浄円院
浄円院(じょうえんいん、明暦元年(1655年) - 享保11年6月9日(1726年7月8日))は、江戸時代の女性で、紀伊藩主・徳川光貞の側室。8代将軍・徳川吉宗の生母。俗名は由利、紋。
生涯
紀伊藩士・巨勢利清の娘として生まれたとされるが、百姓の娘であるという説などが多数ある。
大奥で湯殿番をしていたお紋に藩主・光貞が手をつけたと云われており、その後、側室となる。貞享元年(1684年)に光貞との間に四男・源六(後の吉宗)を出産。しかし、お紋の身分が低かったためか、源六は幼年期には家老の元で育てられた。
その後、源六は新之助、頼方、吉宗と名を改め、宝永2年(1705年)に光貞や兄2人が没した後に紀伊藩主となる。吉宗がこれほど出世しても、低い身分の出であるお紋は、人目に立たない暮らしをしていたとされ、光貞没後に落飾して浄円院と称した。 享保元年(1716年)に吉宗が将軍職に就任した。
享保3年(1718年)5月に和歌山城から江戸城に移った[1]。
享保11年(1726年)6月9日、死去。戒名は浄円院殿禅台知鏡大姉。
註
- ^ 深井雅海「講演 徳川将軍の情報収集活動」1991年6月(『情報管理 Vol.34 No.3』)
関連項目
参考文献