海原お浜・小浜

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海原お浜・小浜
メンバー 海原お浜
海原小浜
別名 ハッピー姉妹
愛国お浜・小浜
さざ波お浜・小浜
結成年 1933年
解散年 1994年(お浜の逝去に伴う)
事務所 松竹芸能
芸種 漫才
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海原お浜・小浜(うなばらおはま・こはま)は、上方の女流漫才師である。戦後は角座などの松竹系の劇場やトップホットシアター等に出演。

メンバー

オク目で長身。
肌が白く小太り。幼少から芸人であったために踊りや三味線が堪能だった。ほとんど漫才中に披露する事はなかった。実の孫に漫才師海原やすよ・ともこ(姉妹)がいる。

来歴

小浜の両親が芸人関係だったために月の家桃子として4歳でデビューし舞台などで活躍していたが早くに母が死去し義理の父に育てられる。そののちに父も死去しすでに一座の子供座長だった小浜が、当時17歳の叔母のお浜を呼び寄せ1933年コンビ「ハッピー姉妹」結成。奈良県大和高田市高田劇場でデビュー。戦前・戦時中の敵性語忌避の風潮により、「愛国お浜・小浜」と改称。後「さざ波お浜・小浜」から「海原お浜・小浜」となった。戦中、戦後は冷遇を受け、小浜を座長、お浜がマネージャーに一座を組み地方をドサ回りをする。この頃はかなりの冷遇され営業先の宿泊先が藁が敷いてあるだけの牛小屋だったり、ギャラも交通費と食事代だけだった時もあった。 その後、大阪・西成区の「てんのじ村」を拠点とし宝塚新藝座で細々と舞台に出る、後に上方演芸会の出演の折に番組のスタッフでもあった漫才作家秋田實に見出され、秋田によって書き下ろしたロマンスシリーズなどで人気を博す。1967年上方漫才大賞の大賞を受賞、1975年には上方お笑い大賞の大賞を受賞。この頃前後してお浜の目に違和感を感じるようになり上方お笑い大賞をきっかけに引退を示唆する発言をするも周囲の説得で慰留する。

1976年、お浜の白内障による引退を正式に決意しコンビ解消(その後、お浜は1994年に死去)。1978年5月17日サンケイホール(現在のサンケイホールブリーゼ)にてサヨナラ公演を行った(司会は上岡龍太郎、そのほかにも関西芸人が多数駆け付けた)、リサイタルはのちにテレビで中継された。小浜はその後司会者・タレントとして活躍していたが、晩年には芸能界での活動は控えていた。所属事務所は長らくケーエープロダクションであったが2010年4月現在公式HPのタレント一覧には掲載されなくなっていた。お浜は経営していた家具店(後述)を切り盛りして生計を立てた。

2006年3月上方演芸の殿堂入りを果たした。その際に小浜は「最近の若手は勉強が足りん」と辛口なコメントを残した。

家庭ではお浜は家具職人と結婚、のちに住所地である守口市で『お浜・小浜の海原家具』を長年経営していた(閉店)。

小浜は浪曲師の石川玉若と結婚し一男一女を授かる。長男は海原かけるめぐるのかける(めぐるの名は二代有り、初代が後の玄ゴローで二代が後の池乃めだか)。

小浜は2015年12月24日に死去、葬儀・告別式は近親者により行われたことが12月28日明らかになった[1]

テレビ・ラジオ・ドラマ

他多数

関連人物・海原一門

  • バラク・オバマ - 大統領当選直後名前が似ていたため一時話題に挙がった。清水圭は「海原 お浜・オバマ・小浜」というTシャツまで製作した。

脚注

  1. ^ 海原小浜さん死去 叔母お浜さんとの漫才コンビで人気博す(2015年12月28日付スポニチアネックス)
  2. ^ 小浜が演じた主婦役は後のシリーズで末成由美浅香あき恵(『ちちんぷいぷい』金曜事件簿(2013年))が演じている。

外部リンク