法然
法然房源空 | |
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長承2年4月7日 - 建暦2年1月25日(宣明暦) (1133年5月13日 - 1212年2月29日〈ユリウス暦〉) | |
「披講の御影(隆信御影)」[注釈 1] | |
幼名 | 勢至丸 |
号 |
(房号)法然 (大師号)円光大師・東漸大師・慧成大師・弘覚大師・慈教大師・明照大師・和順大師・法爾大師[1] |
諱 | 源空 |
諡号 |
慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・ 天下上人無極道心者・光照大士[1] |
尊称 | 元祖法然上人 |
生地 | 美作国(現・岡山県) |
没地 | 洛東大谷(現在の知恩院付近) |
宗旨 | 浄土宗 |
寺院 | 法然自身は寺院を建立せず。 |
師 | 源光・叡空 |
弟子 |
弁長、証空、親鸞、蓮生、源智、 幸西、信空、隆寛、長西、湛空 など。 |
著作 |
『選択本願念仏集』、 「一枚起請文」、他。 |
廟 |
知恩院、金戒光明寺、法然寺、 粟生光明寺など。 |
法然(ほうねん、長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。法然は房号で、諱は源空(げんくう)。幼名を勢至丸[1]。通称は黒谷上人・吉水上人とも。
謚号は、慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・天下上人無極道心者・光照大士である[注釈 2][1]。
大師号は、500年遠忌の行なわれた正徳元年(1711年)以降、50年ごとに天皇より加謚され、平成23年(2011年)現在、円光大師・東漸大師・慧成大師・弘覚大師・慈教大師・明照大師・和順大師・法爾大師である[注釈 3][1]。
『選択本願念仏集』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における称名念仏の元祖と称される。
浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。
浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖とし、法然上人・源空上人と称し、元祖と位置付ける[注釈 4]。親鸞は、『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然を「本師源空」や「源空聖人」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。
生涯
生い立ちと出家・授戒
長承2年(1133年)4月7日、美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使・漆間時国と、母・秦氏君(はたうじのきみ)との子として生まれる。生誕地は、誕生寺(出家した熊谷直実が建立したとされる)になっている。
『四十八巻伝』(勅伝)などによれば、保延7年(1141年)9歳のとき、土地争論に関連し、明石源内武者貞明が父に夜討をしかけて殺害してしまうが、その際の父の遺言によって仇討ちを断念し、菩提寺の院主であった、母方の叔父の僧侶・観覚のもとに引き取られた[2]。その才に気づいた観覚は、出家のための学問をさずけ、また、当時の仏教の最高学府であった比叡山での勉学を勧めた。
その後、天養2年(1145年)[注釈 5]、比叡山延暦寺に登り、源光に師事した。源光は自分ではこれ以上教えることがないとして、久安3年(1147年)に同じく比叡山の皇円の下で得度し、天台座主行玄を戒師として授戒を受けた[3]。 久安6年(1150年)、皇円のもとを辞し、比叡山黒谷別所に移り、叡空を師として修行して戒律を護持する生活を送ることになった。「年少であるのに出離の志をおこすとはまさに法然道理の聖である」と叡空から絶賛され、このとき、18歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という諱(名前)も授かった。したがって、法然の僧としての正式な名は法然房源空である[3]。法然は「智慧第一の法然房」と称され、保元元年(1156年)には京都東山黒谷を出て、清凉寺(京都市右京区嵯峨)や醍醐寺(京都市伏見区醍醐東大路町)などに遊学した[3]。
これに対して、『法然上人伝記』(醍醐寺本)「別伝記」では、観覚に預けられていた法然は15歳になった久安3年(1147年)に、父と師に対して比叡山に登って修業をしたい旨を伝え、その際父から「自分には敵がいるため、もし登山後に敵に討たれたら後世を弔うように」と告げられて送り出された。その後、比叡山の叡空の下で修業中に父の殺害を知ったとされる。また、法然の弟子の弁長が著した『徹選択本願念仏集』(巻上)の中に師・法然の法言として「自分は世人(身内)の死別とはさしたる因縁もなく、法爾法然と道心を発したので師(叡空)から法然の号を授けられた」と聞いたことを記しており、父の死と法然の出家は無関係であるとしている[4]。
浄土宗の開宗
承安5年(1175年)43歳の時、善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって回心を体験し、専修念仏を奉ずる立場に進んで浄土宗を開き、比叡山を下りて東山吉水に住んで、念仏の教えを広めた[3]。この年が浄土宗の立教開宗の年とされる。法然のもとには延暦寺の官僧であった証空、隆寛、親鸞らが入門するなど次第に勢力を拡げた[3]。
養和元年(1181年)、前年に焼失した東大寺の大勧進職に推挙されるが辞退し、俊乗房重源を推挙した。
文治2年(1186年)、大原勝林院で聖浄二門を論じた。これを「大原問答」と呼んでいる。
建久元年(1190年)、重源の依頼により再建中の東大寺大仏殿に於いて浄土三部経を講ずる。 建久9年(1198年)、専修念仏の徒となった九条兼実の懇請を受けて『選択本願念仏集』を著した。叙述に際しては弟子たちの力も借りたという[5]。
元久元年(1204年)、後白河法皇13回忌法要である「浄土如法経(にょほうきょう)法要」を法皇ゆかりの寺院・長講堂(現、京都市下京区富小路通六条上ル)で営んだ。絵巻『法然上人行状絵図』(国宝)にその法要の場面が描かれている。
法然上人絵伝などでは、法然は夢の中で善導と出会い浄土宗開宗を確信したとされる。これを「二祖対面」と称し、浄土宗では重要な出来事であるとされている。
延暦寺奏状・興福寺奏状と承元の法難
元久元年(1204年)、比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は『七箇条制誡』を草して門弟190名の署名を添えて延暦寺に送った。しかし、元久2年(1205年)の興福寺奏状の提出が原因のひとつとなって承元元年(1207年)、後鳥羽上皇により念仏停止の断が下された[注釈 6]。
念仏停止の断のより直接のきっかけは、奏状の出された年に起こった後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に院の女房たちが法然門下で唱導を能くする遵西・住蓮のひらいた東山鹿ヶ谷草庵(京都市左京区)での念仏法会に参加し、さらに出家して尼僧となったという事件であった[6]。 この事件に関連して、女房たちは遵西・住蓮と密通したという噂が流れ、それが上皇の大きな怒りを買ったのである[6][注釈 7]。
法然は還俗させられ、「藤井元彦」を名前として土佐国(実際には讃岐国)に流罪となった。なお、親鸞はこのとき越後国に配流とされた。
讃岐配流と晩年
讃岐国滞在は10ヶ月と短いものであったが、九条家領地の塩飽諸島本島や西念寺(現・香川県仲多度郡まんのう町)を拠点に、75歳の高齢にもかかわらず讃岐国中に布教の足跡を残し、空海の建てた由緒ある善通寺にも参詣している。法然を偲ぶ法然寺も高松市に所在する。
承元元年(1207年)12月に赦免されて讃岐国から戻った法然が摂津国豊島郡(現箕面市)の勝尾寺に承元4年(1210年)3月21日まで滞在していた記録が残っている。翌年の建暦元年(1211年)には京に入り、吉水にもどった。
建暦2年(1212年)1月25日、京都東山大谷(京都市東山区)で死去した。享年80(満78歳没)。なお、死の直前の1月23日には弟子の源智の願いに応じて、遺言書『一枚起請文』を記している。廟所は現在の知恩院の法然上人御廟の場所に建てられた。
法然の門下には弁長・源智・信空・隆寛・証空・湛空・長西・幸西・道弁・親鸞・蓮生らがいる。また俗人の帰依者・庇護者としては、式子内親王・九条兼実・宇都宮頼綱らが著名である。
死後・嘉禄の法難
法然の死後15年目の嘉禄3年(1227年)、天台宗の圧力によって隆寛、幸西、空阿が流罪にされ、僧兵に廟所を破壊される事件が発生した。そのため、信空と覚阿が中心となって蓮生、信生、法阿、道弁らと六波羅探題の武士たちが護衛して法然の遺骸を嵯峨の二尊院に移送した。更に証空によって円空がいた太秦の広隆寺境内の来迎院)に、更に西山の粟生にいる幸阿の念仏三昧院に運び込んだ。そして、法然の十七回忌でもある安貞2年(1228年)1月25日に信空、証空、覚阿、幸阿、円空らが見守る中で火葬して荼毘に付し、遺骨は知恩院などに分骨された。
思想と教え
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一般に、法然は善導の『観経疏』によって称名念仏による専修念仏を説いたとされている。ここでは顕密の修行のすべてを難行・雑行としてしりぞけ念仏を唱える易行のみが正行とされた [7][注釈 8]。
法然の教えは都だけではなく、地方の武士や庶民にも広がり、摂関家の九条兼実ら新時代の到来に不安をかかえる中央貴族にも広まった。兼実の求めに応えて、その教義を記した著作が『選択本願念仏集』である。日本仏教史上初めて、一般の女性にひろく布教をおこなったのも法然であり、かれは国家権力との関係を断ちきり、個人の救済に専念する姿勢を示した[8]。
もっとも、こうした法然の教えは自らを三学非器の凡夫とする強い意識から、自らの娑婆世界での解脱を諦めて浄土往生を志すようになった。だが、既存の宗派のやり方では往生は極めて難しいと考えて確実に往生できる教行を求め、その結果として専修念仏にたどり着くことになる。法然の思想は凡夫である自らの往生のために由来するものであって、他者の化導や新しい教学の成立を企図していた訳ではなかった[9]。法然を民衆の化導者とする描写は法然自身の著作よりも弟子の所説、特に空阿や信空の言行・所説の影響によるところが大きいとされている[10]。
専修念仏の提唱
『選択本願念仏集』で法然は、各章ごとに善導や善導の師である道綽のことばを引用してから自らの見解を述べている。法然においては、道綽と善導の考えを受けて、浄土に往生するための行を称名念仏を指す「正」とそれ以外の行の「雑」に分けて正行を行うように説いている。著書内で、時(時間)機(能力)に応じて釈尊の説かれた聖教のなかから自らの機根に合うものを選びとり、行じていく事が本義である事を説いた。加えて、仏教を専修念仏を行う浄土門とそれ以外の行を行う聖道門に分け、浄土門を娑婆世界を厭い極楽往生を願って専修念仏を行う門、聖道門を現世で修行を行い悟りを目指す門と規定している。また、称名念仏は末法の世でも有効な行であることを説いている。
末法の世に生まれた凡夫にとって、聖道門の修行は堪え難く、浄土門に帰し、念仏行を専らにしてゆく事でしか救われる道は望めない。その根拠としては『仏説無量寿経』にある法蔵菩薩の誓願を引用して、称名すると往生がかなうということを示し、またその誓願を果たして仏となった阿弥陀仏を十方の諸仏も讃歎しているとある『仏説阿弥陀経』を示し、他の雑行は不要であるとしている。もっとも、法然が浄土門を勧めたのは、自身を含めた凡夫でも確実に往生できる行であったからであって、聖道門とその行によって悟りを得ること自体は困難ではあるが甚だ深いものであるとし、聖道門を排除・否定することはなかった[11]。
また、『無量寿経釈』では、『無量寿経』においては仏土往生のために持戒すべきことが説かれているが、専らに戒行を持していなくても念仏すれば往生が遂げられると主張している。ただし、法然は持戒を排除したのではなく、持戒を実際に行うことは大変難しく、法然自身でもそれを貫くのは困難であると考えていたからこそ、自分も含めた凡夫が往生するためには無理な持戒よりも一心に念仏を唱えるべきであると唱えたのである。それは、『無量寿経釈』においても分際に従って1つでも2つでも持戒をしている者が一心に念仏すれば必ず往生できると唱えていることからも分かる。なお、法然自身による自分の持戒は不十分であるとする自覚とは反対に世間では法然を清浄持戒の人物と評価されていた。九条兼実が娘の任子の受戒のための戒師を決める際に、法然が戒律のことを良く知っている僧侶であるとして彼を招聘している(『玉葉』建久2年9月29日条)[12]。
三心の信心
法然の称名念仏の考えにおいて、よくみられるのが「三心」である。これは『仏説観無量寿経』に説かれていて、『選択集』・『黒谷上人語灯録』にもみられる語である。「三心」とは「至誠心」(誠実な心)・「深心」(深く信ずる心)・「廻向発願心」(願往生心)のことである。
- 至誠心
- 疑うことなくこころから阿弥陀仏を想い浄土往生を願うこと。
- 深心
- 疑いなく深く信じること。次の二つがあげられる。一つは、自身が罪悪不善の身でいつまでも輪廻を繰り返す、救われ難い身であること、二つには、そのような罪深き身である自分を阿弥陀如来は「南無阿弥陀仏」と深く信じてとなえれば必ず救ってくれることである。この二つを「二種深心」といって信心の要とした。
- 廻向発願心
- 一切の善行の功徳を浄土往生にふりむけ、極楽浄土に生まれたいと願う心。
三心は念仏者の心得るべき根幹をなすもので、大切なものとされている。三心を身につけることについては、『一枚起請文』にて、「ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定(けつじょう)して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候なり」と述べ、専修念仏を行うことで身に備わるものであるとしている。
他力と自力については、他力の念仏を勧めている。自力は聖人にしか行えないもので千人に一人、万人に一人二人救われかどうかであるとし、対して、他力の念仏は、名を称えた者を救うという阿弥陀仏の四十八願を根拠として必ず阿弥陀仏が救いとってくださるとし、三心をもって念仏を行うべきとしている。
このように法然の教えは、三心の信心にもあるとおり、民衆に凡夫であるということをまず認識させ、その上で浄土に往生するためには、専修念仏が一番の道であるとして勧め、さまざまな行のなかから念仏を行として選択すべきだとしている。
法脈と弟子
法然 | 証空〈西山義〉 | 浄音〈西谷流〉 | 【西山浄土宗】【浄土宗西山禅林寺派】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
了音〈六角流〉 | (衰退) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
円空〈深草流〉 | 【浄土宗西山深草派】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
証入〈東山流〉 | (衰退) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
道観〈嵯峨流〉 | (衰退) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
遊観〈嵯峨流〉 | 示導〈本山流〉 | (衰退) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
聖達〈嵯峨流〉 | 一遍【時宗】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
弁長〈鎮西義〉 | 良忠─── | 尊観〈名越派〉 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
性心〈藤田派〉 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
寂慧〈白幡派〉 | 【浄土宗】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
礼阿〈一条派〉 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
慈心〈木幡派〉 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
道光〈三条派〉 | (衰退) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
一向〈一向宗〉 | 浄土宗〈鎮西義〉に吸収 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
親鸞〈真宗義〉 | 【浄土真宗・真宗】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
隆寛〈多念義〉 | (衰退) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幸西〈一念義〉 | (衰退) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長西〈九品寺流〉 | (衰退) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
源智〈紫野門徒〉 | 浄土宗〈鎮西義〉に吸収 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
信空〈白川門徒〉 | 浄土宗〈鎮西義〉に吸収 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
湛空〈嵯峨門徒〉 | 浄土宗〈鎮西義〉に吸収 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
著作
関連項目
- 知恩院 - 総本山
- 金戒光明寺 - 大本山
- 知恩寺 - 大本山
- 清浄華院 - 大本山
- 法然上人二十五霊場 (知恩院以下、上掲の寺院をふくむ)
- 法然寺 - 各地にある
- 増上寺 - 大本山で将軍家墓所
- 『無量寿経優婆提舎願生偈註』(『往生論註』・『浄土論集』) - 曇鸞撰
- 平重衡 戒を授けている
- 熊谷直実 門徒となる
脚注
注釈
- ^ 絹本著色、14世紀(南北朝時代)の作、知恩院蔵。法然から受けた『往生要集』の講義に感動した後白河法皇が、似絵の名手・藤原隆信に法然の姿を描かせ、蓮華王院の宝物に納めた、と伝記の多くに引用される説話があり、本作品はこの説話を元に描かれた。頭頂部が丸く描かれており、これは平たく描かれるいわゆる「法然頭」より先行した図様を示す。しかしその慎重な運筆から、原本ではなく転写本だと推測される(東京国立博物館ほか編集 『特別展「法然と親鸞 ゆかりの名宝」』展図録、2011年、31,289頁)。
- ^
- ^
- ^ 浄土真宗では、法然を「元祖」と称し、宗祖とされる親鸞を「宗祖」(「開祖」・開山)と称す。
- ^ 異説には久安3年(1147年)
- ^ 承元の法難とそれに伴う法然の流罪はあくまでも、遵西・住蓮の事件に対する師匠としての責任を問われただけで、念仏禁止に関する議論はあったものの断には至らなかったとする見解もある。詳細は承元の法難の項目を参照のこと。
- ^ 承元の法難の原因となったこの事件からも、法然の教団が女人救済に熱心に努めていたことがうかがえる。松尾(1995)p.31。一方、遵西・住蓮がこの時行った六時礼讃と呼ばれる方法は、法然が世間を誘惑するものであるとして批判し、『七箇条制誡』でも禁止を表明しており、法然本来の教えを無視して独自に動く門弟が現れていたとみる考えもある。森(2013)p.279-281・290-293
- ^ 専修念仏の教えは浄土門のなかに多念義と一念義の論議を生んだ。法然自身は一念義の立場を認めながらも自身は多念であったが、親鸞は一念義の立場に立った。石井(1974)pp.429-430。ただし、一念すればそれで充分であるという意味での一念義に対しては一貫して否定する見解を取り続けた。森(2013)pp.215-238・291-293。
参照
参考文献
- 石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中央公論社〈中公文庫〉、1979年1月。
- 家永三郎『日本文化史(第二版)』岩波書店〈岩波新書〉、1982年3月。ISBN 4-00-420187-X
- 松尾剛次『鎌倉新仏教の誕生』講談社〈講談社現代新書〉、1995年10月。ISBN 4-06-149273-X
- 網野善彦『日本社会の歴史 (中)』岩波書店〈岩波新書〉、1997年7月。ISBN 4-00-430501-2
- 森新之介『摂関院政期思想史研究』思文閣出版、2013年1月。ISBN 978-4-7842-1665-9 第四章~第六章
伝記と関連文献
伝記
- 法然(田村圓澄、人物叢書:吉川弘文館)
- 法然とその時代(田村圓澄、法蔵選書:法蔵館)
- 念仏の聖者 法然 -日本の名僧7-(中井真孝編、吉川弘文館)
- 絵伝にみる法然上人の生涯(中井真孝、法蔵館、2011年4月)
- 法然(大橋俊雄、講談社学術文庫)
- 法然の世紀 源平争乱の世に万民救済を説く(伊藤唯真、浄土選書:浄土宗)
- 法然上人の言葉-「法然上人絵伝」より-(伊藤唯真/ 写真・溝縁ひろし、淡交社、2010年)
- 『法然 宗祖法然上人800年大遠忌記念』(平凡社〈別冊太陽 日本のこころ〉、2011年)
- 法然賛歌-生きるための念仏(寺内大吉、中公新書)-※以上は浄土宗関係者による書目
- 法然と親鸞の信仰(倉田百三、講談社学術文庫 全2巻)
- 法然行伝(中里介山、ちくま文庫、2011年)
- 法然を読む -「選択本願念仏集」講義-(阿満利麿、角川叢書→角川ソフィア文庫、2011年9月)
- 『梅原猛著作集.第10巻 法然の哀しみ』 (小学館)
- 法然・愚に還る喜び(町田宗鳳、NHKブックス:日本放送出版協会、2010年)
- 法然と親鸞 (山折哲雄、中央公論新社、2011年3月)
関連文献
- 『法然全集』(全3巻、大橋俊雄訳注、春秋社、新装版2010年)
- 『日本思想大系 10 法然 一遍』(大橋俊雄校注、新版 原典日本仏教の思想 5、岩波書店)
- 『傍訳 選択本願念仏集』(上下巻、高橋弘次監修、本庄良文、善裕昭訳著 四季社)、※他の訳注はリンク先参照
- 『浄土宗聖典』(浄土宗出版部)、※「第三・四巻」に著作原文、書き下し文、解題
- 『昭和新纂国訳大蔵経 宗典部 第3巻 浄土宗聖典』 復刻大法輪閣。
- 『法然辞典』(藤井正雄、金子寛哉、鷲尾定信、武田道生編、東京堂出版)
- 『淨土宗大辞典』(全4巻:浄土宗大辞典刊行会発行、山喜房仏書林)
- 『浄土教の事典』(峰島旭雄監修、東京堂出版、2011年3月)
- 浄土三部経(上下巻、中村元、早島鏡正、紀野一義訳注、岩波文庫+ワイド版)
- 浄土三部経(森三樹三郎、山口益、桜部建訳注、新版 中公文庫)