝を中心に、黒澤作品からゴジラシリーズなどの特撮怪獣映画戦争映画に至るまで、数多くの作品に出演。力強い顔立ちで強烈な存在感を残す役どころが多い[2]。中でも1957年の新東宝の大ヒット作『明治天皇と日露大戦争』での東郷平八郎連合艦隊司令長官や、1963年の東宝特撮映画『海底軍艦』の神宮寺大佐、1967年の東宝35周年記念映画『日本のいちばん長い日』の小園安名大佐など、叩き上げの軍人役に実績がある。テレビドラマでも、頑固な親父役から凄みのある悪役まで、幅広い役柄を演じている。主演作は300本以上におよんだ[1]

NHKクイズゲーム番組連想ゲーム』のレギュラー回答者でもおなじみだった[4]。この時、いつもスタジオ中に響く大声で回答していたということもあり、他の回答者の前にあったスタンドマイクが田崎の前には置かれていなかったという逸話もある。

テレビドラマ『スクール☆ウォーズ』の原作者である作家、馬場信浩は1975年頃、俳優修行を田崎の元で行っていた。

その後、日仏合作映画・『』のロケに参加する。だが1984年11月に肺癌と診断されるも盟友・黒澤明の求めに応え、無理を承知で長期ロケ撮影に参加し見事演じ切る。収録終了後、玉川病院に入院するも癌は末期に達していて、1985年10月18日午前3時18分に同病院で死去(享年72歳)[7]

エピソード[編集]

  • 三船敏郎は一番の飲み友達だった。土屋嘉男は夜銀座を歩いていて、2人が広い車道の真ん中を大声でわめきながら歩いているのを見て、慌てて隠れたことがあるという。
  • 成城に家を新築した際にパーティーを開いた。和やかな宴だったが、突然酔った三船が怒鳴り声をあげて帰ってしまった。しばらくすると三船が田崎邸の前に車を停め、「やーい田崎! 出てこーい!」と叫んでピストル[注釈 1]を三発撃ち、轟音を上げて走り去った。土屋によると原因は田崎と三船の「誰を呼んで、誰を呼ばなかった」という子供っぽいいさかいによるもので、この出来事は「成城のピストル事件」と呼ばれ、閑静な成城でしばらく有名な話だったという[8][信頼性要検証]
  • 映画『八甲田山』では雪中行軍中に尋ねられる地元民の役で出演、故郷の完璧な津軽弁を披露している。
  • 映画監督の本多猪四郎は、田崎は訛りがとれずに苦労したというが、そうした経験が演技に深みを与えていたと評している[9]
  • 映画『怪獣大戦争』で共演した沢井桂子は、田崎は声が大きく豪快な話し方で、酒を飲むとさらに大きな声になったと証言している[10]
  • 夏木陽介によれば、撮影の合間に撮影所の床山の部屋で田崎や三船敏郎宝田明佐藤允らでよくセブンブリッジに興じていたといい、田崎は印刷所に依頼してスコア用紙を作り、各人の点数をつけるなど細かい面もあったという[11]

主な出演作品[編集]

下郎の首』(1955年)メイキング。瑳峨三智子

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

テレビアニメ(声優として)[編集]

吹き替え[編集]

バラエティー番組[編集]

CM[編集]

著書[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 土屋は「撮影用の空砲だったと思う」と語っている。
  2. ^ a b c 田中実名義。
  3. ^ 新東宝が独自に映画配給業務を開始した第1回作品であり、田崎潤の新東宝入社第1回作品。
  4. ^ 第2話は声のみ。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 東宝特撮映画全史 1983, p. 531, 「怪獣・SF映画俳優名鑑」
  2. ^ a b 決定版ゴジラ入門 1992, p. 164, 「第5章 これがゴジラ映画だ 出演した人たち」
  3. ^ a b c d e f g ゴジラ大百科 1993, p. 124, 構成・文 岩田雅幸「決定保存版 怪獣映画の名優名鑑」
  4. ^ a b c d 超常識 2016, p. 124, 「Column ゴジラ映画 俳優FILE」
  5. ^ 亡くなる前年刊行の『夜想12 上海』(ペヨトル工房、1984年)に、回想談「冒険児梅花郎の伝説」がある
  6. ^ a b c NHK. “田崎潤|NHK人物録”. NHK人物録 | NHKアーカイブス. 2022年1月23日閲覧。
  7. ^ 「豪快な笑い、渋いわき役・田崎潤さん死去」 読売新聞1985年10月19日朝刊23面
  8. ^ 『クロサワさーん!』(土屋嘉男、新潮社)[要ページ番号]
  9. ^ 「本多猪四郎監督 長編インタビュー(3)」『海底軍艦/妖星ゴラス/宇宙大怪獣ドゴラ』東宝出版事業室〈東宝SF特撮映画シリーズ VOL.4〉、1985年8月1日、207頁。ISBN 4-924609-13-7 
  10. ^ 東宝特撮女優大全集 2014, p. 105, 聞き手・構成 友井健人「沢井桂子インタビュー」
  11. ^ 別冊映画秘宝編集部 編「夏木陽介(構成・文 友井健人)」『ゴジラとともに 東宝特撮VIPインタビュー集』洋泉社〈映画秘宝COLLECTION〉、2016年9月21日、88頁。ISBN 978-4-8003-1050-7 
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m 東宝特撮映画全史 1983, pp. 536–538, 「主要特撮作品配役リスト」

参考文献[編集]

  • 『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸東宝出版事業室、1983年12月10日。ISBN 4-924609-00-5 
  • 田中友幸『決定版ゴジラ入門』(第7刷)小学館〈小学館入門百科シリーズ142〉、1992年4月20日(原著1984年7月15日)。ISBN 4-09-220142-7 
  • 『ENCYCLOPEDIA OF GODZILLA ゴジラ大百科 [メカゴジラ編]』監修 田中友幸、責任編集 川北紘一Gakken〈Gakken MOOK〉、1993年12月10日。 
  • 別冊映画秘宝編集部 編『〈保存版〉別冊映画秘宝 東宝特撮女優大全集』洋泉社、2014年9月24日。ISBN 978-4-8003-0495-7 
  • 『ゴジラの超常識』[協力] 東宝、双葉社、2016年7月24日(原著2014年7月6日)。ISBN 978-4-575-31156-3 

外部リンク[編集]