源則理

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源 則理(みなもと の のりまさ、生没年不詳)は、平安時代後期の貴族醍醐源氏権大納言源重光の三男。兄弟に四位左少将明理民部大輔方理らがいる。官位正四位下但馬

経歴

姉妹の一人が藤原伊周の室となったことから中関白家側近と見なされ、長徳2年(996年)に発生した長徳の変の後は官途に恵まれなかった。

因幡美作但馬国司を歴任するが、但馬守赴任時、社領から年貢を取り立てるという非法行為を行う。さらに、長元8年(1035年)12月、同国の石清水八幡宮神人と争いそれを射殺した[1]ことにより、長暦元年(1037年)5月土佐国流罪となったが、同年12月には召還されている[2]

系譜

脚注

  1. ^ 日本紀略』長元8年12月25日条
  2. ^ 行親記』『扶桑略記』『百練抄』長暦元年5月20日条、同年12月9日条

参考文献