永見柳二

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ながみ りゅうじ
永見 柳二
別名義 永見 隆二
没年月日 1951年
国籍 日本の旗 日本
職業 脚本家
ジャンル 現代劇コメディ映画
活動期間 1931年 - 1948年
主な作品

脚本
成瀬巳喜男監督『女優と詩人
伏水修監督『東京ラプソディ

山本嘉次郎・木村荘十二・大谷俊夫監督『日本女性読本
備考

略歴
松竹蒲田撮影所 / 永見隆二名義
ピー・シー・エル映画製作所 / 永見柳二名義
東宝映画東京撮影所
日活多摩川撮影所 / 永見隆二名義
大映

新東宝映画
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永見 柳二(ながみ りゅうじ、 - 1951年)は、日本の脚本家である。永見 隆二(同訓)とも名乗った。

人物・来歴

1931年(昭和6年)、オリジナル脚本を書いた映画『○○自慢』が東京の松竹蒲田撮影所で製作され、同年8月15日に公開されて、永見 隆二の脚本家デビューとなった[1]。翌1932年(昭和7年)8月26日には、オリジナル脚本を成瀬巳喜男が監督した『チョコレートガール』が公開されている[1]

1934年(昭和9年)には、永見が書いた原作が日活多摩川撮影所に採用され、これを倉田文人が脚色、監督した『紅い唇紅い頬』が同年8月15日に公開された[1]。同年、ピー・シー・エル映画製作所(P.C.L.)に入社、永見 柳二を名乗り、オリジナル脚本を木村荘十二が監督し、榎本健一が主演した『エノケンの魔術師』が同年10月25日に公開された[2]。1937年(昭和12年)、P.C.L.が東宝映画に統合され、同社の東京撮影所(現在の東宝スタジオ)で引き続き脚本を書いた[2]

1939年(昭和14年)、東宝映画から日活多摩川撮影所に移籍し、「永見隆二」名義に戻し、原作山岡荘八の小説の映画化、『純情の眸』を手がけ、同年5月18日に同作は公開された[1]。1942年(昭和17年)、日活多摩川は大映に統合されたが、引き続き大映で脚本を書いた[1]

1945年(昭和20年)8月15日、第二次世界大戦の終戦を迎え、永見は1947年(昭和22年)4月22日に公開された新東宝のエノケン映画『九十九人目の花嫁』の脚本で復帰した[1]。同作は、東和商事(現在の東宝東和)宣伝部長から東宝映画、新東宝のプロデューサーへと転進した筈見恒夫のプロデュース作である[1]。1948年(昭和23年)2月21日に公開された『大学の門』は、筈見と、筈見のもとで洋画のポスターを描いていた野口久光との共同プロデュース作である[1]。同作が永見の遺作となった。

1951年(昭和26年)、死去した。1954年(昭和29年)10月12日に公開されたエノケン映画『エノケンの天国と地獄』は、永見の原案を山下与志一が脚本にしたものであった[2]

フィルモグラフィ

松竹蒲田撮影所

永見隆二名義

ピー・シー・エル映画製作所

永見柳二名義

東宝映画東京撮影所

  • 『牛づれ超特急』(脚本)、共同脚本伊馬鵜平、監督大谷俊夫、撮影友成達雄、音楽谷口又士、主演藤原釜足、1937年11月3日
  • 『愛国六人娘』(脚本)、監督松井稔、音楽谷口又士、主演神田千鶴子東宝映画京都撮影所、1937年12月1日
  • 『花束の夢』(脚本)、共同脚本伊馬鵜平、監督松井稔、音楽谷口又士、主演佐伯秀男、1938年1月14日
  • 『街に出たお嬢さん』(原作)、脚本阪田英一、監督大谷俊夫、撮影唐沢弘光、音楽谷口又士、出演霧立のぼる、1938年7月31日
  • 『軍港の乙女達』(原作)、脚本江口又吉、監督伏水修、撮影三村明、音楽伊藤昇、主演堤真佐子、1938年12月7日
  • 『美はしき出発』(脚本)、共同脚本・監督山本薩夫、撮影宮島義勇、音楽服部正、主演原節子高峰秀子、1939年2月21日

日活多摩川撮影所

永見隆二名義

大映

新東宝映画

  1. ^ a b c d e f g h #外部リンク欄の日本映画データベース「永見隆二」の項のリンク先の記述を参照。二重リンクを省く。
  2. ^ a b c #外部リンク欄の日本映画データベース「永見柳二」の項のリンク先の記述を参照。二重リンクを省く。

外部リンク