源朝任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Jygvqxl (会話 | 投稿記録) による 2015年8月24日 (月) 07:52個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (微修正。)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

 
源朝任
時代 平安時代中期
生誕 永祚元年(989年
死没 長元7年9月16日1034年10月30日
別名 二條別當または三條別當(号)
官位 従三位参議
主君 一条天皇三条天皇後一条天皇
氏族 宇多源氏
父母 父:源時中
母:藤原安親の娘
源俊賢の娘、主殿頭貞科の娘、源頼国の娘
師良定長有章朝実定観永尊、女子(藤原資房室)、女子(藤原経任室)
テンプレートを表示

源 朝任(みなもと の あさとう)は平安時代中期の公卿大納言源時中の七男。二條別當を号す。

経歴

長保3年12月(1002年1月)に元服する。加冠春宮大夫藤原道綱で、理髪蔵人藤原朝経が務めた。七、八人の公卿や十余人の殿上人が参会している。

長保5年(1003年従五位下叙爵し、侍従左衛門佐を務める。寛弘3年(1006年)正月従五位上・少納言に叙任される。そして3月9日に少納言として初めて外記政を行った[1]。寛弘7年(1010年一条天皇五位蔵人に補任され、右近衛少将次いで左近衛権中将を務める。また、三条朝においても蔵人を務めた。寛弘8年(1011年正五位下に叙され、美作権介を兼任。長和2年(1013年従四位下に陞叙。

長和3年(1014年)右近衛中将に転じる。長和5年(1016年)従四位上次いで正四位下に進み、備前権守備後権守・左近衛中将を歴任。寛仁3年12月(1020年1月)には蔵人頭に補された。治安3年12月(1024年2月)に参議に任ぜられ公卿に列す。その後、備中権守右兵衛督を歴任。

長元2年(1029年従三位・備前守に叙任される。同年中に藤原経通検非違使別当を辞任したため、朝任が使別当に任ぜられた。

長元7年(1034年)9月16日薨去享年46。歌人大弐三位との交流が知られている。

官歴

※以下、註釈の無いものは『公卿補任』の記載に従う。

  • 長保3年12月19日(1002年1月5日):西対において元服を加ふ[2]
  • 長保5年(1003年)正月7日:従五位下に叙す(前東三條院御給)。正月30日:侍従に任ず。12月:左兵衛佐に任ず。
  • 寛弘3年(1006年)正月7日:従五位上に叙す(佐勞)。正月18日:少納言に任ず。4月8日:服解。9月:復任。
  • 寛弘7年(1010年)正月9日:五位蔵人に補す。2月16日:右近衛少将に任ず。11月25日:左近衛権中将に遷る。
  • 寛弘8年(1011年)10月12日:正五位下に叙す(東宮御給)。
  • 寛弘9年(1012年)正月27日:美作権介を兼ぬ。正月28日:新帝の蔵人に補す。
  • 長和2年(1013年)正月6日:従四位下に叙す(少將勞)。少將如元。還昇。
  • 長和3年(1014年)3月28日:右近衛中将に転ず。
  • 長和5年(1016年
    • 正月6日:従四位上に叙す。中將如元。
    • 6月2日:正四位下に叙す(車駕上東門院より一条院に還御するの次いで此の賞有り。御傍親)。
  • 長和6年(1017年)正月:備前権守を兼ぬ。3月15日:左近衛中将に転ず。
  • 寛仁2年(1018年)正月25日:備後権守を兼ぬ。
  • 寛仁3年12月21日(1020年1月28日):蔵人頭に補す。
  • 治安3年12月25日(1024年2月7日):参議に任ず。
  • 治安4年(1024年)正月26日:備中権守を兼ぬ。
  • 万寿3年(1026年)10月26日:右衛門督を兼ぬ。
  • 長元2年(1029年)正月7日:従三位に叙す(参議勞)。正月29日:備前守を兼ぬ。12月27日(1030年2月2日):検非違使別当と為す。
  • 長元7年(1034年)9月16日:薨去。享年46。

系譜

脚注

  1. ^ 権記寛弘3年3月9日条
  2. ^ 権記長保3年12月19日条
  3. ^ または時中の子。
  4. ^ または有章の子。