池辺陽
池辺陽 | |
---|---|
生誕 |
1920年(大正9年)4月8日 日本統治下朝鮮 釜山 |
死没 |
1979年2月10日(58歳没) 日本 東京都新宿区 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京帝国大学 |
職業 | 建築家 |
建築物 |
立体最小限住居No.3 東大宇宙空間観測所 |
池辺陽(いけべ きよし、1920年4月8日 - 1979年2月10日)は日本の建築家。長く東京大学教授として、工業化という方向から建築をとらえた作品を残した。
戦後すぐの日本における住宅問題に対し「立体最小限住宅(1950年)」と呼ばれる住宅を発表し、同じ50年代に発表された増沢洵の「最小限住宅」、清家清「森邸(1951年)」、広瀬鎌二「SHシリーズ」、と共に機能主義による都市住宅のプロトタイプを提案した。工学博士。東京都出身。
経歴等
1920年生まれ。父親は内務省の官僚。東京豊島師範小学校、東京高等学校を経て、1942年、東京帝国大学工学部建築学科卒業後、同大学大学院に進学する。
1943年、バンコック日本文化会館建築設計競技に参加し選外佳作。
1944年、坂倉建築研究所に入所し、組立建築部門技術部長に就任する。1946年、東京大学第二工学部講師に就任し、建築設計と計画論を担当。同年、戦災復興都市計画に参画、戦災復興院嘱託となり、山口県下関市と宇部市を担当する。また同年の戦災復興都市設計競技では渋谷を担当する。翌年、別府市の復興都市計画を立案。
1947年、新日本建築家集団NAU創立に参加。のち副委員長に就任。1948年には、新制作協会建築部(現スペースデザイン部)創立に参加。
1949年、東京大学助教授就任し、同年発足の生産技術研究所で建築生産学の研究を担当する。1950年、自身の設計活動の場として、財団法人建設工学研究会の理事となる。
1955年「モジュール研究会」を設立し、モジュールの研究を開始。JIS規格0001で建築規格の設定に参加し、1958年、工業標準審査会モジュール関係のJIS化に参画する。1958年、国際工学機械標準機構(現国際標準化機構ISO)建築部門のTC59会議に参加し、国際モジュールグループIMGのメンバーになる。1961年、規格化の研究で学位取得。1963年には、日本建築学会に設計方法委員会を組織する。
また助教授になってからは、生産技術研究所での宇宙研究のグループに参加し、施設研究を担当する。大学の施設がある秋田県道川、鹿児島県内の浦で設計作品を発表。1964年、東京大学宇宙航空研究所設立に伴い同所研究担当就任。
1962年 東京大学 工学博士。論文の題は「空間の寸法体系、GMモデュールの構成と適用」[1]。
1965年、教授就任。
作品
- 1950年 神戸博覧会建造物と会場計画
- 1950年 立体最小限住宅No.1
- 1951年 遠山茂樹邸(立体最小限住宅No.8)
- 1951年 国分寺教会
- 1952年 沼津防火帯
- 1954年 大館防火帯
- 1954年 酒井医院
- 1954年 大日本製糖境工場
- 1954年 ユニット組合食堂設備
- 1954年 量産化考慮した20坪小住宅(清家清らと)
- 1955年 沼津公会堂
- 1956年 下関市都市計画
- 1956年 東京大学道川ロケット実験場
- 1957年 秋田県立中央病院
- 1958年 石津謙介邸(立体最小限住宅No.38)
- 1959年 広島平和記念公園内千羽鶴の像制作に協力
- 1961年 PIX1
- 1962年 RD大昌園
- 1964年 東京大学鹿児島宇宙空間観測所
- 1965年 東京大学能代ロケット実験場
- 1965年 箱根万岳棲
- 1967年 SCISSUNIT
- 1967年 HOX75
- 1969年 実験住宅
- 1971年 実験住宅テトラエース
文献
脚注
- ^ 博士論文書誌データベース