清河八郎

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清河 八郎
通称 正明
生年 1830年11月24日
生地 出羽国
没年 (1863-05-30) 1863年5月30日(32歳没)
没地 江戸
活動 浪士組
庄内藩
受賞 贈正四位
清河神社
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清河 八郎(きよかわ はちろう、天保元年10月10日1830年11月24日) - 文久3年4月13日1863年5月30日))は、江戸時代末期(幕末)の庄内藩出身の志士田中河内介とともに九州遊説をして尊王攘夷派の志士を京都に呼び寄せ、一方で浪士組を結成し新選組新徴組への流れを作り、虎尾の会を率いて明治維新の火付け役となった。

幼名は元司、は正明、旦起木鶏。本名は齋藤正明で、清川八郎と改名したのち、清河八郎を名乗った。山形県庄内町の清河神社に祭神として祀られている。位階贈正四位

生涯

誕生

出羽国庄内藩領清川村(現・山形県東田川郡庄内町[1]郷士の齋藤豪寿の子。

天保14年(1843年)、清川関所役人の畑田安右衛門に師事し勉学に勤しむ。弘化3年(1846年)には後の天誅組総裁藤本鉄石と会い親交を深めた[2]。弘化4年(1847年)、江戸に出て古学派の東条一堂に師事[3]。才を認められ東条塾塾頭を命ぜられたが、固辞。安積艮斎に転塾。その傍ら、北辰一刀流の開祖千葉周作玄武館で剣を磨き免許皆伝を得、江戸幕府の学問所昌平黌に学んだ。その後、清河塾を開設。当時、江戸市中で学問と剣術を一人で教える塾は清河塾だけであった。

諸国漫遊

安政2年(1855年)3月から9月にかけて、母親を連れて、清川村を出発[4]善光寺名古屋伊勢奈良京都近江大坂宮島岩国天橋立鎌倉、江戸、日光などをめぐる大旅行をする。その記録『西遊草』は、幕末の旅行事情を知るうえでは貴重な資料である。内容は各国の名士との出会いなどを中心に書かれているが、清河の性格からか辛辣で手厳しい批評が多い。

虎尾の会

安政7年{万延元年}(1860年)に起こった桜田門外の変に強い衝撃を受け、倒幕尊王攘夷の思想を強める[1]。この事件を契機に、清河塾に憂国の士が集まりだす。その中には幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟)・笠井伊蔵松岡万薩摩藩伊牟田尚平樋渡八兵衛神田橋直助益満休之助、同門であった安積五郎らがいる。また池田徳太郎中村貞太郎西川練造村上俊五郎石坂宗順などとも交わる[5]

同年、清河を盟主として虎尾の会を結成。発起人は山岡鉄太郎ら15名。横浜外国人居留地を焼き討ちし、尊王攘夷の精神を鼓舞し、倒幕の計画を立てたが、この密計が幕府の知るところとなる。しかも文久元年(1861年)には罵詈雑言を浴びせてきた者を斬り捨てたため、幕府に追われる立場となった[6]。このとき、笠井・中村・西川らは捕縛され、後に獄死している。

急務三策と浪士組結成

清河は京に潜伏したり、諸国を回って倒幕運動を続けた。田中河内介に続いて九州遊説に入った清河は筑後国水田天満宮に蟄居中の真木保臣の下にも滞在し、福岡藩士の平野国臣小郡肥後の尊皇攘夷派とも接触。清河の戦略は薩摩藩の率兵上京に期待を寄せるものであり薩摩は立つと諸国を遊説したが、小松清廉は清河に一切の言質を与えていない。『近世日本国民史』では京都に参集した尊皇攘夷派は清河の空想的政局論により集められた一面があるとしている。

その後、山岡鉄舟らを通して松平春嶽(幕府政事総裁職)に急務三策(1. 攘夷の断行、2. 大赦の発令、3. 天下の英材の教育)を上書する。尊攘志士に手を焼いていた幕府はこれを採用し、松平忠敏のもとに浪士組が結成される(234名)[6]。清河は上手く幕府を出し抜いて今度は佐幕派を京都に集め出した。文久3年(1863年)2月23日、将軍徳川家茂上洛の際、その前衛として清河は盟主として浪士組を率いて京都へ出発。京都に到着した夜、清河は浪士を壬生新徳寺に集め本当の目的は将軍警護でなく尊王攘夷の先鋒にあると述べる。鵜殿鳩翁が浪士組隊士の殿内義雄家里次郎の両名に、京に残留することを希望する者の取りまとめを依頼し、攘夷に反対した根岸友山芹沢鴨近藤勇土方歳三らが残留し清河と袂を分かつたものの[7]、200名の手勢を得た清河は翌日、朝廷建白書の受納を願い出て幸運にも受理された。

このような浪士組の動静に不安を抱いた幕府は浪士組を江戸へ呼び戻す。清河は江戸に戻ったあと浪士組を動かそうとするが、京都で完全に幕府と対立していたため狙われていた。

文久3年(1863年)4月13日、幕府の刺客、佐々木只三郎窪田泉太郎など6名によって麻布一ノ橋(現麻布十番商店街そば)で討たれ首を切られた[8]享年34。『女士道[9]』(山岡英子 1903年)の記述[10][11]によると首は石坂周造が取り戻し、山岡英子(山岡鉄舟の妻)が保管し伝通院に葬ったが後に遺族に渡したという。墓所は東京文京区の伝通院にある。清河の死後、幕府は浪士組を新徴組と改名し、庄内藩預かりとした。没後、正四位を贈位された。

清河八郎記念館

  • 八郎の出身地である山形県東田川郡庄内町清川に、清河八郎の百年記念事業の一つとして建設された。八郎の書簡など遺品を展示している。

著作

  • 『西遊草』 小山松勝一郎校注、岩波文庫 ※若き日の旅日記
  • 『西遊草 清河八郎旅中記』 小山松勝一郎編訳、平凡社東洋文庫 ※抄訳版

関連文献

  • 山路愛山編 『清河八郎遺著』 民友社、1913年
  • 大川周明 『清河八郎』 行地社出版部、1927年

関連作品

小説

  • 司馬遼太郎 「奇妙なり八郎」(『幕末』収録) 文藝春秋、1963年
  • 柴田錬三郎 『清河八郎』 光風社、1963年
  • 海音寺潮五郎 「清河八郎」(『幕末動乱の男たち(上)』収録) 新潮社、1968年
  • 藤沢周平 『回天の門』 文藝春秋、1986年

漫画

映像

映画
テレビドラマ
テレビアニメ

関連項目

脚注

  1. ^ a b 「元気・まちネット」踏査同行記(1)出身地・清川を訪ねて”. 山形新聞 (2009年9月28日). 2011年3月26日閲覧。
  2. ^ 「元気・まちネット」踏査同行記(2)“実像”伝える肖像画”. 山形新聞 (2009年9月29日). 2011年3月26日閲覧。
  3. ^ 「元気・まちネット」踏査同行記・江戸編(上)文武の修業”. 山形新聞 (2010年12月14日). 2011年3月26日閲覧。
  4. ^ 「元気・まちネット」踏査同行記(4)湯田川温泉”. 山形新聞 (2009年10月1日). 2011年3月26日閲覧。
  5. ^ 「元気・まちネット」踏査同行記・江戸編(中)江戸で三度開塾”. 山形新聞 (2010年12月15日). 2011年3月26日閲覧。
  6. ^ a b 「元気・まちネット」踏査同行記・江戸編(下)逃亡から浪士組結成へ”. 山形新聞 (2010年12月16日). 2011年3月26日閲覧。
  7. ^ 彼らは壬生浪士(壬生浪)となり、後に新選組へと発展してゆく。
  8. ^ 「元気・まちネット」踏査後半同行記(5) 上山”. 山形新聞 (2010年6月27日). 2011年3月26日閲覧。
  9. ^ 女士道』 - 国立国会図書館
  10. ^ 『女士道』第1回(11)清河八郎の首級を處分したる模様 20-21ページ 
  11. ^ 女士道 冒頭

外部リンク