球磨型軽巡洋艦

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球磨型軽巡洋艦

竣工当時の「大井」
艦級概観
艦種 軽巡洋艦
艦名 川の名
前型 天龍型軽巡洋艦
次型 長良型軽巡洋艦

夕張型軽巡洋艦

性能諸元
排水量 基準:5,100tt
常備:5,500t
満載:5,832t
全長 162.15m
水線長 158.5m
全幅 14.17m
吃水 4.80m (常備)
機関 ロ号艦本式重油専焼水管缶10基&同石炭・重油混焼水管缶2基
+技本式(大井のみブラウン・カーチス式)ギヤード・タービン4基4軸推進
最大出力 90,000 SHP
速力 36.7 kt
航続距離 14 kt / 5,000 NM
燃料 重油:1,260t
石炭:350t
乗員 450名
武装 竣工時
三年式 14cm(50口径)速射砲7基7門
三年式 8cm(40口径)単装高角砲2基2門
六年式 53cm連装魚雷発射管4基8門
一号機雷48個
重雷装化後の大井・北上
三年式 14cm(50口径)速射砲4基
25mm(60口径)連装機銃2基
61cm四連装魚雷発射管10基
回天搭載型化後の北上
八九式 12.7cm(40口径)連装高角砲2基
25mm(60口径)三連装機銃12基
25mm(60口径)単装機銃31基
回天8基
装甲 舷側:63(25+38)mm(機関部のみ)
甲板:16~29mm
主砲防盾:20mm(最厚部)
司令塔:51mm(側盾)、25mm(天蓋)
航空兵装 木曽:水上機:1機
滑走台:1基

球磨型軽巡洋艦(くまがたけいじゅんようかん)は大日本帝国海軍軽巡洋艦。同型艦は5隻。

概要

天龍型軽巡洋艦を完成させ、軽巡洋艦を運用し始めた日本海軍は本格的軽巡洋艦の建造に着手し始めた。同時期にアメリカ海軍で建造されたオマハ級軽巡洋艦を意識して艦形を大型化して強力な打撃力を求め、付随艦である駆逐艦に合わせた高速力を目指して改設計されたのが本型である。なお、排水量の5,000tは当時、各国で軽巡洋艦の標準クラスとされた。艦形が大型化した事により天龍型で問題とされた低居住性と凌波性は一応の解決を見た。

艦形

本型の武装配置を示した図。

本型の艦型は天龍型を拡大した形で船体形状は艦首乾舷のみ高い短船首楼型船体である。艦の構造を前部から記述すると、艦首甲板上に主砲の14cm速射砲を単装砲架で背中合わせに1番・2番主砲を1基ずつ計2基を搭載、その背後に露天の操舵艦橋と竣工時から三脚式の前部マストの左右に3番・4番主砲を1基ずつ配置した。

船体中央部に等間隔に立つ3本煙突を前後から挟み込むように53.3cm魚雷発射管が連装で前後に片舷1基ずつ計4基8門を配置した。煙突の周囲には丈の低い煙管型の通風塔が立ち並び、舷側部は艦載艇置き場となっており、艦載艇は2本1組のボート・ダビッドが片舷3組ずつ計6組で運用された。対空火器の8cm高角砲は前型では後部甲板上にあったが、本型から1番煙突の側面部に片舷1基ずつの計2基が配置された。

航空施設を設置した「球磨」の写真。1935年7月に青島を出港するときに撮られたもの。

この頃から航空兵装の搭載が行われ、木曾は長良型のように2番主砲の上部に水上機の滑走台が設けられたがあまり実用的ではなく、当初木曾を除いた各艦は、水上偵察機を分解して搭載し、必要時に組み立てデリックで海面に降ろしていた。後に「球磨」と「多摩」は、のちに呉式2号射出機を5番・6番主砲の間に1基を設置して九〇式二号水上偵察機を運用できるようにした。

機関

本型の機関は天龍型の基本構成を踏襲しており、ロ号艦政本部式重油専焼水管缶は2基多い10基となり、これに重油・石炭混焼水管缶2基を加えて12基とした。推進機関は海軍技術本部が設計した技本式ギヤード・タービン4基で、このうち2基には巡航用タービンを接続していた。最大出力90,000馬力で速力36.0ノットを発揮したが、日本で開発されたタービンであったためにカタログデータ通りの出力が中々出せず、調整や修理に時間がかかって信頼性を落としていた。また、比較として「大井」のみブラウン・カーチス式タービンを搭載していた。

防御

本型の防御は天龍型と同一で、舷側に25mmと38mm装甲板を二枚重ねし、装甲範囲は機関部を中甲板から水線下まで覆っていた。甲板防御は中甲板を29mm装甲で防御していた。水線下防御は舷側装甲の裏に1層の水密区画を艦底部まで延長して二重底とする簡易な形式である。

艦歴

1942年に撮られた「多摩」の写真。本艦は開戦直後の北方警備で船体各所に故障が生じたためにドックで修理された。この時に前部マストを低めると共に日本海軍では珍しい迷彩塗装が施された。
1945年2月18日に撮られた「北上」。回天搭載型に改装された状態。
回天搭載型に改装された「北上」。

改装によって7,000t近くまで排水量が増大したため速力が32kt前後まで低下したことや兵装の弱体化・新型駆逐艦の性能向上などによって本艦型は水雷戦隊を率いることなく、専ら北方防備や兵員輸送任務などに従事した。練習巡洋艦へ改造する事も検討された。1931年(昭和6年)6月下旬、ドイツの軽巡洋艦「エムデン」が来日した際、日本海軍は同艦見学者に対し「球磨級を練習艦に改装する際の参考にせよ」と指示している[1]。だがこのプランは実現しなかった。

重雷装艦

1941年(昭和16年)当時、日本海軍は旧式の球磨型軽巡洋艦を有効活用すべく、九三式61㎝魚雷(酸素魚雷)四連装発射管10基を装備した重雷装艦への改造を決定[2]。佐世保海軍工廠で「北上」の改造を担当した海軍技術大尉によれば、米艦隊の輪形陣に夜陰に乗じて紛れ込み、両舷の敵主力艦にむけ全40本を一挙に発射する計画だったという[3]。生還の可能性はほとんどなかった[3]。同年9月に「北上」、同年12月に「大井」の改造が完了したが、2隻が最前線に投入される事はなかった[2]

高速輸送艦

1942年(昭和17年)8月以降のガダルカナル島の戦いにおける日本軍は、米軍制空権下での輸送作戦を強いられ、低速の輸送船団は米軍機によって次々に撃沈された(第二次ソロモン海戦第三次ソロモン海戦等)。このため高速の駆逐艦による輸送作戦(鼠輸送)が実施されたが、輸送船と比較すると駆逐艦が揚陸できる物資量は極めて少なかった。1943年(昭和18年)3月3日のビスマルク海海戦で駆逐艦4隻(白雪朝潮荒潮時津風)および輸送船8隻を撃沈された第八艦隊は、海軍艦政本部へ幾つかの提言を行う[4]。その中で『四.高速小型輸送船(差當リ駆逐艦巡洋艦ノ改装ニ依リ)ニ依リ輸送力強化ヲ要ス』と訴えている[5]。このような要望に応える形で、最前線での輸送・揚陸任務をおこなう高速小型輸送艦(第一号型輸送艦二等輸送艦)が登場した[6]。同様に既成艦の改造も検討され、「北上、大井」の場合は以下のような計画だった[2]

魚雷発射管は2基のみ残置(8基撤去)、14㎝主砲は全部撤去して12.7㎝連装高角砲2門を装備、従来の艦橋を撤去して艦前方に新造艦橋を設置、輸送物件積み下ろし用のクレーンを装備、第一罐室と前部機関室を輸送物件格納庫へ回収、大発動艇数隻と輸送物件約300トン可能という予定である[2]。だが工程数万、工事期間最少5ヶ月と試算されたため、2隻を本格的に高速輸送艦へ改造する計画は断念された[2]。それでも魚雷発射管を撤去して大発動艇を搭載するなどの小改造は随時実施された[7]

輸送任務に従事していた「北上」は1944年(昭和19年)1月27日に米潜水艦の魚雷2本が命中して中破、約5ヶ月間シンガポールで応急修理をおこなったあと、7月12日に内地へ帰投し、本格的な修理に入った。7月19日、「大井」は米潜水艦に撃沈される。単艦となった「北上」は同年8月14日から1945年(昭和20年)1月20日までの間に佐世保で人間魚雷回天」の母艦として改装を受けた[8]。主砲を撤去して12.7cm連装高角砲2基に換装、魚雷発射管も全撤去され、艦尾を改造してスロープを設置、後部甲板上に回天(8機搭載)投下用のレールを敷いた[2]。これによって航行しながらの回天発進が可能となったが実戦で回天を発進させる機会はなく、呉軍港で防空砲台となった。呉軍港空襲で航行不能となったのち、戦後は特別輸送艦用の工作艦としてしばらく運用された[9]

同型艦

脚注

  1. ^ #エムデン見学交換(2)p.3『左記要領ニ依リ「エムデン」見学ヲ行フ 記 一.見学目的 兵装艤装等ニ関シ主トシテ左ノ諸項ニ関シ大戦ノ経験ヲ加味シタル獨艦ニ就キ参考資料ヲ募集シ以テ造艦上ン参考資料ヲエルニ在リ|(略) (ハ)球磨級練習艦改装ニ関スル資料』
  2. ^ a b c d e f #戦史叢書海軍戦備(2)101-102頁『昭和十八年度 軽巡北上、大井の高速輸送艦への改造計画』
  3. ^ a b #軽巡二十五隻256-257頁
  4. ^ #S1719八艦隊日誌(6)pp.24-25『八十一号「ラエ」作戦々訓ニ鑑ミ左ノ件至急実現ノ要アリト認ム』
  5. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後69頁
  6. ^ #戦史叢書海軍戦備(2)98-99頁
  7. ^ #S1612九戦隊日誌(3)p.48『大発四隻宛搭載ノ為各艦発射機四基(七、八、九、一〇番聯管)及魚雷16本宛ヲ横須賀工廠及横須賀軍需部ニ預入ル。装填演習機内火艇一(北上ノミ)ヲ陸揚ス 陸戦隊員居住ノ為畳七〇枚ヲ借入ル』
  8. ^ #軽巡二十五隻323頁
  9. ^ #軽巡二十五隻324頁

参考文献

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C05021558700『軍務1機密第159号 昭和6.5.23外国軍艦(独逸巡洋艦)「エムデン」見学交換に関する件(2)』。 
    • Ref.C08030023000『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(6)』。 
    • Ref.C08030049400『昭和16年12月1日~昭和18年3月15日 第9戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書88 海軍戦備(2) 開戦以後』朝雲新聞社、1975年10月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年8月。 
  • 森 恒英 『軍艦メカニズム図鑑-日本の巡洋艦』グランプリ出版、1993年 ISBN 4-87687-132-9
  • 『世界の艦船 増刊第32集 日本巡洋艦史』海人社、1991年 
  • 原為一ほか『軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌』潮書房光人社、2014年12月。ISBN 978-4-7698-1580-8 
    • 元「北上」乗組・海軍大尉中垣義幸『体験的"軽巡洋艦乗り気質"告白集 北上に乗り組んでの初陣で敵魚雷の洗礼をうけた水雷屋の実感
    • 当時佐世保工廠造船部・海軍技術大尉吉田兎四郎『軍極秘「臨軍北上」の現場にて』

関連項目