源家長

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源 家長(みなもと の いえなが、嘉応2年(1170年)? - 文暦元年(1234年))は、鎌倉前期の貴族歌人醍醐源氏高明流大膳亮源時長の子。官位従四位上但馬新三十六歌仙の一人。

来歴

はじめ後白河院の第十皇子・承仁法親王のもとへ出仕、建久7年(1196年)からは非蔵人として後鳥羽院に出仕した。その後には、蔵人右馬助兵庫頭といった京官や、武蔵介備前介備後守美作守但馬守など地方官を歴任した。但馬守だったときの承久3年(1221年)に勃発した承久の乱とその後の混乱を契機に一切の官職を辞したが、ようやく世相も落ち着きを取り戻しはじめた嘉禄3年(1227年)になって長年の忠勤を評価され従四位上に昇叙している。

人物

家長は和歌に優れ、建仁元年(1201年)に和歌所開闔となると、『新古今和歌集』の編纂事業では事務方の中心的な役割りを担った。その一方で自らも歌人として活躍、『院後度百首』(正治2年/1200年)、『千五百番歌合』(建仁元年/1201年)、『元久詩歌合』(元久元年/1204年)、『道助法親王五十首』(年代不祥)、『洞院摂政百首』(寛喜2年/1230年 頃)、『日吉社撰歌合』(寛喜4年/1232年)などさまざまな歌合に出詠した。勅撰集へは『新古今集』の3首をはじめ、諸集に都合36首が採録されている[1]

歌人の藤原定家藤原家隆と親交があった。妻としたのは後鳥羽院に仕えた女房の下野(後鳥羽院下野)で、ふたりの間に生まれた藻璧門院但馬とともに、親子3人で勅撰歌人となっている。

日記に『源家長日記』がある。

系譜

出典

  1. ^ 『勅撰作者部類』

参考文献

  • 谷知子「源家長」『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年