猿猴橋

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猿猴橋
基本情報
所在地 広島県広島市南区
左岸:猿猴橋町 - 右岸:的場町一丁目[1]
交差物件 太田川水系猿猴川
座標 北緯34度23分41.2秒 東経132度28分29.2秒 / 北緯34.394778度 東経132.474778度 / 34.394778; 132.474778
関連項目
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猿猴橋(えんこうばし)は、広島県広島市猿猴川にかかる道路橋。広島市管理の現存する橋梁のなかでは市内最古[2]被爆橋梁の1つである[3]土木学会選奨土木遺産

概要

橋名の由来は「猿猴川に架かる橋」からであり、猿猴とは河童の一種。左岸側の猿猴橋町や広島電鉄猿猴橋町電停の由来はこの橋である。もともと西国街道筋、戦中までは国道筋の橋だった。広島駅開業当初は市内中心部へ向かう唯一の橋でもあった。

最初の架橋は1591年。1926年に鉄筋コンクリート桁橋として永久橋化。1945年原爆被災爆心地より約1.82km)。2014年現在、京橋栄橋比治山橋荒神橋観光橋と共に、現存する被爆橋梁である。

竣工当初は金物の飾りつけが施されていた。橋名を記した四隅の親柱の上に地球儀に乗り羽ばたく大きなの像が、欄干には猿猴二匹が向かい合って1つのを掲げている製の飾りがついていた[2]。これらは戦中、金属類回収令により撤去され、戦後もそのまま供用されていたところ、住民運動により飾りの復活が決定、2016年3月28日に完成した。

諸元

  • 路線名 : 広島市道南1区12号線[4]
  • 橋長 : 62.4m[3]
  • 幅員 : 8.5m[3]
  • 上部工 : 5径間連続鉄筋コンクリート桁橋[3]
  • 下部工 : RC橋台2基、石張RC壁式橋脚4基[3]
  • 基礎工 : 橋台 - 杭基礎、橋脚 - 3連井筒基礎[5]
  • 設計 : 不明
  • 施工 : 妻木組[6]
  • 竣工 : 1926年(大正15年)2月[2]
  • 工事費(当時) : 106,318円74銭[5]
  • 備考 : 欄干は庵治石花崗岩)製[7]。竣工当時は青銅製の照明および飾り付けがなされていたが、1943年から2014年まで飾りなしで供用されていた[2][5][6]

沿革

建設初期

1644年ごろの広島の地図。最も右側の川(猿猴川)唯一の橋が猿猴橋。

中国国分によって山陰道山陽道のそれぞれ西部に広大な領地を有した安土桃山時代の大名毛利輝元は、九州征伐の終わった天正15年(1587年)以降、西国の政治的安定を背景に、本拠地を山間部に立地する安芸国吉田郡山城広島県安芸高田市)より、水上交通に適した太田川水系の河口部に位置する安芸広島(広島県広島市)に遷した[8]。新しい居城となった広島城(広島市中区)は天正19年(1591年)に完成し、輝元は同年1月8日に入城した[9]。いくつか小集落があったもののほとんど何もない海浜だった広島であったが、その際に城下町が整備され[9]、同年、現在地に橋が架橋された[10]

建設当時は「猿郎(えんろう)」[† 1]の古語である「ゑんろう橋」「ヱンロウ橋」と名付けられた[10]

関ヶ原の戦いののち毛利氏の後に広島城主となった福島正則の時代に、猿猴の古語である「ゑんかう」「ヱンカウ」に名を改めている[10]福島氏時代にこの付近も整備され、山沿いを通っていた山陽道(西国街道)を城下に引き込み、この橋は西国街道筋の橋となった[11]。さらに福島氏により猿猴橋町が整備されていった[10]

近世

福島正則の改易によって浅野長晟が広島に入部し、寛永12年(1635年)の武家諸法度によって参勤交代が義務化されると、猿猴橋は京橋(広島市中区・南区)とともに浅野氏広島藩の参勤交代ルートとなった[12]

江戸時代当時は防犯上の理由により橋の架橋は制限されており[13]、この橋は猿猴川に唯一架けられた西国街道筋の橋[† 2]となった。猿猴橋町は東側から広島城下に入る玄関口として宿場町に発展、京橋町付近は魚屋市場が並んだ[10]。また、当時の太田川水系の治水状況から考えると、洪水により数度落橋した可能性が高いが、記録が不足しており、その詳細は不明である。

近代

画像外部リンク
広島県立文書館所有の戦前の絵葉書。木橋時代のものであり、軍用水道の水管橋も見えるため、1897年から1925年の間のもの。
[絵葉書](広島猿猴橋)
[絵葉書](広島猿猴橋)
1930年ごろの広島市の地図。右上猿猴川と京橋川の分岐すぐの最上流の橋が猿猴橋。他の道より太く書かれていることから、当時主要幹線道路であったことがわかる。
1930年ごろの広島市の地図。右上猿猴川と京橋川の分岐すぐの最上流の橋が猿猴橋。他の道より太く書かれていることから、当時主要幹線道路であったことがわかる。

明治時代に入って、國道四號(現在の国道2号)筋の橋[15]となり、戦後まで国道の一部として利用された。木橋として最後の再架橋は1886年(明治19年)[5]、長さは35間(約63.6m)[16]。地元住民により架橋されたものの、往来が激しい橋であったことに加え水害による被害も多発していたため、幾度か修繕しながら使い続けていたことから、木橋から新しい橋への永久橋化が望まれるようになった[5]

1894年(明治27年)、日清戦争勃発、広島城内に広島大本営が設置される。東京から行啓してきた明治天皇は広島駅からこの橋を通り大本営へ入っている[17]

1925年大正14年)6月起工[5]1926年(大正15年)2月、猿猴橋は鉄筋コンクリート桁橋として架け替えられ[2]、同年3月16日に開通式が盛大に行われた[5]。施工業者"妻木組"の妻木伊三郎の私費により金物で飾られた贅を尽くした美しい橋に仕上がり[6]、その様子は広島一と言われ、渡り初めには遠方から大勢の人が来たと伝えられており、当時の絵葉書にもなっている[2][18]

なおこの時期は広島市中心部での国道のアスファルト舗装と永久橋化が進められ[5]、同年に己斐橋、翌年に京橋が架け替えられている。また当時主要国道のわりには幅員が狭かったと指摘されている[2]

金属製の飾りはその後、太平洋戦争中に金属類回収令によって1943年昭和18年)には取り外され、その後は石造りの本体だけとなった[2]

被爆と戦後

画像外部リンク
アメリカ国立公文書記録管理局が所有する米軍撮影写真。
Hiroshima aerial A3391 左端の橋が猿猴橋。

1945年(昭和20年)8月6日広島市への原子爆弾投下により被爆。爆心地より約1.82km[3]に位置した。爆風方向に架かっていたため一部欄干の破損があったものの、落橋にはいたらなかった[19]。そのため、広島市内から当時救護所に指定されていた東練兵場(右地図参照)への避難経路として用いられた[2][18]。その際、橋のたもとには警官が立ち、市中心部への立ち入りを禁じたという[20]

戦後、欄干は一部補修されたが、その際には原爆死没者慰霊碑にも用いられた高級花崗岩庵治石が採用されている[7]

太平洋戦争の終わった1949年(昭和24年)8月8日の夜、下流側の荒神橋をはさむ猿猴川河岸緑地において水上音楽会が開催されている[18]

1956年(昭和31年)駅前大橋の完成にともない主要幹線から外れたため、交通量は減ったが、その後も現在に至るまで地元住民の生活道路・橋梁として使用されている[2]

現在

現在、被爆橋梁という歴史的に意義のある橋ということから、広島市は管理する全2818橋の中でも優先的に維持管理を行っている[21]2011年には土木学会選奨土木遺産に選定された[22]

2000年代に入り、地元住民を中心に親柱・欄干を大正期の架設当時のデザインに復元する運動を起している。2008年6月には親柱上の鷲像の小型模型が発見され[23]、同年11月には広島市立大学の協力を得て復元模型が完成した[24]。さらに2009年3月、正式に「猿猴橋復元の会」が結成され、復元費用の募金活動などがおこなわれてきた[2]。そして2014年、広島市による"被爆70周年記念事業"の一環として復元が正式決定、2015年完成を目指す[6]

周辺

1988年の広島駅南周辺[25]。分岐から上が猿猴川であり、分岐から3つ目の橋が猿猴橋。上流側に水道橋が見える。

左岸側はJR広島駅前にあたり、2014年現在エールエールB館の工事が行われている。かつては愛友市場・猿猴橋市場、被爆建物旧住友銀行東松原支店など古い店舗が存在していた。

上流側に駅前通りの駅前大橋、下流側に広島電鉄本線が通る荒神橋がある。昔は西へ道沿いにまっすぐ進むと京橋にたどりついたが、駅前通り(広島市道駅前吉島線)改良に伴い直進できなくなった。

猿猴橋から平和橋までの猿猴川右岸側は、「猿猴川アートプロムナード」として佐々木葉二のデザインで整備された[26]

いろは松

江戸時代から少なくとも大正時代初期にかけて、猿猴橋東詰の西国街道筋つまり当時の国道2号筋にマツ並木が存在し、当時「いろは松」と呼ばれていた[16]。最初の植樹は慶長年間[16]、つまり猿猴橋架橋後に西国街道として整備されだした時期のことである。江戸時代には広島東照宮への参道の入り口にあたることから、下馬し通行する習わしとなっていた[16]

いろは松は幾度か枯れ明治時代に植え直され大正時代初期には存在していたものの[16]、現在は存在していない。

猿猴橋水道橋

猿猴橋上流側には昔、水道橋が存在し、長い間市内最古の水道橋として使用されてきた。

1897年明治30年)4月5日着工、同年7月29日竣工[27]。市内最古の浄水場である牛田浄水場建設の際に作られた水道橋であり、元々は日清戦争以降に兵站拠点となっていた宇品へ上水を送る「広島軍用水道」の水道管だった。当時のルートは、牛田、大須賀から南下してきた水道管がこの橋を渡り市内方向へ進み、京橋東詰で再び南へと向かい宇品港へと進む[28]。以下、竣工当時の諸元を示す[29]

1945年8月被爆(爆心地から約1.8km)、同年9月の枕崎台風と2度の大きな災害にも落橋を免れた[30]

その後直されて使用されてきたが、2005年平成17年)9月台風14号による洪水で一部橋脚が洗掘により沈下してしまい使用停止。2007年(平成19年)に全撤去された[2]。現在、水道管および橋脚の一部は牛田浄水場内の水道資料館に展示されている[30]

文学

清張の生い立ちから作家デビューまでを記したいわゆる私小説。この中にの行商として被爆後の広島を訪れこの橋の上から川面を眺める描写がある[31]。なお清張はこの近辺、京橋町あるいは蟹屋町生まれという説[32]があり、詳細は松本清張#出生地を参照。

脚注

注釈
  1. ^ 毛利氏旧居城の吉田郡山城そばの可愛川に「河太郎(がたろう)」という妖怪がおり、これと猿猴が合わさって(猿猴+河太郎)、「猿郎」と呼ばれだしたとされている[10]
  2. ^ 当時の城下町の状況は、広島城が所蔵する『広島城下絵屏風』や『芸州広島図』で確認できる[14]
出典
  1. ^ 命の架け橋”. 広島市. 2014年2月7日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 命救った懸け橋”. 読売新聞 (2010年4月10日). 2014年2月7日閲覧。
  3. ^ a b c d e f 被爆橋梁リスト”. 広島市. 2014年2月7日閲覧。
  4. ^ ひろしま地図ナビ
  5. ^ a b c d e f g h 小坂登「新装成れる廣島市東西兩橋」(PDF)『道路の改良』第8巻第5号、土木学会、1926年5月、2014年2月7日閲覧 
  6. ^ a b c d 「華麗な猿猴橋」復元へ 被爆70周年に向け計上 広島”. 産経新聞 (2014年2月7日). 2014年2月7日閲覧。
  7. ^ a b 復興の礎/被爆の街に庵治の技”. 中国新聞 (1999年5月18日). 2014年2月7日閲覧。
  8. ^ 池「天下統一と朝鮮侵略」 (2003) p.76-77
  9. ^ a b 原爆戦災誌、6頁
  10. ^ a b c d e f 美奈美国風土記”. 広島市. 2014年2月7日閲覧。
  11. ^ 商店街PR”. 広島商工会議所. 2014年2月7日閲覧。
  12. ^ 猿猴橋解剖学”. 広島市. 2014年2月7日閲覧。
  13. ^ しろうや!広島城 第20号” (PDF). 広島城公式. 2014年2月7日閲覧。
  14. ^ しろうや! 広島城 第27号” (PDF). 広島城. 2014年2月7日閲覧。
  15. ^ ひろしま通認定試験”. 広島市. 2014年2月7日閲覧。
  16. ^ a b c d e 広島案内記』吉田直次郎、1913年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9478022014年6月20日閲覧 
  17. ^ 志熊直人 著、広島県庁 編『広島臨戦地日誌』1899年、167頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991470/12014年5月13日閲覧 
  18. ^ a b c 名橋の過ぎ去りし時”. 広島市. 2011年7月9日閲覧。[リンク切れ]
  19. ^ 原爆戦災誌、251頁
  20. ^ 原爆戦災誌、1025頁
  21. ^ 広島市橋梁維持管理実施計画” (PDF). 広島市. 2014年2月7日閲覧。
  22. ^ 選奨土木遺産に猿猴橋・京橋”. 中国新聞 (2011年10月15日). 2014年2月7日閲覧。
  23. ^ 猿猴橋親柱復元へ貴重な資料”. 中国新聞 (2008年6月17日). 2014年2月7日閲覧。
  24. ^ 薫る大正 猿猴橋の復元模型”. 中国新聞 (2008年11月22日). 2014年2月7日閲覧。
  25. ^ 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
  26. ^ ひろしま2045:平和と創造のまち 対象事業一覧”. 広島市. 2014年2月7日閲覧。
  27. ^ 陸軍省 1899, p. 44.
  28. ^ 陸軍省 1899, p. 41.
  29. ^ 陸軍省 1899, pp. 43–44.
  30. ^ a b 被爆水管橋一部を展示 軍都の記憶 刻印に残す”. 中国新聞 (2009年4月30日). 2014年2月7日閲覧。
  31. ^ 松本清張文学散歩”. 中央大学文学部文学科国文学専攻. 2014年11月20日閲覧。
  32. ^ 松本清張と広島―その点と線―” (PDF). 広島市郷土資料館. 2014年11月20日閲覧。

参考資料

関連項目

外部リンク