海陵王
海陵王 完顔迪古乃 | |
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金 | |
第4代皇帝 | |
金海陵王像(ハルビン金上京歴史博物館) | |
王朝 | 金 |
在位期間 | 1150年1月9日 - 1161年12月15日 |
姓・諱 |
完顔迪古乃 亮(漢名) |
諡号 | 煬 |
生年 |
天輔6年1月16日 (1122年3月3日)[1] |
没年 |
正隆6年11月27日 (1161年12月22日) |
父 | 完顔斡本 |
母 | 大氏 |
后妃 | 徒単皇后 |
陵墓 | 海陵王陵 |
年号 |
天徳 : 1149年 - 1153年 貞元 : 1153年 - 1156年 正隆 : 1156年 - 1161年 |
海陵王(かいりょうおう)は、金の第4代皇帝。女真名は迪古乃(テクナイ/ディグナ)、漢名は亮。金の太祖阿骨打の庶長子である遼王・斡本(宗幹)の次男。殺害の後に廃位され、海陵郡王に落とされたことから海陵王と史称される。生母は斡本の側室で渤海王家末裔の大氏、正妻は女真貴族の徒単斜也の娘(徒単皇后)。
生涯
宗室の子である故をもって天眷3年(1140年)には奉国上将軍となり、最前線で南宋と当たっている叔父の梁王・斡啜(宗弼)の軍に派遣されて軍職を務めた。皇統4年(1144年)には中京留守となって前線を離れ、その後尚書左丞、平章政事、右丞相など宰相格の重職を歴任した。堂々たる容貌であり、文官としても武将としても優れた才能を発揮し、一方で大いなる野心を抱いた。
皇統9年(1149年)、皇帝であった熙宗が奢侈や粛清などの暴政を繰り返して人望を失っているのを見て、自派の重臣ら[2]と謀って熙宗を殺害し、自ら皇帝に即位した。即位後、腹心に「金の君主となる」「宋を討ってその皇帝を自分の膝下にひざまずかせる」「天下一の美女を娶る」という3つの夢を打ち明けている。
金の建国後に生まれた海陵王は、若い頃から漢文化に親しんで優れた教養を持ち、即位後は漢文化の奨励を行った。その一方で、猜疑心が強く残忍な性格で、天徳4年(1152年)には皇帝の独裁権を強化するために、左丞相兼中書令の阿魯(宗本)と烏帯(宗言)ら大叔父・太宗の子孫70余人と、族父(父の従兄)の秦王・粘没喝(宗翰)の子孫(乙卒ら)50余人など金の宗室系の諸王ら一族の実力者と、目障りな元勲の子孫たちを次々とまとめて粛清した。さらに、彼らの妻妾を奪取して後宮に入れた。
また、中書省と門下省を廃し、尚書省のみを皇帝に直属させ、国都を会寧(現在の黒龍江省ハルビン市阿城区付近)から燕京(現在の北京)に遷した。その上に奢侈に走って国民に重税を強いるなど暴政の度合いを深め、多くの者が海陵王を憎悪し始めた。
正隆6年(1161年)5月、海陵王は将来の禍を避けるため、遼の天祚帝(紹宗)の末裔の耶律氏と、金の故地(中国東北部)の五国城で逝去した北宋の欽宗の末裔の趙氏ら130余人の若者たちを殺害し、耶律氏と趙氏の若い女性を後宮に入れた。8月、海陵王はより豊かな文化と物資を手に入れるために南宋討伐を企て、「天の使いが夢枕に立ち、宋を征討する命を下した」と宣伝して、開封を修復した。そして、船に不慣れな北方民族としては前代未聞の企てとして、海から南宋を攻撃するために軍船の建造を行い、猛安と謀克に属する20歳から50歳までの男子に動員令を出す等の準備を行った。この行為を聞いた嫡母の皇太后徒単氏は、海陵王に諫言したが、海陵王は皇太后が南宋討伐に乗じて自身の廃立を企んでいると疑い、年老いた嫡母を焼き殺した挙句、その遺灰を近くの河に投げ捨てた。さらに、徒単太后の甥である徒単檀奴、徒単阿里白までも誅殺している。
そして9月、海陵王は周囲の反対を押し切り、60万と号する大軍を自ら率いて南宋に遠征した[3]。これに対し南宋は、四川の呉璘、揚州の劉錡らを中心に迎撃態勢を整えていた。国境の各地を越えた金軍は10月に楊州を陥落させるが、西隣にある和州の采石磯で南宋の名将虞允文の頑強な抵抗に遭い(采石磯の戦い)、長江を渡れずに苦戦した。また、金軍の大半が契丹人で編成されていたために軍の統率がうまくいかなかった上、留守中の本国においては海陵王の反対派が従弟に当たる葛王烏禄(世宗)を擁立したため[4]、海陵王は進退窮まることとなり、南征中の陣中である揚州の亀山寺において、部下で遼の宗族系の契丹貴族である浙西道兵馬都統制・完顔元宜(耶律阿列、または移刺特輦。耶律慎思の子)の軍隊によって殺害された。享年40。
死後、皇帝の資格なしとして世宗により海陵郡王に落とされ、さらには王の資格もないということになり、王族の籍を外されて庶人に落とされた。廃帝海陵庶人と『金史』には記されている。
海陵王の後宮
海陵王は「天下一の美女を娶る」と豪語したとおり、数多くの女性を後宮に集めた。『金史』巻63 列伝第1「后妃上」によれば、皇帝に即位する前は3人程度だった妻妾が、後年には数えきれないほどの数に登った。また、海陵王はしばしば臣下の妻を奪い、近親相姦をおそれず、幼女を強姦した。姉妹や母娘を揃って後宮に入れることもあり、己の意に従わない女性は殺すことをためらわなかった。宮中の床に布をしきつめて、あらゆるところで宮女と乱交した。
臣下や宗族の妻であって海陵王の後宮に入れられたのは、名前が記載されている者のみでも、貴妃唐括定哥、麗妃唐括石哥、昭妃蒲察氏、昭妃阿懶、昭媛耶律氏、耶律択特懶、密国夫人完顔氏、昭媛耶律察八、寿寧県主完顔什古、静楽県主蒲刺及習撚、完顔師姑児、混同郡君完顔莎裏古真、完顔余都、大奈刺忽、耶律蒲魯胡只、奈刺忽、唐括蒲魯胡只、と十数名もいる。宮女のうちで外に夫がある者は別れさせようとした。また、皇族の完顔烏禄(後の世宗)の妻であった烏林荅氏を奪おうとして、彼女を自殺に追いやっている。
またしばしば処女を犯し、元妃大氏に手助けをさせた。『金史』巻5 本紀第5「海陵」によれば、姪である幼い蒲察義察が宮中で鞠に興じているのを見て、これに欲情し強姦した。ついで彼女を後宮に入れようとしたが、皇太后に反対されたため義察を殺害している。同じく姪である蒲察叉察の嫁ぎ先に出かけて関係を強要し、ついにこれを後宮にいれた。また、継女の完顔重節(蓬莱県主)が美女であったので、彼女をも自らの側室とした。
姉妹を2人とも犯すことはしばしばあった。唐括定哥と唐括石哥、耶律択特懶と柔妃耶律彌勒、元妃大氏と大浦速碗、完顔莎裏古真と完顔余都などである。すでに嫁していた大浦速碗は、姉に会うため宮中を訪れた際に海陵王に襲われており、彼女は二度と姉に会おうとしなかった。柔妃耶律彌勒は、海陵王に命じられて姉である耶律択特懶を欺いて呼び出した。蕭拱の妻であった耶律択特懶は海陵王に強姦された。一方、蕭拱も処女であった耶律彌勒が里帰りした際に彼女と関係を持ったことがあり、のちに耶律彌勒が非処女となったことを知った海陵王は蕭拱を殺害した。耶律彌勒の母張氏も翠国夫人、伯母の蕭氏も蘭陵郡君として海陵王の後宮に入れられている。完顔莎裏古真は夫のもとからさらわれて、海陵王から深く寵愛されていたが、海陵王は莎裏古真の妹である完顔余都も犯した。余都もすでに夫のある身であり、莎裏古真は「どうして私だけでなく妹まで手にかけるのですか!」と海陵王を責めた。海陵王は「余都は容姿はそなたに及ばないが、肌の色がとても白かったので可愛がってやったのだ」と答えた。
昭妃蒲察氏と蓬莱県主完顔重節は母娘であり、完顔重節が海陵王の側室とされると2人の関係は悪化した。また、修儀高氏は糺裏(完顔秉徳の弟)の妻だったが、母である完顔氏とともに海陵王の後宮に入れられた。高氏の家のすべての女性が海陵王に奉仕する有様だったという。
宮女とされた辟懶は外に夫があったが、海陵は県君に封じてこれを犯そうとした。だが、辟懶がすでに妊娠していたのを厭い、麝香水を飲ませ、自ら腹を揉むことで流産させようとした。辟懶は胎児の命を守ろうとし、「乳房はもちろんのこと身体中すべてを使ってご奉仕しますから、だから許してください!」と哀願したが、海陵王は聞き入れず、ついに彼女を流産させて事に及んだ。
以上、『金史』の上述の巻によるが、海陵王が帝位を廃されたため、悪行が誇張して書かれている可能性には留意しなければならない。こうした海陵王のすさんだ後宮生活は後世の文学の題材となり、明末の口語小説集『醒世恒言』の一編に取り上げられている。
宗室
妻妾
- 皇后徒単氏
- 元妃大氏、宸妃蕭氏、麗妃耶律氏[5]
- 貴妃唐括定哥、麗妃唐括石哥(唐括定哥の妹)、昭妃蒲察氏
- 昭妃阿懶、柔妃耶律氏、昭媛耶律氏、修儀高氏、修容安氏、才人南氏
- 妃花不如[6]
- 寿陽県主 完顔莎里古真、蓬莱県主 完顔重節(昭妃蒲察氏の娘)、蒲魯胡只(唐括姉妹の従妹)、蒲察叉察(海陵王の姪)
子女
海陵王を主題にした作品
- 「私本・荒淫王伝」駒田信二著
- 「金虜海陵王荒淫」(作者不明)
脚注
- ^ 『金史』
- ^ のちに海陵王と合せて「十大悪人」とされた、蕭裕、完顔秉徳、唐括弁、烏帯、大興国、李老僧、徒単阿里出虎、僕散思恭、徒単貞。
- ^ この遠征に対する海陵王の自信を示すものとして、宋の使者に徽宗の玉帯を渡し、側近に「それは貴重なものだから」と押しとどめられると、「いずれ取り戻されるものだ」と嘯いた、という話が伝わっている。
- ^ この時、世宗烏禄の立てた大定という年号を聞いて、「宋を滅した後、自分が大定と改元しようと考えていたのに、これが天命というものか」と慨嘆したと伝えられている。
- ^ この3人は、親王時代からの側室。
- ^ 花不如(? - 1161年12月22日)は、長安の人。美しかったため寵愛された。南征中に海陵王の寝所にはべり、4人の用人と一緒に殺された。
典拠史料
- 『金史』巻63 列伝第1 「后妃上」
- 『金史』巻5 本紀第5 「海陵」
参考・引用文献
- 梅原郁他『世界歴史大系 中国史3 五代〜元』(山川出版社 1997年 ISBN 4634461706)