洗脳

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洗脳の風刺描写。

洗脳(せんのう)またはブレインウォッシング: brainwashing)は、強制力を用いて人の思想主義を根本的に変えさせる事。

日本語の「洗脳」は英語の「brainwashing」の直訳であり[1]、英語の「brainwashing」は中国語の「洗脑/洗腦」の直訳である。アメリカCIA朝鮮戦争捕虜収容所で行われた思想改造[2]について報告書を提出したことをきっかけとして、またその後にジャーナリストエドワード・ハンター中国共産党の洗脳技法についての著書を著したことで広く知られるようになった。

中華人民共和国における洗脳[編集]

朝鮮戦争中国人民志願軍の捕虜となったアメリカ兵士が収容所で共産主義を信奉するようになったという報告がなされ、1951年には中国共産党による「洗脳」がエドワード・ハンターによってBrain-washing in Red China: the calculated destruction of men’s minds(直訳:中国共産党における洗脳:人間の精神の計画的な破壊。福田実による邦題は『洗脳 中共の心理戦争を解剖する』)が刊行された[3]

エドワード・ハンターは、日本人捕虜や朝鮮戦争でのアメリカ人捕虜に対する中国共産党の「思想改造」における洗脳手法について、「勉強会」での「学習」、集団学習会での自己批判、巧妙な賞罰(犯罪を告白したものを賞賛し、告白しないものには同調圧力を加える)、の意識(罪悪感)を植え付けるなどの特徴を指摘している[3][4]。ハンターによれば、

(中国共産党による洗脳)は戦争である。心理戦ともいわれるが、「脳の戦争」と呼ぶ方が適切である。武器は身体に対して行われ、対象者を無能力にし、破壊する。一方で、精神に対する工作では、(それまでに持っていた)信念を転覆させてコントロールする。脳の戦争においては、対象者の考え方や、感情、気持ちを征服することが、最終的な勝利となる。 — Hunter, Edward,BRAINWASHING: The Story of the Men Who Defied it,p.47
共産党は、教育、パブリック・リレーションズ、説得、または、誤解されている用語であるが、精神改革、再教育などの手法によって洗脳を行う。 — Hunter, Edward,BRAINWASHING: The Story of the Men Who Defied it,p.5

毎日常に行われる勉強会では、「生徒」たちは、告白(認罪)作業を行う[5]。広い部屋に収容されたグループは常に議論や、自己批判、告白を行うために集まることができるようにしている[5]

議論や討論は「民主的討論」と呼ばれ、満場一致が繰り返し求められるため、まだ告白を済ませていないものは疲弊し、次第に自分自身が行ったかのように思い込む[6]

集団作業では、各人のそれまでの考え方をあらゆる点において点検させ、疲弊した心に、それらが明白に間違っていることを認めさせる[7]。「生徒」たちは、ただ一つの善と、それ以外の全ての悪とを分離し、理論的に説明され、転倒した段階において各人は「解放」される[7]

洗脳の長期的目標は、改造を受けた「転向者」が、いつでもどこにいても、自立して反応するように仕向けることである。個人の自由意思を野蛮であるとして非難する[8]。そして、反対意見や事実を聞くことができなくなる[8]

洗脳は二段階で行われる[9]。第一段階はコントロールを目的とした条件づけであり、抵抗力を弱めさせる[9]。第二段階は、改心(転向)を目的として強化し、説得する[9]

学習と告白を引き出すための方法は、福音伝道精神医学、科学から借用されたものである[10]

学習と告白によって作られた服従は、洗脳の短期的目標であり、この段階ではまだ真の「生徒」ではない[8]。 真実のもので、透明なものとされる「学習」とは、中国共産党側の政治的教育のことである[8]。「告白」(認罪)は、儀礼的統合である[8]。中国共産党による改造では、学習会の出席者は、個人の自我を保持することは、統制された全体の合意によって危険なものとされた[8]

朝鮮戦争は、アメリカが「かわいそうな朝鮮や中国」に対する戦争であると宣伝され、中国にいる人々は、その蛮行の目撃者であると思いこむようになった[11]

ハンターは1958年3月13日の下院非米活動委員会で中国共産党の心理戦について報告した[12]

リフトンの研究[編集]

1954年-1955年に、香港で行った調査を基に、心理学者であるロバート・J・リフトンニューヨーク市立大学教授)は著書『思想改造の心理』の中で精神医学的観点から「洗脳」と言われる過程の分析を試み、中国共産党による「改造」(思想改造)「洗脳」を全体主義社会における心理として最も効果的な手段を持ったとした[13]

リフトンによると、洗脳のテクニックには8つの要素がある

  1. 環境のコントロール
  2. 密かな操作
  3. 告白儀式
  4. 純粋性の要求
  5. 「聖なる科学」
  6. 教義の優先
  7. 特殊用語の詰め込み
  8. 存在権の配分

しかし、洗脳の効果についてリフトンは、帰国後、元捕虜が共産主義者として活動したのは一部であることなどから、洗脳プログラムは失敗である、とした[14]

撫順戦犯管理所における日本人捕虜の「改造」[編集]

第二次世界大戦が終了した1945年、日本人捕虜の一部はソ連の極東シベリア(ハバロフスク)地区捕虜収容所に監禁された[15]。シベリアで日本人捕虜は、厳寒のなか強制労働飢餓、取り調べ、旧日本軍の民主化運動で批判されるなど苦しんだ[16]。1950年7月には、前年に成立した中華人民共和国撫順戦犯管理所に日本人捕虜が移管された[15][17]。手厚い対応を行い、十分な食事が与えられ、強制労働もなかった[17]

「正しい思想を正しい方法で教育すれば人間は変わる」という毛沢東の「改造」政策によって、捕虜は毎日、学習や運動をして過ごした[17]

日本人戦犯の「改造」教育課程は、三段階となっており、

  1. 反省学習(マルクス主義や毛沢東思想の学習)
  2. 罪行告白(坦白(たんぱい))
  3. 尋問

となっていた[18][17][16]

1956年には瀋陽の最高人民法院特別軍事法廷で起訴され、被告全員が罪を認め謝罪し、翌1957年に帰国してから日本で中国帰還者連絡会を創立し、加害証言活動と謝罪活動を行った[17]

秦郁彦は、日本人捕虜の「認罪」過程を洗脳として供述書の信憑性に注意すべきであるとした[19][17]。また、小林よしのりは、中国側の「思想改造教育」を自己啓発セミナーカルト宗教の洗脳システムそのものと批判した[20][17]

一方、ジャーナリスト新井利男は「天皇崇拝思想・軍国主義思想に洗脳されていた戦犯たちが、自らそのマインドコントロールを解き放ち、精神の自由を取り戻して罪を告白」したと評価している[21][17]。『週刊金曜日』は撫順戦犯管理所での認罪を「『人類の解放』という理想を体現した世界でも希有な歴史的事実」と絶賛した[22]

古海忠之城野宏の対談『獄中の人間学』で城野は「もともと洗脳などされるわけもないし、実際にやられてもいない。中国共産党もそれほど馬鹿じゃありませんよね(笑)」「ぼくも帰国したときに、新聞記者たちに洗脳されたのではないかという質問を受けましたよ。だから、洗脳とはどういう意味だ、シャンプーで頭髪を洗うことかと言ったら、思想を矯正して共産党員にすることだと言う。答えてやりましたよ、それは実に簡単なことで中国で矯正されて共産党員になるくらいなら、日本の警察で矯正を受ければ、すぐにハイ、やめます、と言うことになるだろう。そんな馬鹿なことをやる毛沢東だったら、おれは戦争に負けておらん(笑)。そう言ってやった」[72-73ページ]と記載されている。当事者の弁である。

新疆ウイグル再教育キャンプにおける「人格改造」[編集]

2010年代から中華人民共和国は新疆ウイグル自治区強制収容所新疆ウイグル再教育キャンプ)で何十万人もの人間に対して組織的な「洗脳」「人格改造」を行っていると報じられている[23][24]

2019年11月に国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)が公開した中国政府の文書とされるチャイナ・ケーブル英語版によれば、監視カメラ携帯電話などから個人情報を収集してアルゴリズム解析する「一体化統合作戦プラットフォーム」(IJOP)による人工知能(AI)と機械学習を利用したプレディクティブ・ポリシング英語版ウイグル人を選別して予防拘禁[25][26]

  • 徹底的な生活行動の管理と脱走の防止
  • 悔悛と自白の強要
  • 言語の矯正
  • 点数による賞罰

などが収容所では指示されている[24]

また、薬物を投与して囚人をコントロールする試みも行っているという証言もある[27]

世界ウイグル会議の顧問弁護士ベン・エマーソンは「ひとつの民族全体を対象とする巨大な集団洗脳計画以外の何かだとみなすのは、非常に難しい」と述べている[24]

アメリカ合衆国における洗脳[編集]

MKウルトラ計画[編集]

朝鮮戦争での中国共産党による米兵捕虜の洗脳が報告されてからアメリカ中央情報局(CIA)も洗脳についての人体実験であるMKウルトラ計画を開始した[28]

モデルのキャンディ・ジョーンズ英語版CIAに洗脳されていたといわれる[29]

グアンタナモ湾収容キャンプ、アブグレイブ刑務所での拷問[編集]

アメリカ同時多発テロ事件後、対テロ戦争を掲げたジョージ・W・ブッシュ政権下で行われたキューバグアンタナモ湾収容キャンプイラクアブグレイブ刑務所などでのCIAと米軍による非人道的な強化尋問英語版が拷問であるとして人権問題となり、その尋問技法は中国共産党が米兵捕虜に自白を強要した洗脳がモデルだったことがアメリカ合衆国上院軍事委員会で報告された[30][31]

グアンタナモの被収容者には中国から逃れたウイグル族も含まれ、アメリカ合衆国司法省監察官のグレン・A・ファイン英語版などによればグアンタナモを訪問した中国当局者と米軍の尋問官は協力して15分ごとに睡眠を中断させる「フリークエントフライヤープログラム」も行ったとされる[32][33][34][35]

関連作品[編集]

  • Toshl『洗脳 地獄の12年からの生還』(2014年7月23日、講談社)ISBN 978-4062186575

出典[編集]

  1. ^ 明鏡国語辞典、大修館書店
  2. ^ 世界大百科事典 第2版によれば、「中華人民共和国成立後,数年にわたり全国的な範囲と規模でおこなわれた知識人の自己改造・自己変革を思想改造という。」「旧社会から持ちこんできた習慣や思想を改造し,勤労者さらにはプロレタリアへ立場を移すよう,組織的な学習運動がおこなわれた。」
  3. ^ a b Hunter, Edward (1951). Brain-washing in Red China: the calculated destruction of men’s minds. New York: Vanguard Press.日本語訳:エドワード・ハンター、福田実訳『洗脳 中共の心理戦争を解剖する』法政大学出版局、1953年。
  4. ^ Hunter, Edward(1956),BRAINWASHING: The Story of the Men Who Defied it,Ambassador Books, Ltd., Toronto.
  5. ^ a b Hunter, Edward,BRAINWASHING: The Story of the Men Who Defied it,p.50-51
  6. ^ Hunter, Edward,BRAINWASHING: The Story of the Men Who Defied it,p.43-45
  7. ^ a b Hunter, Edward,BRAINWASHING: The Story of the Men Who Defied it,p.198
  8. ^ a b c d e f Hunter, Edward,BRAINWASHING: The Story of the Men Who Defied it,p.184
  9. ^ a b c Hunter, Edward,BRAINWASHING: The Story of the Men Who Defied it,p.182
  10. ^ Hunter, Edward,BRAINWASHING: The Story of the Men Who Defied it,p.202
  11. ^ Hunter, Edward,BRAINWASHING: The Story of the Men Who Defied it,p.48-49
  12. ^ Hunter, Edward. “Communist psychological warfare”,COMMITTEE ON UN-AMERICAN ACTIVITIES HOUSE OF REPRESENTATIVES, EIGHTY-FIFTH CONGRESS SECOND SESSION,MARCH 13, 1958.
  13. ^ Robert Jay Lifton,Thought Reform and the Psychology of Totalism: A Study of "Brainwashing" in China. New York: Norton. 1961.(オンライン,邦訳ロバート・J・リフトン『思想改造の心理―中国における洗脳の研究』 誠信書房 1979
  14. ^ Lifton 1979, p.253
  15. ^ a b 彭厚訓編、撫順戦犯管理所編『日本戦犯再生の地』五州伝播出版社,p.8-10
  16. ^ a b 石田隆至「寛大さへの応答から戦争責任へ ─ある元兵士の「終わりなき認罪」をめぐって─」プライム (31), p59-72, 2010-03,明治学院大学国際平和研究所
  17. ^ a b c d e f g h 安藤裕子「和解の記憶の欠落 ―戦後日本における「認罪」の表象―」『アジア太平洋討究』No. 25,2015年
  18. ^ 上杉千年「拝啓 広島県教育委員会殿 第5弾「広島解放区」にうごめく教員組合と校長会」正論1999年4月号
  19. ^ 秦郁彦「『世界』が持ち上げる「撫順戦犯裁判」認罪書 の読みかた」『諸君!』1998年5月号(文藝春秋)
  20. ^ 小林よしのり『新ゴーマニズム宣言 SPECIAL 戦争論』幻冬舎(1998),第 13 章「洗脳されている自覚はない」pp. 183‒194
  21. ^ 『世界』1998年5月号 pp. 69‒70
  22. ^ 週刊金曜日「中国へ『帰郷』した日本人戦犯たち(上)(下)」2000年10月3日号 pp. 52‒55, 10月20日号 pp. 30‒33
  23. ^ “China: Extreme brainwashing at Uighur prison camps exposed in new leak”. ドイチェ・ヴェレ. (2019年11月24日). https://www.bbc.com/japanese/50542004 2019年11月25日閲覧。 
  24. ^ a b c “中国政府、ウイグル人を収容所で「洗脳」 公文書が流出”. BBC. (2019年11月25日). https://www.bbc.com/japanese/50542004 2019年11月25日閲覧。 
  25. ^ “Exposed: China’s Operating Manuals For Mass Internment And Arrest By Algorithm”. 国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ). (2019年11月24日). https://www.icij.org/investigations/china-cables/exposed-chinas-operating-manuals-for-mass-internment-and-arrest-by-algorithm/ 2019年11月26日閲覧。 
  26. ^ “大規模システムでウイグル族を監視 中国当局の内部文書判明”. 東京新聞. (2019年11月25日). https://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201911/CK2019112502000118.html 2019年11月26日閲覧。 
  27. ^ “Secret documents: China detention camps to 'prevent escapes'”. 毎日新聞. (2019年11月25日). https://mainichi.jp/english/articles/20191125/p2g/00m/0in/039000c 2019年11月25日閲覧。 
  28. ^ The Church Committee:Foreign and Military Intelligence,Final Report,1976,p. 390
  29. ^ Donald Bain's The Control of Candy Jones,1976,Playboy Press
  30. ^ “China Inspired Interrogations at Guantánamo”. ニューヨーク・タイムズ. (2008年7月2日). https://www.nytimes.com/2008/07/02/us/02detain.html 2020年1月4日閲覧。 
  31. ^ Chaddock, Gail Russell (2009年4月22日). “Report says top officials set tone for detainee abuse”. クリスチャン・サイエンス・モニター. https://www.csmonitor.com/USA/Politics/2009/0422/report-says-top-officials-set-tone-for-detainee-abuse 2020年1月4日閲覧。 
  32. ^ “Detainee’s Lawyers Make Claim on Sleep Deprivation”. ニューヨーク・タイムズ. (2008年7月15日). https://www.nytimes.com/2008/07/15/us/15gitmo.html 2020年1月5日閲覧。 
  33. ^ “Uighur men held for 12 years leave Guantánamo Bay for Slovakia”. ガーディアン. (2013年12月31日). https://www.theguardian.com/world/2013/dec/31/uighur-men-leave-guantanamo-bay-slovakia 2020年1月5日閲覧。 
  34. ^ House Foreign Affairs Subcommittee on International Organizations, Human Rights, and Oversight, hearing on the FBI’s role at Guantanamo Bay prison, June 4, 2008
  35. ^ 「180時間断眠も無問題」:米政府の拷問実態が明らかに”. WIRED (2009年5月1日). 2020年1月4日閲覧。

参考書籍[編集]

  • Hunter, Edward (1951). Brain-washing in Red China: the calculated destruction of men’s minds. New York: Vanguard Press.
    • 日本語訳:E.ハンター(エドワード・ハンター)、福田実訳『洗脳 中共の心理戦争を解剖する』法政大学出版局、1953年
  • Hunter, Edward(1956),BRAINWASHING: The Story of the Men Who Defied it,Ambassador Books, Ltd., Toronto. [Literary Licensing, LLC , 2011].オンライン全文,インターネットアーカイブ。
  • Hunter, Edward. “Communist psychological warfare”,COMMITTEE ON UN-AMERICAN ACTIVITIES HOUSE OF REPRESENTATIVES, EIGHTY-FIFTH CONGRESS SECOND SESSION,MARCH 13, 1958.
  • Robert Jay Lifton,Thought Reform and the Psychology of Totalism: A Study of "Brainwashing" in China. New York: Norton. 1961.(オンライン,インターネットアーカイブ。

関連項目[編集]