水戸高等学校 (旧制)

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水戸高等学校
(水高)
創立 1920年
所在地 茨城県東茨城郡常磐村
(現・水戸市)
初代校長 渡辺又次郎
廃止 1950年
後身校 茨城大学
同窓会 旧制水戸高等学校
同窓会

旧制水戸高等学校(きゅうせいみとこうとうがっこう)は、1920年大正9年)4月に茨城県東茨城郡常磐村に設立された官立旧制高等学校である。略称は「水高」(すいこう)。

概要

  • 宇都宮との熾烈な誘致合戦があったが、茨城県水戸市による熱心な運動と同県出身の船成金内田信也の寄附した1,000,000円により全国13番目の官立高等学校として設立された。
  • 文科・理科よりなる修業年限3年の高等科が設置された。学生は4割が東京出身、3割前後が地元出身であった。また学生構成について、北関東の秀才と東京の半不良学生で占めていたと宇都宮徳馬秦郁彦の『旧制高校物語』で語っている。旧制高校中最も「蛮カラ」の雰囲気の強い学校として知られた。
  • 一高に次ぐ大型の寄宿舎「暁鐘寮」(ぎょうしょうりょう)が設置された。
  • 新制茨城大学文理学部の前身校の一つとなった。
  • 卒業生により「旧制水戸高等学校同窓会」が結成されている。

沿革

歴代校長

  • 安井章一:不詳 - 1945年10月15日[1]
  • 関泰祐:1945年10月15日[1] -

校地の変遷と継承

  • 設立当初の校地は水戸市郊外の東茨城郡常磐村に所在し(東原校地)、1933年3月同村は水戸市に編入された。水戸空襲による校舎焼失後、水高は1948年陸軍東部第37部隊跡地に移転、これが新制茨城大学水戸キャンパスとして継承され現在に至っている。
校地跡碑(敷地北端)
暁鐘楼(偕楽園内)
  • その後、旧東原校地の南半分は水戸市立第一中学校の校地となり、同校校内には水高を記念するモニュメントが建立されている。水戸市立第一中学校には、水戸高等学校関係の資料室が設置され、多くの資料が残されている。北半分には1965年、国立水戸病院(現在の国立病院機構水戸医療センター)が設置されたが、2004年同病院は茨城町に移転した。跡地は北水会病院(水高スクエア)になっている。
  • この他市内に残る水高関連のモニュメントとしては、偕楽園内に「暁鐘楼」等が設置され、千波湖南岸には「水高の森」が寄贈されている。また水戸市立博物館には水高同窓会が寄贈した「旧制水戸高等学校 暁鐘の青春」の常設展示コーナーが設けられている。

著名な出身者

政界

官界

財界

学術・文化

その他

脚注

  1. ^ a b 『官報』第5632号、昭和20年10月19日。

関連書籍

尾崎ムゲン作成「文部省管轄高等教育機関一覧」参照

関連項目

外部リンク