津山三十人殺し
この記事の正確性に疑問が呈されています。 |
津山事件 | |
---|---|
犯人の都井睦雄 | |
場所 | 岡山県苫田郡西加茂村大字行重 |
日付 | 1938年(昭和13年)5月21日 |
標的 | 同村の村民 |
武器 | 日本刀、猟銃(都井の祖母のみ手斧) |
死亡者 | 30名(うちわけは即死28名、発見時重症であったが後に死亡2名) |
負傷者 | 3名 |
犯人 | 都井睦雄 |
動機 | 怨恨 |
対処 | 犯人の自殺により終結 |
津山事件(つやまじけん)または津山三十人殺し(つやまさんじゅうにんごろし)は、1938年(昭和13年)5月21日未明に岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現・津山市加茂町行重)の貝尾・坂元両集落で発生した大量殺人事件[1]。犯人の姓名を取って都井睦雄事件ともいう。津山市など近隣地域では「加茂の三十人殺し」と呼ばれている(または死者の数に尾ひれがつき水増しされ「三十二人殺し」「三十三人殺し」また「三十六人殺し」とも呼ばれる事がある)
2時間足らずで28名が即死し、5名が重軽傷を負う(そのうち12時間後までに2名が死亡)という、犠牲者数がオウム真理教事件(27名)をも上回る日本の犯罪史上前代未聞の殺戮事件である。 事件は犯人の逮捕にはいたらず、現場から逃走した犯人の自殺で幕を閉じた。
事件発生以前
幼少期からの生活
犯人の都井睦雄(とい むつお)は1917年(大正6年)3月5日、岡山県苫田郡加茂村大字倉見(現・津山市)に生まれた。2歳のときに父を、3歳のときに母を、ともに肺結核で亡くしたため[2]、祖母が後見人となり、その直後一家は加茂の中心部である塔中へ引っ越した。さらに、睦雄が6歳のときに一家(祖母・姉・睦雄、戸主は睦雄)は祖母の生まれ故郷の貝尾集落に引っ越した。
都井家にはある程度の資産があり、畑作と併せて比較的楽に生活を送ることができた。祖母は自身の体調不良などを理由に、都井に家にいることを要求したため、都井の尋常高等小学校への就学は1年遅れ、就学後もたびたび欠席を余儀なくされたが成績は優秀だった。その後担任教師に「上の学校」への進学を勧められたが、祖母に反対されたために断念せざるを得なくなった[疑問点 ]。
都井は尋常高等小学校を卒業直後に肋膜炎を患って医師から農作業を禁止され、無為な生活を送っていた。病状はすぐに快方に向かい、実業補習学校に入学したが、姉が結婚した頃から徐々に学業を嫌い、家に引きこもるようになっていき、同年代の人間と関わることはなかった。一方で、自身が子供向けに作り直した小説を近所の子供達に読み聞かせて、彼らの人気を博した[疑問点 ]。さらに、近隣の女性達とこの地域での風習でもあった夜這いなどの形で関係を持つようになっていった。
しかし都井は事件の前年の1937年(昭和12年)に徴兵検査を受けた際、結核を理由に丙種合格(入営不適、民兵としてのみ徴用可能。実質上の不合格)とされた。その頃から、都井はこれまで関係を持った女性たちに、都井の丙種合格や結核を理由に関係を拒絶されるようになった[3]。そして、心無い風評に睦雄は不満を募らせていった。
凶器の入手
同年、狩猟免許を取得して津山で2連発散弾銃を購入。翌1938年(昭和13年)にはそれを神戸で下取りに出し、猛獣用の12番口径5連発ブローニング猟銃を購入。毎日山にこもって射撃練習に励むようになり、毎夜猟銃を手に村を徘徊して近隣の人間に不安を与えるに至った[4]。都井はこの頃から犯行準備のため、自宅や土地を担保に借金をしていた。
しかし、都井が祖母の病気治療目的で味噌汁に薬を入れているところを祖母本人に目撃され、そのことで「孫に毒殺される」と大騒ぎして警察に訴えられたために家宅捜索を受け、猟銃一式の他、日本刀・短刀・匕首などを押収され、猟銃免許も取り消された(この薬に関し、祖母から話を聞いた近所の寺井元一が後日都井に問いただしている。都井は自分が常用しているわかもとを祖母にも飲ませようとした、と寺井元一に語っているが、みそ汁の混入した薬が本当にわかもとだったのかは不明)
都井はこの一件により凶器類を全て失ったが、知人を通じて猟銃や弾薬を購入したり、刀剣愛好家から日本刀を譲り受けるなどの方法により、再び凶器類を揃え、犯行準備を進めていった。
そして、以前懇意にしていたものの、その後、都井の元から去って他の村へ嫁いだ女性が村に里帰りしてきた1938年(昭和13年)5月21日の未明、犯行が行われた。
犯行当日
犯行準備
都井は事件の数日前から実姉を始め、数名に宛てた長文の遺書を書いていた。さらに自ら自転車で隣町の加茂町駐在所まで走り、難を逃れた住民が救援を求めるのに必要な時間をあらかじめ把握しておくなど(当時、西加茂村駐在所の巡査は出征で欠員中だった)、犯行に向け周到な準備を進めていたことが後の捜査で判明している。自分の姉に対して遺した手紙は、「姉さん、早く病気を治して下さい。この世で強く生きて下さい」という内容である。
1938年(昭和13年)5月20日午後5時頃、都井は電柱によじ登り送電線を切断、貝尾集落のみを全面的に停電させる。しかし村人たちは停電を特に不審に思わず、これについて電気の管理会社への通報や、原因の特定などを試みることはなかった。
翌5月21日1時40分頃、都井は行動を開始する。詰襟の学生服に軍用のゲートルと地下足袋を身に着け、頭にははちまきを締め、小型懐中電灯を両側に1本ずつ結わえ付けた。首からは自転車用のナショナルランプ[5]を提げ、腰には日本刀一振りと匕首を二振り、手には改造した9連発ブローニング猟銃を持った。
決行
都井は最初に、自宅で就寝中の祖母の首を斧ではねて即死させた。その後、近隣の住人を約1時間半のうちに、次々と改造猟銃と日本刀で殺害していった。
被害者たちの証言によると、この一連の凶行は極めて計画的かつ冷静に行われたとされている。「頼むけん、こらえてつかあさい」と足元にひざまづいて命乞いをする老婆に都井は「お前んとこにはもともと恨みも持っとらんじゃったが、(都井が恨みを持っている家から)嫁をもろうたから殺さにゃいけんようになった」と言って猟銃を発砲した(老婆は致命傷を負い、後に死亡した)。しかしある宅の老人は、返り血を浴びた都井に猟銃を突きつけられたが、逃げることもせず茫然と座っていたところ、「お前はわしの悪口を言わんじゃったから、堪えてやるけんの」と言われて見逃されたという。またある宅でも、その家の主人が「決して動かんから助けてくれ」と必死に哀願したところ都井は「それほどまでに命が惜しいんか。よし、助けてやるけん」と言い残しその場を立ち去っている。
都井の凶行はさらに続き、最終的に事件の被害者は死者30名(即死28名、重傷のち死亡2名)、重軽傷者3名にのぼった。死者のうち5名が16歳未満(最年少は5歳)である。計11軒の家が押し入られ、そのうち3軒が一家全員が殺害され、4軒の家が生存者1名のみとなった。押し入られた家の生存者たちは、激しい銃声と都井の怒鳴り声を聞き、すぐに身を隠すなどして助かった。また、2名は襲撃の夜に村に不在だったため難を逃れている。
自殺と遺書
そして約一時間半に及ぶ犯行後、都井は遺書用の鉛筆と紙を借りるため、隣の集落の一軒家を訪れた。家人は都井の異様な風体に驚いて動けない状態だったが、その家の子供が以前から都井の話を聞きに来ていた縁から顔見知りであったため、その子供に頼み鉛筆と紙を譲り受けた。都井は去り際にこの子供へ「うんと勉強して偉くなれよ」と声をかけている。
その後、3.5km離れた仙の城と呼ばれていた荒坂峠の山頂にて[6]、追加の遺書を書いた後、猟銃で自殺した。都井の遺体は翌朝になって山狩りで発見された。猟銃で自らの心臓を撃ち抜いており、即死したとみられている。
都井は遺書の中で、この日に犯行を起こす決意をしたのは、以前都井と関係があったにもかかわらず他家に嫁いだ女性が、貝尾に里帰りしていたからとしている。しかし、この女性は実家に都井が踏み込んで来たときに逃げ出して助かり、逆に逃げ込んだ家の家人が射殺される場面もあった。他にもかねてから殺すつもりの相手が他所へ引っ越したり、他者の妨害にあったりして殺害することができなかったことと併せて、都井は「うつべきをうたず、うたいでもよいものをうった」として反省している。
また、同じく遺書には、真っ先に祖母を手に掛けたのは、「後に残る不びんを考えてつい」と書かれている。
「津山事件報告書」より都井睦雄の遺書
愈愈死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。 思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺井ゆり子が貝尾に来たから、又西川良子も来たからである、しかし寺井ゆり子は逃がした、又寺井倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、岸田順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。 もはや夜明けも近づいた、死にましょう。
(犯行直後の興奮状態での遺書。誤字などあるが原文のままとする)。
事件後
この事件は、前代未聞の惨劇として、ラジオや新聞などのマスコミがセンセーショナルに報道して、『少年倶楽部』までもこの事件を特集するほどだった。
この事件が貝尾集落に与えた影響は大きく、前述のように、一家全滅したところもあれば一家の大部分を失ったところもあり、集落の大部分が農業で生計を立てているため、かなり生活が苦しくなったとされている。さらに、都井の親族であり、都井から襲撃を受けることのなかった一家が、企みを前々から知っていて隠していたのではないかと疑われ、村八分に近い扱いを受けたともいわれている。
また、当時の識者の間では、警察の取締りの不備を強く批判するものが多かったが、中には、1913年(大正2年)にドイツ帝国で起こった「ワグナー事件」との類似性を指摘し、都井の自殺を惜しんで「ぜひとも医学上の研究対象にすべきだった」との声もあった。
事件後、犯人の都井が警察による取り調べを受ける前に自殺し、さらに多くの被害者が亡くなったため、生存者による証言しか残っていない。しかし、生存者のほとんどが亡くなった被害者の誰かしらと親類関係がある状態で、すべての罪を都井にかぶせるようなものが多いという意見もある。さらに、都井が死亡した以上、例えば都井と関係があったと噂される女性でも本人が否定してしまえば確認する方法はなく、事実関係が不明な部分も多く残った。また、この事件の発生から70年以上が経った現在でも、現地でこの事件に言及することはタブー視されている[7]。
近年
事件発生現場・関係先の現在
事件現場である貝尾集落は、周辺集落のなかでも一番山際にあたる部分にある。津山市から美作加茂を経由しアクセスすると、行重を通り抜けて南東の坂元集落へと至る。
その道をさらに車で登っていくと途中に小さく貝尾と書かれた青い看板がある。そこが貝尾集落の入り口となる。その看板の先で道路が二股に分かれており、右が貝尾集落の中心部へ、左にいくと貝尾の集会所へと至る。いずれの道も貝尾部落を抜けると同時に車の通行が不可能な山道へと変わる。先の二股を右へ行くと左に折れる細い道と交わる交差点があるが、そこが貝尾集落の中心地である(この交差点を左にいけば、貝尾の集会所へと続く)。この交差点を中心にした付近の家々で津山事件は発生した。
付近には、昔ながらの墓所が点在しており、多数の墓石の没年月日が“昭和十三年五月二十一日”と刻まれている。このことから津山事件による被害者の墓であることがわかる[8]。
2015年春、倉見に廃屋となって残っていた都井の生家が取り壊されている。
貝尾の人口は事件当時23世帯111人であったが、2010年の平成22年国勢調査によると13世帯37人となっている。うち単身の世帯が4ある。直接被害者を出さなかった複数の世帯が事件後貝尾を離れているほか、過疎化が進行しており、廃墟となっている家屋もある。事件当時から貝尾に居住している人は既に一人もいないという。
70年後の証言
事件発生からちょうど70年後にあたる2008年(平成20年)、『週刊朝日』5月13日号にて津山事件関係者による証言記事(記者:小宮山明希)が掲載された。その記事内で匿名でのインタビューに応じた90代の老人によると、都井睦雄は村が停電になった時によく修理を頼まれていた。また、事件が発生したその日のうちに「昭和の鬼熊事件」と題した号外が出たと述べている[8]。
なお、当時村に残っていたとされている夜這いの風習についてはこれを強く否定している[8]。ただし、彼の配偶者であった人物も当時、都井との関係があったとされており、また都井が残した遺書にその名前が記載されており、事件を決行することにした理由のひとつとして彼女の帰郷を挙げていることから、この証言については偏りがある可能性を否めない。
この証言内容については明らかに誤った内容があり、証言も含めた記事内容は信憑性の薄いものである[9]。
2008年7月21日放送のテレビ朝日スーパーモーニングで事件の特集が組まれている。取材を受けた村民は、夜這いの風習が当時はあったと認め、容疑者も数々の女性と性的関係を持っていたと証言した。
容疑者は当時幼なじみと婚約していたが、肺結核に感染した容疑者との結婚を周囲に反対され、二人は破局、女性は別の男性と結婚した。容疑者はそのことから犯行に及んだ可能性があり、肺結核に対する自身への悪口を言った村人を順に殺害したといわれている。しかし、容疑者は幼なじみの女性をわざと手にかけなかったと当時は噂された。その女性は事件後貝尾を離れ他の集落に転居した。現在90歳を超えており、被害を作った張本人として、70年経った現在も地域社会から孤立している。
脚注
- ^ 一般には津山事件と呼ばれるが、正確には津山市近郊の西加茂村で起きた事件である。この呼称は当時当該地域の所轄が津山署であったため便宜上ついた名称である。西加茂村はその後、市町村合併により加茂町を経て2005年に津山市に編入されている。
- ^ 当時の合同新聞(現・山陽新聞)記事によると、流感で亡くなったとされている。
- ^ 当時の女性たちの間では甲種合格で徴兵される男性をもてはやす風潮があった。
- ^ 一説には、最初に猟銃を購入したのは、関係を求める際に相手の女性に拒ませないためで、村人を襲撃することを念頭においてのものではなかったとされている。また、徴兵されなかった都井に対して村人の迫害があり、護身のために銃を所持したとの見方もある。
- ^ 手提げハンドルとブラケットホルダーがついている、前照灯にもなる懐中電灯。ライトがない実用車の場合、ヘッドチューブには、これを着けられるブラケットが必ず付いている。松下電器産業がナショナルの商標を初めて採用した商品。
- ^ 山崎哲『物語 日本近代殺人史』春秋社、2000年 ISBN 4393331915 より。
- ^ 1975年(昭和50年)に刊行された『加茂町史』では、本事件について「都井睦雄事件も発生した」という記述に留められている。
- ^ a b c 『週刊朝日』2008年(平成20年)5月23日号より
- ^ 『津山事件報告書 (岡山縣苫田郡西加茂村に於ける三十三人殺傷事件)』司法省刑事局
調査文献
- 『津山事件報告書 (岡山縣苫田郡西加茂村に於ける三十三人殺傷事件)』司法省刑事局、1939年
- 事件の1年後に司法省刑事局によってまとめられた公的な報告書。スタンフォード大学図書館において閲覧・検証が可能である。
- 「闇に駆ける猟銃」『ミステリーの系譜』所収 松本清張、中公文庫、1975年 ISBN 4122001625
- 本事件に関するルポルタージュ。前記報告書を基に現地への取材も交え、事件のプロセスを迫真の筆で再現している。元駐在にもインタビューしている。ただし当時まだ存命だった都井の姉のことを「結核で死亡した」と記述するなど、事実誤認の箇所もある。取材の際に関わりを恐れた親戚が偽情報を吹き込んだ可能性もある。
- 『津山三十人殺し―村の秀才青年はなぜ凶行に及んだか』 筑波昭、草思社、1981年 ISBN 4794201338
- 『津山三十人殺し―日本犯罪史上空前の惨劇』 筑波昭、新潮文庫、2005年 ISBN 4101218412
- 『津山事件報告書』から都井の遺書や生存者の証言などが引用されている。また、都井が子供向けに書いたという小説「雄図海王丸」も収録されている。従来、本事件に関する基本的文献とみなされてきたが、下記の『津山事件の真実』による検証で、この本の「雄図海王丸」や阿部定関係など多くの部分が、著者による創作あるいは捏造であるらしいことが判明した。著者自身が、『津山事件の真実』で取材を受けた際に、「よく調べずに書き良心がとがめている」「現地には一度行っただけ」と述べた。清張の書いた「姉はすでに死亡」を鵜呑みにしたのか、真偽を検証しようがない都井家の家庭での他愛ないエピソードが多く、姉の回想に基づくことを示唆するくだりもある。直接都井と関係のない歴史、風俗資料の引用が多い。反面、都井の両親の死亡や貝尾への引っ越しなど都井の人生に大きな影響を与えたくだりは簡単な事実経過のみで、両親の死亡のくだりには、「山村の食生活」に関わる引用が続く。
- 『津山事件の真実(津山三十人殺し)第三版』 事件研究所、2011年 ISBN 978-4990649302
- 『津山事件の真実(津山三十人殺し)第三版(付録付き)』 事件研究所、2013年 ISBN 978-4990649319
- 津山事件についての新事実の他、上記『津山三十人殺し』の内容に関する検証がされている。筑波昭へのインタビューや、『津山事件報告書』の閲覧方法も記載されている。付録付きには、『津山事件報告書』の大半が収録されている。
- 『津山三十人殺し 最後の真相』石川清、ミリオン出版、2011年 ISBN 978-4813021384
- 10年以上現地を取材してきた著者による、新事実を含めた労作。犯行の契機となった「以前懇意にしていたものの、その後都井の元から去り、他の村へ嫁いだ女性」へのインタビューが掲載されている。
- 『津山三十人殺し 七十六年目の真実: 空前絶後の惨劇と抹殺された記録』石川清、学研パブリッシング、2014年 ISBN 978-4054059498
- 前著出版後の取材で明らかになった事実がまとめられている。
関連作品
津山事件は、そのセンセーショナルな事件の内容から、小説・ドラマ・ゲームなど多くの作品で扱われたり、題材・モデルとされている。
- 『八つ墓村』 横溝正史、角川文庫、1971年 ISBN 4041304016
- 冒頭部で語られる村人32人殺し事件は、本事件がモデルとなっている(小説は事件の後日談の形を取っており、本事件そのものが全体のモデルになっているわけではない。また、犯人の境遇はまったく違う設定である)。
- 『丑三つの村』 西村望、毎日新聞社、1981年(徳間文庫、1984年 ISBN 4195675936)
- 「負の暗示」『神かくし』所収 山岸凉子、秋田文庫、1998年 ISBN 4253172466
- 本事件を漫画化した作品。
- 『龍臥亭事件(上・下)』 島田荘司、光文社文庫、1999年 ISBN 4334728898(上巻)、ISBN 4334728901(下巻)
- 舞台となる集落の名称は変更されているが、津山事件に詳しく言及される下巻の内容は筑波昭の著作と重複する部分が多い。
- 『SIREN』、ソニー・コンピュータエンタテインメント、2003年
- 作中に津山事件を元にした「××村三十三人殺し」という事件が登場する。下記の杉沢村伝説との関連も深い。
- 『夜啼きの森』 岩井志麻子、角川ホラー文庫、2004年 ISBN 4043596049
- 本事件を題材にしたホラー小説。
- 『「八つ墓村」は実在する』 蜂巣敦、ミリオン出版、2005年 ISBN 4813020291
- 『八つ墓村』と本事件の関連性を、現地調査等を通じて考察した本。
- 『《津山三十人殺し》幻視行』月蝕歌劇団、2008年8月
- 『ツバキ』、押切蓮介、2011年
- ホラー漫画。シリーズ中に本事件をベースにしたエピソードが存在する。
- 『夜見の国から』、池辺かつみ、ニチブンコミックス、2012年
- 本事件を題材にした劇画。
- 「ムツオさん」『THE SHOW MUST GO ON』所収 筋肉少女帯、徳間ジャパン、2014年
- 本事件をモチーフとした[1]楽曲。
- ^ 【前編】オーケンに全部聞いた! 4年ぶりでもブレない筋少ワールド『THE SHOW MUST GO ON』アルバム発売記念インタビュー (2014年10月19日閲覧)
関連項目
座標: 北緯35度9分21.0秒 東経134度2分17.0秒 / 北緯35.155833度 東経134.038056度