猪熊教利
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 天正11年(1583年)[1] |
死没 | 慶長14年10月17日(1609年11月13日) |
改名 | 範遠→教利 |
官位 | 正五位下左近衛少将 |
主君 | 正親町天皇→後陽成天皇 |
氏族 | 藤原北家閑院流、四辻庶流、猪熊家 |
父母 | 父:四辻公遠 |
兄弟 | 鷲尾隆尚、小倉季藤、季継、教利、藪嗣良、猪熊季光、桂岩院、与津子 |
妻 | 正室:山里(生駒一正の女) |
子 | 生駒正幸 |
猪熊 教利(いのくま のりとし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公家。父は権大納言四辻公遠[1]とも山科教遠(言経の子)[2]とも伝えるが、前者の説が有力である。猪熊事件の首謀者。初名は範遠(のりとお)。
経歴
初め高倉範国の養子となり、中絶していた高倉家の跡を継ぐ。天正13年(1585年)5月に叙爵。同20年(1592年)1月侍従に任じられ、慶長2年(1597年)1月従五位上に叙される[3]。山科言経が勅勘を蒙って摂津に下った後、教利は山科を称していたが、同3年(1598年)徳川家康の取り成しによって言経が朝廷に復帰したため、翌4年(1599年)5月勅命により山科を改めて猪熊を家名とした[4]。家名は平安京の猪熊小路に由来するか。同5年(1600年)1月左近衛少将、2月正五位下に叙任[3]。同6年(1601年)には県召除目で武蔵権介に任じられ[3]、家康から200石を安堵されている[5]。
教利は天皇近臣である内々衆の1人として後陽成天皇に仕えていたが、内侍所御神楽で和琴を奏でたり、天皇主催の和歌会に詠進したりするなど、芸道にも通じていた。勅命で鷲尾隆康の日記『二水記』を書写したほか、政仁親王の石山寺・三井寺参詣に供奉し、新上東門院の使者として伏見城の家康を訪ねたこともある[6]。
一方、教利は在原業平や『源氏物語』の光源氏を想起させる「天下無双」の美男子として著名で、その髪型や帯の結び方が「猪熊様(いのくまよう)」と呼ばれて京都の流行になる程に評判であった[7]。また、かねてから女癖が悪く、「公家衆乱行随一」[8]と称されていたという。慶長12年(1607年)2月突如勅勘を蒙って大坂へ出奔したが、これは女官との密通が発覚したためと風聞された。やがて京都に戻った後も素行は収まらず、多くの公卿を自邸などに誘っては女官と不義密通を重ねた。
慶長14年(1609年)7月、女官5人と烏丸光広ら公家7人との密通が露顕した(猪熊事件)。詮議の過程で教利がこれら乱交の手引きをしていたことが明らかとなり、激昂した天皇は処分を幕府に一任。8月4日幕府は教利逮捕の令を諸国に下し、捕まえ次第京都所司代に引き渡すよう厳命した。所司代の追及を恐れた教利は当時かぶき者として知られた織田頼長の教唆を受けて西国に逃亡。一説には朝鮮への亡命を企てていたともいう[9]。しかし、同月中に潜伏先の日向国で延岡城主高橋元種により捕縛される。9月16日京都に護送後は二条に収監され、10月17日常禅寺で斬刑に処された。享年27。猪熊の家名は途絶えたが、家系は実弟嗣良が再興した。
子孫
子孫は武士となった。外戚の姓である生駒氏を称し高松藩生駒家に迎えられたが、生駒家の改易後は高松藩松平家に仕えた。松平家では生駒矢柄家と呼ばれた。
脚注
参考文献
- 『大日本史料』12編4冊、慶長12年2月12日条
- 『大日本史料』12編6冊、慶長14年8月4日・10月17日条
- 平山敏治郎 『日本中世家族の研究』 法政大学出版局、1980年、NCID BN00481403
- 山口和夫 「猪熊教利」(五味文彦編 『日本史重要人物101』 新書館、1996年、ISBN 9784403250118)
- 木村洋子 「官女流罪事件(猪熊事件)の一側面」(『江戸期おんな考』第10号 桂文庫、1999年、NCID AA11263379)