牛尾治朗

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牛尾 治朗(うしお じろう、1931年昭和6年〉2月12日[1] - )は、日本実業家ウシオ電機株式会社の設立者である[1]。同社代表取締役会長経済同友会特別顧問(終身幹事)[1]、公益財団法人日本生産性本部会長(2003年から2014年)[2]名誉会長(2014年から)[2]、公益財団法人総合研究開発機構(NIRA)会長[3]などを務めた。

平成8年度第22回経済界大賞受賞[1]。平成10年財界大賞受賞[1]

経歴

兵庫県姫路市に牛尾家2代目牛尾健治・美津子の次男として生まれる。

祖父・牛尾梅吉姫路商工会議所の2代目会頭を務め、播磨の振興に尽力した[4]。父・健治は、姫路銀行頭取を務める傍ら中国合同電気→山陽配電(現在は分割されて関西電力中国電力)を中心に電力・電機事業を手がけた。現在のウシオ電機も、前身は中国合同電気の電球製造部門が独立した姫路電球であり、同社から産業用特殊光源の製造部門が独立したのが現在のウシオ電機に至っている。

1953年東京大学法学部政治学科を卒業し東京銀行に入行[1]カリフォルニア大学バークレー校大学院留学後に家業を受け継ぎ、1964年ウシオ電機を設立。28歳で経済同友会に入会し、早くから財界人として意欲的に発言してきた。1969年1月には日本青年会議所会頭に就任し(同年12月まで在任)、「財界の老害」を批判した。「21世紀は市場経済の時代。民間が自立した社会にする必要がある」として規制緩和株主尊重の路線を打ち出した。

1995年4月に経済同友会代表幹事に就任、1999年4月からは特別顧問(終身幹事)に就いている。1996年2月には日本ベンチャーキャピタル株式会社を設立し、取締役会長に就任(2002年6月に名誉会長に退く)。2001年には経済財政諮問会議議員、日本郵政・社外取締役に就任。また、旧・第二電電ケイディディKDD)・日本移動通信(IDO)と合併して出来た旧・ディーディーアイ(現・KDDI)が成立する前後に会長を務めている。

政治

1979年東京都知事選挙で牛尾は新自由クラブから東京都知事候補に推された[5]が出馬しなかった[6]

1975年東京都知事選挙では石原慎太郎の参謀四人衆の一人(他は浅利慶太塩路一郎飯島清)として選挙運動を指揮する[要出典]民間人だが、閣僚人事について安倍晋三の相談を受けるなど、政治への影響力も強い[要出典]

1985年首相中曽根康弘の意向により民間人特別委員10人の1人として政府税制調査会に入った[7][8]

牛尾は安倍晋太郎と親交があり、安倍の後援会のひとつ『総晋会』の会長を務めた[9]

年譜

その他役職

人物

趣味はゴルフ[1]

牛尾家は代々姫路駅近辺の大地主だった[11]。兄にウシオ工業社長の牛尾吉朗がいる[1]。牛尾の長女・幸子と安倍晋太郎の長男・寛信は夫婦である[12]

系譜

                         ┏牛尾志朗
                  ┏牛尾治朗━━┫
      牛尾梅吉━━牛尾健治━━┫      ┗幸子
                  ┗牛尾吉朗    ┃
                           ┃
        ┏岸秀助━━岸信介━━━┳岸信和   ┃
        ┃           ┃      ┃
        ┃           ┗洋子    ┃
    岸要蔵━┫            ┃     ┃
        ┃            ┃  ┏安倍寛信
        ┃            ┃  ┃
        ┗岸信政━━良子     ┃  ┃
                     ┣━━╋安倍晋三
                     ┃  ┃
                     ┃  ┃
                     ┃  ┃
                     ┃  ┗岸信夫
       安倍寛━━━━━━━━━━安倍晋太郎

脚註