炬燵

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炬燵
掘り炬燵

炬燵(火燵、こたつ)は床や畳床等に置いた枠組み(炬燵櫓、炬燵机)の中に熱源を入れ外側を布団等で覆って局所的空間を暖かくする形式の暖房器具[1]。熱源は枠組みと一体になっているものとそうでないものがあり[1]、古くは木炭豆炭練炭を容器に入れて用いていたが[2]、現在その多くは電気装置である。

脚を曲げて腰を掛けることができるよう床を切り下げている掘り炬燵(切り炬燵ともいう)と、床が周囲と同じ高さの平面の置き炬燵とに分けられる(ただし、台を設ける床置きの掘り炬燵もある[1])。布団を広げた炬燵櫓の上にはこたつ板を敷くことが多い。

なお、地方や世代によってはあんかのことを炬燵と呼ぶこともある。

呼称

現在の「こたつ」の漢字表記はもっぱら「炬燵」であるが室町時代には「火闥」、江戸時代には「火燵」と表記された。なお、国字である。また略称として「こた」があるがあまり用いられない。しかし、丁寧語の「お」をつけた「おこた」という言い方は多く女性に用いられている。

炬燵と一体化して生活することを「かたつむり」をもじって俗に「こたつむり」と呼ぶことがある[3]。 他に、炬燵にすっぽりと殆ど頭だけ出して潜り込んでしまった状態を、「亀」と表現する事もある。

イランには同様な暖房器具があり、「コルシ」(Korsi)と呼んでいる。また、スペインアンダルシア地方にはブラセロes:Brasero)というオリーブの実の絞りかすなどを燃料とするあんかを使った、椅子に座って使うこたつが存在する。

歴史

近世以前

江戸後期の炬燵(深川江戸資料館展示)

炬燵は室町時代囲炉裏の上にを組み、蒲団をかけた物に起源を求められる。囲炉裏を床より下げ、床と同じ高さと蒲団を置く上段との二段の櫓を組んだ足を入れられる掘り炬燵となった。更に囲炉裏の周囲まで床より下げ、現在の掘り炬燵の座れる構造の腰掛け炬燵ができた。大炬燵と呼ばれ江戸時代に大勢が入る炬燵に使われた。炬燵は日本では火鉢とともに冬には欠かせない暖房器具として発達した。当時は、熱源として木炭炭団(後に練炭豆炭)などを用いた。熾きた炭として紙や灰で酸素供給を減らし補充間隔を延ばして使っていた。

寺院や武家では火鉢が客向けの暖房器具で炬燵は家庭用であった。そのため「内弁慶」という言葉と同様に、外では意気地がないが家庭中では威張り散らす人を「炬燵弁慶」と言う。

江戸時代中期には置き炬燵が広まった[2]。熱源部分に囲炉裏に替わり火鉢を使いたものである。置き炬燵は掘り炬燵とは異なり移動可能であることを特徴とする[2]

近代以後

炬燵の裏側

1909年(明治42年)東京・上野にイギリス人陶芸家バーナード・リーチ正座が苦手なために自宅に作った掘り炬燵が、住宅向け腰掛け炬燵の最初である。小さな掘り炬燵でも腰掛け炬燵として使えるように、足を下ろす穴よりも囲炉裏になる穴が深く掘られ耐火性能を確保している。炭を床面よりもかなり深くに置く事になり、補充・灰掃除が大変なのと一酸化炭素中毒を起こしやすいのが欠点である。志賀直哉里見弴随筆で誉めた事が宣伝となり、昭和初期に日本全国へと普及した。それにより、熱源部分の分類であった掘り炬燵と言う名称が、腰掛け炬燵の意味となった。

この深い囲炉裏での炭の使用の不便を避け、練炭コンロを入れて使う練炭炬燵も普及する事となる。触媒を上に乗せ一酸化炭素や臭いを削減した掘り炬燵専用練炭コンロもある。また、燃料に豆炭を使う豆炭炬燵1960年代からある。熱源部分に豆炭を入れ、囲炉裏や火鉢の熾きた炭の灰の厚さによる温度調整に替わり、ダンパーで通気量調整ができる(近代は住居の気密性の高さに対応するため一酸化炭素を減らす触媒を付けている場合もある)。触媒部分は消耗品で、中毒死や火災を避けるため毎年の交換が必要である[4]電気炬燵は大正後期に発売されたが家庭にはなかなか普及しなかった[5]

赤外線を熱源とした電気炬燵は、戦後、高度成長時代になって横山良一(当時北陸電力社員、のちに北日本放送社長)の手により1956年に登場し、主流になっている[6]

従来の電気炬燵は熱源が床置き式であったが、ニクロム線熱源を机の裏面相当の場所に設置して足を伸ばせるようにした「電気やぐらこたつ」を東芝が1957年に発売、以後この形が爆発的な人気を得る[5]

過去に販売されていたレモン球式は電熱線自体から可視光線とともに近・遠赤外線を出していた。また、最近の製品でも石英管ヒーターを搭載した安価なモデルは赤い光を出す。これは構造的に裸電球に手をかざすと暖かいのと原理的に似ているが、発熱体のニクロム線が太く赤外線放射に特化しているため電球ほど明るくはない。ヒーター管の形式によっては可視光線を出さないものがある(一部のシーズヒーター管など)。最近の製品は電源を入れても暗いままか、それほど明るくない。

当初発売されていた電気炬燵は熱源部分が白かった。しかし、当時多くの人が「これで本当に温まるのか?」と疑問視してなかなか購入しようとはせず、売り上げが伸びなかった。そこで企業は熱源部分を赤くして温かさがきちんと伝わる様に見せたものを1960年頃に発売したところ売り上げが伸びた。

現在は冬場の暖房器具としてだけではなく、夏期にはこたつ蒲団をはずし卓袱台(ちゃぶだい)ないしは座卓代わりとして通年利用されることが多い。そのため暖房器具ではあるが、通年商品となっている。このように炬燵蒲団をはずした場合座卓に見える炬燵を電化製品業界では家具調炬燵といい、家具業界では暖卓と呼んでいる。家具調炬燵(暖卓)の普及により、形状の主流は正方形から長方形になりつつある。ごく最近に人気の出てきた一人用のミニコタツなどは正方形である。

現在は大手メーカーは電気炬燵を生産しておらず、中小のメーカーが数多く参入している。

こたつ板

こたつ蒲団の上に四角い天板(こたつ板)を置くことが多い。この板は食卓代わりに宿屋等で使われ始め、家庭に広まったとみられる。1959年頃から家庭でも一般化したのではないかとみられる[7]。以前は天板の裏がラシャ張りになっており麻雀卓として利用されたが、麻雀人口と正方形の炬燵がともに減少したため、このような天板は稀になった。

文化

「こたつ」は冬の季語である[8][9]


こたつ開きの日

昔、武家では亥の子の日(亥の月亥の日)に暖房具を出したと言い、町家では第二の亥の日(つまり12日後)から火鉢や炬燵などを使いはじめた。亥の子は、太陽暦では11月半ばから後半である。

亥(猪)は、摩利支天の神使であり、摩利支天は炎の神であるから、 防火の神でもある。また亥は陰陽五行説で火を制する水にあたる。このため、武家は亥の月亥の日に火道具を使い始め、家の防火を祈った。こうした風習は今でも西日本で残っており、11月に入ると茶家では、今でも亥の子に炉開きの行事をするところが多い。

脚注

イランの暖房器具「コルシ
  1. ^ a b c 意匠分類定義カード(D4) 特許庁
  2. ^ a b c こたつ 関ケ原町歴史民俗資料館
  3. ^ 電通による造語である。『imidas』、1989年。長時間入っていると、脚が低温やけどになるおそれがある。漫画家の木村千歌のデビュー作は『こたつむり伝説』である。
  4. ^ 豆炭こたつによる事故の防止に関する注意喚起
  5. ^ a b 「サザエさんを探して」『朝日新聞』2014年11月22日朝刊、b3面。
  6. ^ 赤外線炬燵は電源を入れるとランプ部から赤い光が出るものと出ないものがある。
  7. ^ 東芝の1957年のカタログにはこたつ板は無く、1959年版には6種類の板を掲載している。「サザエさん」でも59年秋ごろからこたつ板を置く描写が出てくる。(「サザエさんを探して」『朝日新聞』2014年11月22日朝刊、b3面)。
  8. ^ 高浜虚子の俳句などに使用例が見られる。
  9. ^ 「炬燵」は三冬(初冬・仲冬・晩冬)・生活に分類される季語である。後述の「炬燵猫」は三冬・動物の季語。- 齋藤慎爾・阿久根末忠編『必携季語秀句用字用例辞典』柏書房、1997年、P.387

関連項目