源明国
時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 未詳 |
死没 | 未詳 |
改名 | 行光(初名)→明国 |
別名 | 多田明国 |
官位 |
従四位下[1]、蔵人、検非違使、左衛門尉 下野守 |
主君 | 藤原師通、藤原忠実 |
氏族 | 清和源氏頼光流(摂津源氏、多田源氏) |
父母 | 父:源頼綱、母:不詳 |
兄弟 |
明国、仲政、行延、国直、国房 ? [2] 頼子(白河院後宮)、藤原師通側室 源能俊室、藤原行実室、藤原盛実室(盛子) |
妻 | 掃部助高行女 |
子 | 行国、経光、猶子:源有頼、源盛隆 |
源 明国(みなもと の あきくに)は、平安時代後期の武将。初名は行光。三河守源頼綱の長男。「多田」を号したことから多田明国(ただ の あきくに)とも記される。
略歴
累代の本拠地である多田荘を継承し、父祖に続いて摂関家に近侍した。白河院蔵人、堀河天皇の六位蔵人を務めた後、検非違使、左衛門尉を経て永長元年(1096年)11月に従五位下に叙され、翌12月には藤原師通家の侍所別当(職事)に任じられる(『後二条師通記』)。その後、長治2年(1105年)に京中において郎党を殺害したことにより弓庭に拘禁された(『殿暦』)。
天永2年(1111年)正月の除目で下野守に任ぜられ同国に下向した。しかし、同年主君である藤原忠実の命令で美濃国の荘園に赴いた際、道中で無礼者を咎めたことから私闘に発展し、信濃守橘広房、源為義の郎党など3人を殺害するに至った事が原因で佐渡国へ流罪となった(『殿暦』『中右記』)。
佐渡に流された後の明国は武威を振るって国司の任務を妨げ、大治3年(1128年)佐渡守藤原親賢は、明国を他国に移すよう朝廷に請うている。翌大治4年(1129年)に召還されたが、その後の動向は不明。
脚注
参考文献
- 元木泰雄 『源満仲・頼光 殺生放逸 朝家の守護』(2004年、ミネルヴァ書房) ISBN 4623039676