浜松まつり

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浜松まつりで引き回される御殿屋台

浜松まつり(はままつまつり)は、浜松市で毎年ゴールデンウィーク期間中の5月3日5日にかけて開催される年中行事である。通称は[1]また、凧祭り(たこまつり)とも呼ばれる。[2]

概要

毎年、現在は5月3日・4日・5日の3日間で行われる。端午の節句にちなみ、長男初子)の誕生を祝う。近年では次男以降や女児の誕生に対しても行われることが多い。この誕生祝いのことを初祝いと言い、「初」と略される。昼には凧合戦、夜には御殿屋台の引き回しと練りが行われる。「まつり」と名が付いているものの、公式には特定の神社仏閣祭礼ではなく都市まつりとしている。但し、地元の神社での安全祈願の為の参拝や、組長の持つ提灯と御殿屋台に御幣を飾る等の神事は行われる。近年、期間中の人出は年次によって100~150万人程度で推移している。

起源・歴史

これまでその起源は、室町時代永禄年間(1555年 - 1569年)に、引間城(現在の浜松城)の城主であった、飯尾豊前守(飯尾連竜)の長男・義広の誕生を祝って、入野村の住人であった佐橋甚五郎が義広の名前を記した大凧を揚げた、という史書『浜松城記』の記述を定説としていたが、近年になってこの縁起そのものが大正時代の創作であるとする研究が進んでいる。

現浜松市の市域において、端午の節句に凧を揚げることに関する最古の資料は、有玉下村(現:浜松市東区有玉台)在住の国学者高林方朗(みちあきら)の日記で、寛政元年(1789年)4月に初凧を購入したという記述が確認されている。

江戸時代の中期には、端午の節句に祝凧を贈って揚げるという風習は浜松だけでなく日本全国で行われており、嫁の里から凧が贈られ、贈られた家では、糸や用具を整え、それを近所の若者が揚げた[3]

明治に入り庶民の娯楽が多様化すると初凧の習俗は「時代遅れなもの」として次第に行なわれなくなってしまうが、明治7年頃に浜松の職人町に消防組が組織されると各町の若者同士の対抗意識が高まって町同士による凧合戦が行われるようになった。消防組単位で凧合戦に参加していたことを直接確かめる資料は見つかっていないが、消防組の影響は参加各町をで表すことや、古くから参加している町の凧印にはを図案化したものがあることからも伺える。

1884年(明治16年)

「浜松駅紙鳶あげの馬鹿騒ぎは毎度記るせしが昨今は実に甚だしく去る廿四五日の頃よりは各町毎に隊伍を組み夫々の屯所には消防に用いる旗を立てて(中略)合図は太鼓喇叭で進退し田面麦畑のきらいなく奔走し、又各町人の見易き為会印に換る手拭を以ってし肴町は晒し、連尺は豆絞り、伝馬連は芥子玉と思ひ思ひに色分けし寺島、稲葉のごときさしもに広き畑中も狭しとする程群集し、恰も戦争に異ならず」--函右日報 明治16年4月28日の記事より

とあり、この記事からも消防組と凧合戦の関係がわかる。また、この記事には「太鼓喇叭で進退し」とあり、既にこの頃からラッパが凧合戦合図の為に使われていたことがわかる。現在でもこのラッパの始まりを、大正初期に和地山練兵場で開催された際に見物していた兵士によって吹かれたことから、と紹介されることがあるが誤りである。

この頃数組以上が集まって凧合戦が行われていた場所として田町の大安寺・法雲寺、北寺島町の機関庫建設予定地、新川端から馬込川端、伊場の鉄道工場建設予定地(現在のJR東海浜松工場)などがあったが大正7年からは和地山の練兵場(現在の和地山公園)に一本化されて行われた。第二次世界大戦による一時中断の後、昭和23年には会場を一時的に中田島に移し、浜松市連合凧揚会主催で第1回の凧揚げ合戦が、50か町余の参加を得て開催された。昭和25年、東海道本線沼津駅浜松駅間の電化を記念して正式名称が「浜松まつり」と定められた[4]

戦後の再開頃から行政が主導するようになると、浜松市の観光イベントとして急激に拡大路線へ転換した。和地山の旧練兵場がスポーツ公園として整備されることとなった昭和41年より凧揚げ合戦は中田島での開催が固定され、昭和45年に自主的な管理組織であった連合青年団統監部が解散させられると、浜松市・観光協会・商工会議所・自治会連合会からなる浜松まつり本部が新たに組織され、観光路線に拍車がかかることになった。長い間、市内中心部(旧市内)の50町余のみによって行われていたまつりだったが、昭和50年に行政の後押しにより卸本町が途中参加すると、以降毎年のように参加町が増え、わずか30年の間に112町も参加町が増加した。これにより参加者が激増し全国でも屈指の人出数を誇る行事となったが、急激な肥大化により参加町の3分の2以上が途中参加という現状は、浜松の凧そのもののありようを大きく変化させるに至っている。

1970年代の浜松まつり本部結成頃までは5月1日~5日の5日間で、市中練り・市中御殿屋台引き回しは3日~5日の3日間のみ行われていた。また、最初の2日間は町内のみで、当時は殆どの組が3日間とも市中に出ていた。

内容

練りや凧揚げ、糸切り合戦をする際に、掛け声は様々なバリエーションがあるが、主に「オイショ」「ヤイショ」などといったが掛かる。練りではラッパのリズムに合わせられる。

なお、これら行事のための準備作業は4月頭ごろから大々的に行われ、各組の拠点である会所を開く「会所開き」もそれぞれ行われる。これ以外の事務作業や打ち合わせなどは春先の期間に限定されたものではなく、ほぼ通年で行われている。

凧揚げ合戦

凧合戦の初日冒頭にて行われる開会式

凧揚げ合戦は、町(自治会)ごとが「組」や「連」というかたちで参加し、それぞれ固有の町紋(凧印)が描かれた大凧を揚げ、組同士で凧糸を切り合って競うものである。凧揚げ合戦は中田島砂丘にある遠州灘海浜公園で行われ、会場は「凧場」と呼ばれている後述。 凧印は各町によって異なり、町名の頭文字や町内の伝説に由来する絵柄などがある。

大凧は、主に初節句を迎えた家庭から一面ずつ提供される。この凧には初節供の祝いを迎えた子供の名前と家紋が隅に描かれ、「初凧」(はつだこ)と呼ばれる。近年では少子高齢化をはじめとする時代の変化から長男生誕祝い以外の凧が提供されることもある。これらとは別に、町ごとに各自で凧を持っており[5]、それらは合戦に特化して使用される[6]

浜松まつりで使用する凧の大きさは、2帖から10帖まである。 1帖とは美濃判(9寸×1尺3寸=273mm×393mm)12枚で1.28m2の大きさ。4帖は48枚で2.4m四方、6帖では72枚で2.9m四方。8帖になると96枚貼りでおよそ3.25メートル四方となる。このうち4帖から6帖のものが、最も凧揚げ合戦に適しているといわれている。形は正方形で、骨組みは細かく丈夫に作られ、中心から大きく尾骨が突き出ており、他地方の凧と比べると頑丈で重い。これらの特徴は、凧を揚げることよりも揚がった後の糸切り合戦に重きを置いていることによる。最近では、揚げることのみを目的として軽量化した凧を揚げる組もある。

凧糸は糸切り合戦の際のハンデを無くすため、現在では統一生産となっており浜松まつり会館で購入したもの以外を使用することは出来ない。また凧合戦を有利にするためにガラスを凧糸に吹き付けるなどといった行為も現在では禁止されている。

また、凧場では1つの組が同時に二枚以上の凧を揚げたり、届け出た凧印以外の凧を揚げたりすることは禁じられている。

開催時間は年々徐々に早くなっており、現在は10時 - 15時であるが平成22年までは11時 - 15時だった他、平成7年時点では12時 - 16時であった。[7]また、練兵場にて5日間開催だったころには12時 - 18時など、更に遅い時間で開催されていた。

練り

夜になると、各組単位で初凧を提供した家から凧揚げの労をねぎらって、町の若衆に振る舞い酒が出される。この時、規則正しく整列をして掛け声に合わせて摺り足で練り歩き、また、施主や初子のまわりでもみくちゃになるように荒々しく練りを潰していく。また商店や会社、祭りの役員宅などで練ることもある。 なお、行事名としての練りは上記まつり当日夜間の練りを指すが、凧場などまつり当日夜間以外にも練ることがあり、こちらも練りと呼ばれる。

凧揚げ合戦同様、時代とともに時間が早くなっており、かつては深夜まで行われていたが現在では規約ならびに道路使用許可においては午後10時までと定められている。

「激練り」[8]とは近年になってメディアを中心に広まった言葉[9]で、古くから参加する組ではあまり使われない。同様に、近年に広まった言葉として「初家」[10]があり、どちらも昭和期以前に発行された書籍や公式パンフレット、新聞記事等では記載が見られない。 似たような事例として、上述した行事名としての練りを行為としての練りと区別するためか中日新聞では平成26年には新たに「夜練り」という言葉が用いられるようになった。[11]

御殿屋台

御殿屋台引き回し

御殿屋台(ごてんやたい)とは、祭車である屋台[12][13]の一種で、豪華な彫刻や幕などで装飾されている。通常、御殿屋台または単に屋台と呼ぶ[14]。遠州の御殿屋台には太鼓屋台をはじめ様々な種類があるが、浜松まつりの御殿屋台は掛塚式屋台である。[15]

その昔、凧揚げから帰る若衆を迎えるために、伝馬町や千歳町の芸者衆が底抜け屋台を造って練り歩いたのが始まりとも言われている。それぞれに趣向をこらした見事な彫刻や提灯の飾りつけが施され、内では女の子達を中心に三味線を用いたお囃子(おはやし)が奏でられる。浜松まつりの屋台で奏でられる囃子は「小鍛冶」「鞍馬」などの黒御簾や「梅は咲いたか」などの小唄が多いが、一般的な山車と異なって、浜松の屋台が芸者の乗る「花屋台」として発展してきたためで、現在でも三味線や篠笛は芸者や稽古場の師匠などの音曲の専門家に任せる組が多い。

なお、御殿屋台を所有していない組や、所有していてももっぱら町内でしか引き回さない組も存在する。

特徴

ラッパ

ラッパは幼稚園児や小学生を中心とした子供から大人までの参加者により吹奏される。

当祭典では凧場・練りともに本来は軍隊で信号伝達の手段として使用される信号ラッパ(ビューグル)[16]を用いて、凧合戦を鼓舞したり練りを指揮したりする[17]。これは、日本で近代的軍隊が整備され始めた幕末から明治・大正時代にかけて、祭りの運営が消防団や青年団を主体に行われていたことや会場として練兵場などが使用されたことに由来すると言われている。もともとは各町でごく一部しか吹ける人がいなかったが、昭和後期以降には、参加町数の増加や、参加者の変化(女性・子供の増加)があり、ラッパ吹奏者が増加した。

曲目は、大日本帝国陸軍の行進曲「駆足」や「速足」を独自の曲調にアレンジし編曲したものが最も多く演奏され、主に強強弱弱4拍子のリズムがひたすら繰り返される。このほか、万歳三唱に合わせてラッパを吹聴するほか、一部の組では三三四拍子に合わせたり独自のファンファーレを持っていたりする。

近年、ラッパの吹奏は「ラッパ隊」、とりわけ未就学児から小中学生らを対象とした「子供ラッパ隊」として、子ども会を中心に組織されていることが多い。こうしたことに起因してか信号ラッパは浜松市民にとってはとても馴染み深く、練りとともに浜松市のみならず遠州地域では広域的に一種の文化となっている。詳細は#他地域への波及ビューグルも参照。

信号ラッパが楽器として使用される祭典文化は遠州地域以外にも一部地域で点在するが、そちらについて、ならびに浜松まつりに由来する浜松市および遠州地域各所のラッパ文化そのものについてはビューグル#楽器としての信号ラッパを参照のこと。

問題点

肥大化の弊害

かつて「日本一の凧合戦」と謳われた浜松の凧であるが、今日では伝統的な凧糸の切り合いの技が見られなくなっている。今でも公式サイトやパンフレットには「チョン掛け」「釣り上げ」といった技の解説が掲載されているが、今日においてそれらの技を見ることはない[要出典]。これは祭りの参加町数が過去30年の間に3倍近くまで膨張し、技術そのものを持っていない組が増えたことに加え、会場である遠州灘海浜公園白羽地区(通称「凧場(たこば)」)が手狭になってきていることなどによる。なお、糸切り合戦に消極的な一部の組は、凧を揚げることに特化して骨組みを少なくした軽量凧を使用している。

肥大化による弊害は夜の屋台引き回しや練りでも顕著で、遠方から夜間輸送をしてまで市中心部に屋台を持ってきたり、浜松まつりの屋台ではない秋季に市内各地で行われる収穫祭の太鼓屋台を引き回したりする組が出ており会場は飽和状態にある。かつては、大通りに四方の道路から屋台や練り隊が進入し迫力ある大きな渦も見られたが、現在大通りにおける屋台・練り隊の進行方向は一方(反時計回り)、追い越し禁止、町または連合・ブロック毎に縦列に並び進行、大通り沿いで練りを潰すことができる場所はみずほ銀行浜松支店前の交差点一箇所のみと規制されている。

国内有数の規模に発展した反面で、凧合戦や練りは本来の荒々しさを失い、伝統の継承が危ぶまれる現在にあって、古い時代を知る人々からは浜松まつりの変容を危惧する声があがっている。

また、これに起因して一部では旧町と新参加町の間に軋轢が生じている。例えば「収穫祭の屋台を引き回す新参町は(浜松まつり型屋台ではない為)出るべきではない」などという意見もあり、議論の余地を残したまま(まつり本部の方針により)参加町は増加する一方である。 一方で、新参加町の中には「本命は収穫祭、浜松まつりは子供会の行事」といった位置付けの町もあり、これもまた軋轢の一因となっている。

まつりの変容

元来、凧合戦と屋台と練りが浜松まつりの根本であったにもかかわらず、それらの祭の趣旨から外れたイベントが増え、祭り本来の姿が崩れ始めている。合同練り(揶揄して百姓行列とも呼ばれる)や、ミスコンテストサンバパレードが執り行われるなど、まつりの本筋とは関係のない行事が付け加えられている。

その上「合同練り」のような新しいイベントが次々と始まったことで、古くから参加している市中心部の町が場所・時間の制約を受け、本来有るべき姿の屋台引き回しが出来ない状況にあり、さらに後の初練りの運行にも支障を来たしている。市中心部の交通規制解除は午後9時であるが、現在午後9時前に屋台の引き回しを終了するのは不可能で、交通量の多い繁華街の道路で子供達の引く屋台のすぐ脇を車が通り抜けることとなり、総会で危険を訴えた町もある。また規約で定められた行事全体の終了時間は午後10時であるにもかかわらず、前述のように屋台の引き回しが終了するのは午後9時を過ぎるため、ここから初練りを始めると終了は規約の定める時間を大幅に超える。これは参加していない市民などからの苦情要因にもなっているが、一方で参加者を中心として(規約上の)終了時刻を延長すべきという意見も多く、平成26年には終了時刻を午後11時に延長することがまつり本部より提案された。[18]

非正規参加者の増加

浜松まつり参加規約によれば、組毎に定められた法被を着用し、その法被には毎年購入するワッペンが貼り付けられている必要があるが、非正規の服装[19]で参加する者も居る。なお、私服で凧合戦や練りに参加すること、法被を脱いで腹掛け姿で居ることは禁止されている。

また、初練りは本来凧合戦の疲れを労って振舞われるものであるが、凧に参加せずに練りだけに参加したり、或いは初祝いには何の関心も示さない、言わばタダ酒目的の参加者が増えている。

他地域への波及

元来ラッパや練りと無縁な、浜松市内各区の神社の秋祭り西区雄踏町火祭り浜北区の祭礼などに近年、ラッパが用いられるようになったり練りが行われたりしている。これによりその地域の本来の伝統文化が失われるとして危惧されているものの、他方では、文化伝播の一事例として興味ぶかく、肯定的に捉えることも可能である。

運営主体の問題

現在、前述の通り歴史的経緯により結果的に浜松まつりの運営は浜松市が主体となっているが、これを疑問視する声も多い。これは参加町の肥大化や観光化[20]は運営主体が浜松市となってから起こったこと、まつり本部と各参加町との壁が大きいことから言われている。

後述する中止問題でも市の一方的決定で中止されたため同年の総会や新聞の投書にてそれを指摘する声が多発し、翌年より組織再編が行われた。しかし運営主体が浜松市であることには変化はない。

参加町

参加各町は町名と併用でまつり組織として(一部は)を名乗る。ここでは組名は省略し、町名のみの記載とする。

2010年には174組が参加した[21]。参加町は近隣の参加町どうしで15の「ブロック」に分かれている。

ブロック 参加町 別名
第1ブロック 利町、紺屋町、松城町、 元城町、 連尺町、 肴町、田町、池町、尾張町、元目町、北田町、 鍛冶町、千歳町、伝馬町、大工町 風心会(鍛冶町、肴町、田町、大工町、伝馬町、千歳町のみ)
第2ブロック 野口町、 八幡町、船越町、常盤町、早馬町、東田町、馬込町、松江町、新町、板屋町
第3ブロック 山下町、中沢町、元浜町、下池川町、高林町
第4ブロック 元魚町、旅篭町、平田町、塩町、成子町、東菅原町、西菅原町、東伊場 縣居ブロック(県居ブロック)
第5ブロック 若林町、若林町北、篠原町、鴨江町、鴨江北町、栄町、中山町、三組町、西伊場町、入野町 西部連合(佐鳴台一丁目含む)
第6ブロック 高町、亀山、広沢町、蜆塚町、名残、 布橋南、布橋北、文丘町、追分、東上池川

西上池川、和地山、山手町、西山町、富塚町、富塚町北、富塚町西、和合町西和

西部会
第7ブロック 佐鳴台一丁目、佐鳴台
第8ブロック 葵西、初生町北、三方原南、三方原町、百里園、三方原町百園、有玉町、西ヶ崎町、半田山、住吉

幸、萩丘、葵東、初生町南、小豆餅、高丘、泉、和合町、湖東町、大山

高台連合
第9ブロック 新津町、茄子町、助信町、曳馬町三浦、曳馬町本郷、曳馬町宮、曳馬町金屋

曳馬町阿弥陀、細島町、十軒町、早出町、上島町

第10ブロック 砂山町、寺島町、龍禅寺町、北寺島町、三島町、寺脇町、中田島町、砂丘、白羽町

瓜内町、楊子町 、米津町

第11ブロック 海老塚、浅田町、森田町、神田町、南栄、新橋町、小沢渡町、 倉松町、卸本町 南部会
第12ブロック 木戸町、相生町、佐藤町西南、佐藤中町、天神町、富吉町、向宿町、名塚町、領家町

中島町本町、中島町諏訪、中島町市場

第13ブロック 植松町、子安町、丸塚町、上新屋町、上西町、大蒲町、市野町、小池町、中田町

原島町、天王町、下石田町、上石田町、和田町、天竜川町、薬師町、安間町、篠ヶ瀬町、神立町、若林町北

第14ブロック 西町、渡瀬町、三和町、飯田町、下飯田町、安松町、芳川町神出、芳川町大橋、本郷町、本郷町東、頭陀寺町、恩地町、参野町、立野町、西伝寺町、 金折町、都盛町、四本松町
第15ブロック 西島町、江之島町、遠州浜

昭和30年以前からの参加町(旧町)

50音順で表記。すべて中区内。

相生町 浅田町 池町 板屋町 海老塚町 追分町 尾張町 鍛冶町 亀山町 鴨江町 北田町 北寺島町 木戸町 元目町 紺屋町 栄町 肴町 佐藤中町 佐藤西南 塩町 下池川町 新町 助信町 砂山町 住吉町 田町 大工町 高町 高林町 千歳町 寺島町 天神町 伝馬町 常盤町 富吉町 中沢町 中島町市場 中島町諏訪 中山町 名残町 平田町 成子町 西上池川町 西菅原町 野口町 旅籠町 八幡町 早馬町 東伊場 東上池川町 東菅原町 東田町 広沢町 船越町 馬込町 松江町 松城町 三組町 向宿町 元魚町 元城町 元浜町 森田町 山下町 竜禅寺町 連尺町 和地山町

新参加町

  • 1975年(昭和50年) 卸本町
  • 1976年(昭和51年) 入野地区 砂丘町
  • 1978年(昭和53年) 領家町
  • 1980年(昭和55年) 蜆塚町
  • 1981年(昭和56年) 布橋
  • 1982年(昭和57年) 三島町
  • 1983年(昭和58年) 中島町本町 西伊場町 山手町 神田町 早出町
  • 1984年(昭和59年) 名塚町 布橋南 倉松町 下石田町 曳馬町本郷
  • 1985年(昭和60年) 茄子町 頭陀寺町 和合町 富塚町 本郷町東 鴨江町北 曳馬町阿弥陀 葵東 芳川町大橋
  • 1986年(昭和61年) 泉 幸 上新屋町 佐鳴台 十軒町 上島町 葵西 小豆餅 新津町 和田町 三和町 安松町 萩丘
  • 1987年(昭和62年) 曳馬町三浦 白羽町 恩地町 瓜内町 文丘町 金折町 南栄 高丘町 初生町北
  • 1988年(昭和63年) 和合町西和 利町 中田島町 佐鳴台一丁目 渡瀬町 参野町 曳馬町金屋
  • 1989年(平成元年) 飯田町 曳馬町宮 西伝寺町
  • 1990年(平成2年) 下飯田町 安間町 本郷町 西山町 遠州浜 三方原町 西島町 天王町 湖東町 植松町
  • 1991年(平成3年) 寺脇町 芳川町神出 楊子町 有玉西南北町
  • 1992年(平成4年) 上西町 小池町 小沢渡町 篠原地区 立野町 富塚町北 富塚町西 中田町 三方原南
  • 1993年(平成5年) 丸塚町 子安町 市野町
  • 1994年(平成6年) 天竜川町 初生町 細島町
  • 1995年(平成7年) 大蒲町 西ヶ崎町 都盛町
  • 1996年(平成8年) 原島町 四本松町 半田団地(現・半田山
  • 1997年(平成9年) 江之島町 薬師町 若林町
  • 1998年(平成10年) 新橋町
  • 1999年(平成11年) 上石田町 百里園
  • 2001年(平成13年) 大山町
  • 2002年(平成14年) 米津町
  • 2006年(平成18年) 篠ヶ瀬町
  • 2007年(平成19年) 神立町 若林町北
  • 2009年(平成21年) 三方原町百園 宮竹町

現在の開催場所

すべて浜松市内。

  • 凧合戦
    • 遠州灘海浜公園白羽地区(通称:凧場) - 南区
  • 中央御殿屋台引き回し・中央練り
  • 町内御殿屋台引き回し・初練り

交通

  • まつり当日は市内各所で交通規制がされ、規制区間へはマイカーの乗り入れが一切できない[22]
    • 凧揚げ会場周辺で交通規制がされる。凧揚げ会場周辺(昼間)は指定車輛(事前に申請した関係者車両・区域内住民の車両)・バス・タクシーのみは乗り入れることが出来る。
    • 中心街(夜間)は基本的に全車両とも乗り入れが出来ず、路線バスも迂回運転となる。ゴールデンウィーク期間中に中心街で交通規制が行われることから中心街周辺でも大変混雑し渋滞が多発するので、当該地域での移動は徒歩や遠州鉄道鉄道線(遠鉄電車)の利用が望ましい。
    • 各町内で御殿屋台引き回しや練りが行われ、この時に組の担当者により各町で道路が封鎖される。封鎖される場所や時間は不明(御殿屋台引き回しや練りの進行ルートが毎回異なる場合があるため)。
  • 凧場(凧揚げ会場)へは浜松駅から会場(中田島砂丘)までは遠州鉄道のシャトルバスたこ直や路線バスが運行されている。マイカーの場合は、飯田公園駐車場からもたこ直が運行されている。なお、浜松市民向けに、各路線から直通の直行バス(名前は同じく「たこ直」)が運行されているが、そちらについてはたこ直を参照のこと。
  • 夜の練りや屋台の引き回しへの参加・見学のために中心街に入るには、遠鉄電車遠州病院駅か第一通り駅から徒歩、もしくは遠鉄バスで県総合庁舎や広小路、浜松駅などを利用する。バス停は、市役所前、伝馬町、かじ町、田町中央通りなどが近いが迂回運転のため停車せず、前述の駅かバス停から徒歩で行くしかない。
  • 凧場→町内への帰還や、町内練り・町内御殿屋台引き回し参加・見学により遠州鉄道鉄道線が混雑するため、夕刻を中心に臨時列車の増発や4両編成運行便の増加が行われる。この際、通常は使用されない新浜松駅2番線が使用される。

関連

  • 参加者は、結婚式など浜松まつり以外の各種祝い事の際にも「練る」ことが多い。特に浜松市内の一部の結婚式場ではオプションメニューで「練り」が設定されている(希望によっては式場の社員による練りのサクラが用意されることもある)。

関連商品

浜松まつり会館など、浜松まつりを主眼とする施設ではミニ凧など、様々な独自の関連商品が発売されているが、ここでは、浜松市内で市販されているものを挙げる。

  • GEKINERI Dance remix - 地元企業のイケヤ株式会社がプロデュース。浜松まつりのテーマ(進軍ラッパ)をリミックスカバーしたCDシングル。市内の小中学校の運動会やイベントなどで使用される。かつてはEPレコードの「激練(Geki-neri)」もリリースされていた(年代不明、東芝EMI)。
  • 凧たこあがれ - たこまんが発売する菓子。浜松まつりの大凧にちなんでいる。

関連番組

斜体字は生中継番組

浜松まつりスペシャル(ラジオ)
まつり期間中にFM Haro!(浜松エフエム放送)が生放送する特別番組。
浜松まつり御殿屋台引き回し生中継(テレビ)
5月3日・4日・5日夕方にケーブル・ウィンディ(浜松ケーブルテレビ・旧:テレビはままつ)が放送する御殿屋台引き回しの生中継番組。凧揚げのハイライトも放送される。東海デジタルネットワークセンターに加盟している愛知・岐阜・三重の一部のケーブルテレビ東海ケーブルチャンネルでも視聴できる。なお、以前は最終日(5日)は放送されていなかった。
やいしょおいしょ 祝!浜松まつり 初子ちゃん紹介(テレビ)
4月~5月頃にケーブル・ウィンディ(浜松ケーブルテレビ・旧:テレビはままつ)で放送される初子紹介番組。
特番「燃えろ浜松まつり」(テレビ)
5月下旬にテレしず(テレビ静岡)にて放送される浜松まつりのハイライト番組。

この他、ケーブル・ウィンディ(浜松ケーブルテレビ・旧:テレビはままつ)を中心に、準備の光景や観光ガイド、ミスコンの風景などが冬~春を中心に随時放映されている。

関連施設

戦後初の開催中止

浜松まつりは、戦後から2010年まで一度も中止されることなく毎年開催されてきたが、2011年東北地方太平洋沖地震東日本大震災)を受け、被災地に対する配慮や市民感情を鑑み、戦後初の中止となった[23]

この中止決定がなされるまでは中止するべきといった意見が多く寄せられていた[要出典]が、中止決定後から不満の声が寄せられるようになり、鈴木修スズキ会長兼社長はこれについて経済的なダメージなどを理由にあげ中止に疑問を呈した[24]

脚注

  1. ^ 凧合戦のみならず御殿屋台引き回しや練りを包含して凧と呼称する。
  2. ^ これは後述するが浜松まつりと命名される1950年より前の呼称である。
  3. ^ SBSテレビ夕刊. “映像詩 静岡の祭り「遠州横須賀凧上げまつり」=2月6日放送”. 2008年4月1日閲覧。
  4. ^ 浜松市100年のあゆみ”. 浜松市. 2012年5月1日閲覧。
  5. ^ 新品・自作・初凧中古・修繕品など様々な場合がある。
  6. ^ 形状は変わらないが揚げつけの際の祝い事が省略されるので合戦をしやすい。
  7. ^ 1995年4月26日発刊の中日新聞(浜松版)朝刊より。
  8. ^ 激練りという単語自体は練りそのもの、あるいは「練りをつぶす」行為を指す。
  9. ^ これは、東洋水産が1978年に発売したカップ麺「激めん」のCMで、三橋美智也が「激れ!激れ!」と連呼していたことに影響を受けている。
  10. ^ 正しくは「施主」である。
  11. ^ 2014年1月25日発刊の中日新聞(浜松版)朝刊33面より。
  12. ^ 遠州では山車と呼ぶことはなく、禰里(ねり)と呼ぶ地域を除き専ら屋台と呼ばれる。
  13. ^ 遠州の屋台には花屋台と御殿屋台がある。
  14. ^ なお、遠州地方には二輪屋台の文化も一部に存在するが、浜松市内は主に四輪であり、浜松まつりもその範疇である。
  15. ^ ただし、後述するように掛塚式屋台ではない収穫祭用屋台を引き回す町も現れている。
  16. ^ 三連か二連かは町ごとに決まっている。一つの町で両方を使い分けるところもある。
  17. ^ ラッパの持ち方は横持ちが主流である。
  18. ^ 結局警察署の認可が下りず実現されなかった。
  19. ^ オリジナル柄の法被など。
  20. ^ まつりの本筋とは異なる合同練りや、まつりの本筋とは関係のないパレードやカラオケ大会など
  21. ^ 凧揚げ合戦を参照。
  22. ^ 会場アクセス”. 浜松まつり本部・浜松だいすきネット. 2012年5月3日閲覧。
  23. ^ 平成23年度浜松まつりの中止について”. 浜松まつり本部・浜松だいすきネット. 2012年5月1日閲覧。(pdf)
  24. ^ 伝統の大たこ揚げ中止、市民の不満収まらず”. 読売新聞 (2011年5月3日). 2011年5月3日閲覧。

参考文献

  • 『浜松まつり参加規約』
  • 『浜松市史』(浜松市役所)
  • 『浜松凧揚祭史―凧揚祭と近代浜松地域の成立と変化―』(1997年度大谷大学文学部史学科卒業論文,中村善太)
  • 『浜松凧の生みの親 椿姫観音 浜松の凧・屋台』(1983年,山崎源一)
  • 『浜松まつり』(1996年,浜松市観光コンベンション課)
  • 『検証・浜松凧揚げの起源と歴史』(2001年,小楠和正)
  • 『日本のかたち 東海道 真ん真ん中 浜松まつり』(2004年,山田有一)
  • 『浜松まつり―学際的分析と比較の視点から―』(2006年,荒川 章二, 笹原 恵, 山道太郎, 山道佳子)  

関連項目

  • たこ直 - 浜松まつりの時に運行されるシャトルバス。

外部リンク

関連