毛利隆元

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毛利 隆元
毛利隆元像(常栄寺蔵)
時代 戦国時代
生誕 大永3年[1]1523年
死没 永禄6年8月4日1563年8月22日[1]
別名 通称:少輔太郎[1]
戒名 常栄寺殿光禄大夫華渓栄公大禅定門[1]、常栄公[1]
墓所 大通院[2]広島県安芸高田市
官位 備中守[1]従四位下[1]大膳大夫[1]正三位[1]
幕府 室町幕府 相伴衆、周防長門安芸備後備中守護[1]
主君 大内義隆足利義輝
氏族 毛利氏
父母 父:毛利元就[1]、母:妙玖吉川国経[1]
兄弟 女、隆元五龍局宍戸隆家室)[3]吉川元春[3]小早川隆景[4]、女(上原元将室)[4]二宮就辰穂井田元清[5]元秋[5]出羽元倶[5]天野元政[6]末次元康[6]秀包[1]
正室:尾崎局大内義隆養女、内藤興盛[2]
輝元[2]徳鶴丸[2]津和野局吉見広頼[2]
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毛利 隆元(もうり たかもと)は、戦国時代武将安芸守護大名戦国大名毛利氏の第13代当主

概要[編集]

本姓大江氏家系大江広元の四男の毛利季光を祖とする国人領主毛利氏周防長門・安芸・備後備中守護職として、毛利氏による中国地方支配を盤石なものとした。官位従四位下大膳大夫正三位

毛利元就嫡男で毛利氏の第13代当主。吉川元春小早川隆景の同母兄。正室大内義隆の養女(長門守護代内藤興盛の娘)である尾崎局で、義隆からは「隆」の字の偏諱を受けた。尾崎局との間に生まれた子に毛利輝元毛利徳鶴丸津和野局吉見広頼室)がいる[7]

父の元就の隠居表明後に家督を継ぐが、その後も実権を握っていた父に8年先立って死去。隆元自らが毛利家当主として実権を握ることはなかったが、優れた内政手腕(後述)によって父の勢力拡大を支え続けた。

生涯[編集]

誕生、人質時代[編集]

大永3年(1523年[1]毛利元就の嫡男として、安芸多治比猿掛城で生まれた。

天文6年(1537年12月1日、当時元就が従属していた周防の戦国大名の大内氏のもとに人質として送られる。同年中に主君・大内義隆烏帽子親として元服し、義隆から一字を賜り「隆元」と名乗ることが許され、大内氏に仕える武将の一人に加えられた。嫡男を人質としたことで、毛利氏は大内氏から絶大な信頼を置かれることになる。当時の隆元の優雅な暮らしぶりは『毛利隆元公山口逗留日記』にも書かれている。

また、山口滞在中の隆元は大内氏の重臣・内藤興盛(長門守護代、のちに隆元の岳父となる)や江良房栄、人質仲間の天野隆綱興定の子)などとも親交を結んだ。特に、同年代であった陶隆房(後の陶晴賢)や弘中隆包(隆兼)らとの親交は深かった。

天文9年(1540年)、大内義隆から吉田郡山城に戻ることが許された。

天文11年(1542年)から翌年にかけて、隆元は元就と共に月山富田城攻めに従軍した。その際に元就と連名で家臣の感状を発給しており[8]、その後の撤退戦の修羅場も経験している。

家督相続、厳島の戦い[編集]

天文15年(1546年)、元就の突然の隠居表明により、家督を相続して、毛利氏の第13代当主となる[注釈 1]。だが、元就は隠居後も毛利家の実権を掌握しており、隆元は依然として元就麾下の一武将の扱いであった。これは、毛利家を覆う事情が依然として険しかったという理由もあるが、自分の器量に自信が持てない隆元が、実権の移譲を辞退[注釈 2]したためともされる。

家督相続前後から、元就の要請により老臣の志道広良が隆元の訓育にあたるようになった[11]

天文18年(1549年)、大内義隆の養女で大内氏の重臣の内藤興盛の結婚する。後にこの女性は隆元が生活していた屋敷(尾崎丸)の名前から尾崎局と呼ばれ、幸鶴丸(後の輝元)を含む二男一女に恵まれる。

天文19年(1550年)、父の元就の主導の下、専横甚だしい井上党が粛清を受け、井上元兼ら重臣一派が殺害された。その後、新しい毛利家の行政官僚組織として、隆元直属の五奉行制度が発足した。隆元側近の赤川元保を筆頭奉行とし、国司元相粟屋元親、元就の側近であった児玉就忠桂元忠も参画した。この組織の創設に隆元は大いに貢献したとされるが、主導権を握っていたのはやはり元就であった。また、この五奉行制度自体も、当初は親隆元派の官吏達と親元就派の武将達との対立によって運営が上手くいかず、元就も隆元も頭を悩ませた。しかし、隆元がこの時期に著した訓戒状の条文の多くは、後の毛利家の御家訓に収録され(後述)宗家運営の模範とされるのである。

天文20年(1551年)、大内義隆が重臣の陶隆房(陶晴賢)により自害に追い込まれると、いずれ陶氏は毛利にも攻めてくると判断して陶氏打倒を主張した。しかし、元就は戦力的劣勢を理由に慎重な姿勢を崩さなかった。そこで隆元は重臣たちを動かして元就に翻意を促すべく、家中に陶氏の横暴無慈悲ぶりを喧伝けんでんして回った。その甲斐あってか、間もなく元就もまた陶との対決を決めることとなる。

弘治元年(1555年)、父と共に旧友の陶晴賢を厳島の戦いで滅ぼした。隆元は元就と共に本陣を率いて厳島に渡海した[注釈 3]

守護就任[編集]

弘治3年(1557年)に防長経略を行い、大内義長を滅ぼした。しかし旧大内領をめぐって豊後国大友宗麟が西から、出雲国尼子晴久が北から侵攻してきたため、元就は北の尼子氏に、隆元は西の大友氏に対応することになった。毛利氏にとっては非常に危機的な時期ではあったが、隆元は弟の隆景の支援を受けつつ大友氏を撃退することに成功した。

永禄2年(1559年)、隆元は元就との連署で正親町天皇の即位料を朝廷に献納した。毛利氏の献金は総額二千五十九貫四百文に及んだ。

永禄3年(1560年)、室町幕府の第13代将軍・足利義輝より、安芸の守護に任じられた[1]。また、正親町天皇の即位料を献上した功績により、朝廷から大膳大夫に任じられた。この口宣案には義輝の袖花押が添えられていた[13]

永禄5年(1562年)、隆元は幕府から備中・備後・長門の守護職に、永禄6年(1563年)には周防の守護職に任じられる[1][注釈 4]。これにより毛利氏は、正式に中国地方の大名としての立場を認められたこととなり、国人領主連合という従来の支配体制も急速に大名家のそれへと変貌していった。

永禄3年(1560年)に尼子晴久が急死して尼子氏の勢力が衰退し始めると、九州戦線を受け持っていた隆元は幕府の仲介を利用して大友宗麟と和議を結び、尼子討伐に全力を傾けるようになる。

最期[編集]

永禄6年(1563年)7月10日、隆元は多治比猿掛城に帰還した。また、隆元は嫡男の幸鶴丸(後の輝元)を吉田郡山城から呼び寄よせ、対面した。だが、これが父子の最後の対面となった。

7月12日、隆元は多治比猿掛城を出発し、安芸の佐々部に到着した。式敷の蓮華寺に留まり、ここで尼子攻めに参加するための準備を行った。

8月3日晩、隆元は毛利氏傘下の備後国人である和智誠春の宿所に招かれ、饗応を受けた[1][14]。だが、宿に戻った後に急病となり、翌8月4日朝に急死した[1][14]。享年41[1][14]

死因は食傷とも、毒殺ともいわれる[14]。隆元にこの時近侍した赤川元保が永禄10年(1567年)3月に、和智誠春が永禄12年(1569年)1月に元就の意向によって誅殺されている[14]。元就は、隆元の死因に釈然としないものがあったのではないかと指摘されている[14]

毛利氏の家督は隆元の嫡男の幸鶴丸が継いだが、若年のために元就が実質的な当主として主導権をなおも握ることとなった。

経歴[編集]

※ 日付=旧暦(1872年明治5年)12月2日まで適用)

人物・逸話[編集]

現存している文書によると、隆元は温厚で篤実な性格の持ち主で、絵画や仏典書写などを愛する教養豊かな人物であったとされている。その一方で、父の元就のように超然とした態度が取れない自分を卑下したり、有能な達に対して劣等感を抱き、苦悩していた形跡が数多く見つかっている。

  • 隆元は教養豊かで穏和な仁将として名高かったが、その反面、武将としての気概や機転に欠ける部分があり、文芸遊興に費やす時間が長かった[注釈 5]ことから、それを心配した元就や広良から再三にわたって訓戒されることとなった。また、元就からは書状で、「能や芸や慰め、何もかも要らず。ただ武略、計略、調略が肝要に候。謀多きは勝ち、少なきは負け候と申す」(『毛利家文書』、第413号「毛利元就自筆書状」[17])と度々叱責されている。
  • 元就の隠居表明には狼狽し、「父が隠居するなら、自分も幸鶴丸(輝元)に家督を譲って隠居する」(『毛利家文書』、第660号「弘治3年8月15日 毛利隆元自筆書状」[18])と自棄的に嘆いたことがある。また平素から書状の中などで「自分は生来、無才覚無器量である」(『毛利家文書』、第761号「天文23年3月12日 毛利隆元自筆書状」[19][注釈 6])と自嘲的に記している場面が多いなど、極めて自己卑下の強い人物であったことが窺える。元就は書簡の中で隆元を「優柔不断で武将としての資質に欠けている」(『毛利家文書』、第413号「毛利元就自筆書状」[17])と評しており、隆元への実権移譲が行われなかった理由は、彼自身の性格面の問題故とされる。元就の手紙の中ではその他の点として、正直すぎることや、親孝行や信心には優れるが、武略・計略・調略などの面ではさらに努力が必要である旨が指摘されている[20]
  • 偉大過ぎる父の元就の存在は、隆元の人格形成に最も大きな影響をもたらした。隆元もそれを自覚していた節があり、書状の中で「名将の下には不遇な子が生まれる」(『毛利家文書』、第762号「毛利隆元自筆書状」[21])と自嘲気味に記している。また同時に、父の偉業を自分が失墜させてしまうことを病的なまでに恐れており[19]、隆元が厳島神社に寄せた願文には「ただただ父上の武運長久、無病息災を願う。そのためには自分の身命をも捧げてもよい」と記されている。
  • 元就自筆の志道広良宛て書状の中に、「隆元の孝心は有難いが、ああも正直すぎては今の世を生き抜いていけない。どうか爺〔広良〕の方から隆元に助言をしてやってくれないか」という意味合いのものがある(『毛利家文書』、第413号「毛利元就自筆書状」[11])。
  • 内政・財務能力に長けていたと言われる(彼の死後、毛利家の収入が2,000貫≒4,000石ほど減少した[注釈 7])。また政治面でも、元就直属の重臣たちと隆元直属の官吏たちとの間で意見対立が生じたことなどから、自分独自の派閥を組織できるだけの能力を持っていた[注釈 8]。隆元の死後、彼がいかに縁の下の力持ちとして毛利家のために尽力していたかを知った元春と隆景は敬服し、自家を優先しがちだった彼らも隆元死後はより一層毛利家のために尽くすようになった[注釈 9]
  • 三本の矢の逸話の影響もあって、現在では良好だったと伝わる三兄弟(隆元・元春・隆景)の仲だが、実際は所領分割や三家それぞれの運営、さらには三兄弟の性格の相違など、様々な問題を抱えており、決して良好ではなかった。事実、隆元は父の元就に向けて「近頃、元春と隆景の両弟は吉田郡山に来ても長期滞在せず、それぞれの家のことばかりに固執し、相談事があっても私ではなく父上を相手にする。これは二人が私を見下して除け者にしているようで、非常に腹が立つ」といった意味合いの書状[19]を送っている。この書状によって、元就は三兄弟の不仲ぶりを痛感し、『三子教訓状』の発行と毛利両川体制の構築を思い立ったとされる。
  • 隆元は正室の尾崎局を深く愛したとされ、生涯側室を持たなかった。戦場からにあてて、「たいした事は起きていないが、この手紙を預ける男が吉田に戻るというので手紙を書いた」という律儀な一文から始まる手紙が残っている。また婚姻に際し、尾崎局の父・内藤興盛から、船岡山合戦以来着用してきた嘉例の重宝「縹糸胸紅白威胴丸」(毛利博物館蔵)を贈られており[24]娘婿である隆元に対する興盛の期待のほどが窺える[25]
  • 大内義隆陶晴賢(隆房)に討たれた大寧寺の変を受けて、義隆を討った晴賢を「虎狼之心」と罵り、「いずれ陶軍は必ず毛利にも攻めてくる。受身になるより力のある時に戦うべきである(賢ヨリ仕カケラレ候テ、請太刀ニテ取相候ハンヨリ、只今此方力ノ候時破リ度候)[注釈 10]」と語り、陶との交戦を強く主張した。
  • 防長経略後は自らが大内氏の栄光を受け継ごうともしていたようで、大内氏旧領を統治するだけでなく、同家が勘合貿易で用いていた勘合札(割符)を山口で入手し、大陸との交易を再開させるために、隆元が主導で商業取引を進めていたことが明らかになっている[26][注釈 11][注釈 12]
  • 実戦指揮官としての功績で有名なものは豊前松山城近郊における豊後大友氏との交戦がある。この時、父の元就・弟の元春らは尼子氏と交戦中であり、この方面は内政・軍事両面とも隆元が担当していた。松山城の戦いで大友軍が隆元指揮の毛利軍に撃退されたことにより、戦線は膠着、後の毛利・大友間の講和に繋がる。他に有名なものとして、防長経略の際の須々万沼城攻略戦がある。この時は元就から城攻めを任されるが、大内軍に多大な損害を出して敗退した。須々万沼城は弟・隆景も攻略に失敗した堅城であり、最終的に元就が自ら兵を指揮して攻略した。また、他には天文21年(1552年)に安芸国西条の槌山城を攻め落としている。
  • 年不詳ではあるが、天文17年(1548年)から永禄2年(1559年)の間に秋月種実と兄弟の契約を結んでいる(『毛利家文書』、第310号「年不詳6月8日付毛利隆元自筆書状案」[27])。
  • 隆元の死因は饗応の膳に出された鮎の食中毒で、それに夏の疲労が重なったのが原因と理解されて片がついたが、これを隆元の側近・赤川元保と、隆元を招待した和智誠春の共同謀議による毒殺と疑えぬこともない。疑いのもとは、隆元が当日、誠春の陣所へ赴くと、陣所の後方の山中で急に百数十人もの笑い声が一斉に起こったことだ。不審に思ってそのわけを聞くと、「あなたの興趣に添えるため家中の者に鹿狩りを申し付けたが、すぐ間近な鹿を射損じたので、一同が笑ったのでございます」と答えた。疑心暗鬼というか、たったそれだけのことでも元就には大きな謎が秘められているように思えた。元就はこれを饗応の席に随行した赤川元保が誠春と示し合わせて、仕組んだ陰謀だと判断した。だから、元就は、永禄9年(1566年)に尼子氏を滅亡させて、翌永禄10年(1567年)2月に吉田へ凱旋した後、この赤川元保を自刃を命じ、元保の弟と養子も殺害している。しかし、後になって元保が極力、誠春の招宴を辞退するよう隆元に諫言していたことが判り、元保は無実であることが判明した。次に、元就は永禄11年(1568年)、和智誠春を伊予経略に従軍させた後、そのまま身柄を安芸厳島に拘束して、翌年の正月24日に弟の湯谷新三郎とともに誅殺した。すると、誠春兄弟はその後、怨霊となって人々を悩ませたから、島民はこれを鎮めるため、社壇を建立して神に祀ったという。元就も安芸吉田の清神社に小祠を建てて、兄弟の霊を祀った。それでも、誠春兄弟への疑惑が晴れたわけではない。真相は闇の中である[28]

偏諱を与えた人物[編集]

墓所[編集]

墓所は、広島県安芸高田市吉田町吉田の大通院跡[2]山口市宮野下の常栄寺安芸高田市高宮町佐々部の式敷地区にも、火葬場の跡に毛利隆元の墓という、二段の墓壇からなる石碑が建てられている[29]

毛利隆元が登場する作品[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 毛利家の系図では大江氏の遠祖とされる天穂日命を初代当主として数えている[9]
  2. ^ 隆元は元就に対し「父上が後見して下さるならば、自分でも何とか毛利の領国を保てましょう。また弟(元春と隆景)達の助力も得たい」と述べ、元就の翻意を促した(『毛利家文書』第656号・第657号・第658号「弘治3年?毛利隆元自筆覚書」[10])。
  3. ^ 当初、元就からは従軍・渡海を拒絶されたが、隆元は「自分一人生き残ったところで、御家の弓矢が成り立ちましょうか」と嘆願して同行を許可されたという逸話がある[12]
  4. ^ この際、隆元は義輝から錦の直垂を下賜されたが、隆元は遠慮して元就に譲った。
  5. ^ 隆元は特に絵画をこよなく愛して雪舟風を良くし、紙本墨画毛利隆元自画像、紙本淡彩白鷺図、紙本淡彩枇杷に鷹図、紙本墨画柳に燕図(いずれも毛利博物館蔵)など、隆元自筆とされる作品が遺されている。
  6. ^ この中に収録されている長文『毛利隆元謹述胸念』より。隆元が生前深く帰依していた禅僧竺雲恵心へ送った文書で、隆元が自らの悲痛な心境を吐露した、遺書めいた内容となっている。
  7. ^ 隆元の後を継いだ輝元が、奉行の桂元忠に対して「玖珂・熊毛・河内・岩国段銭さらへ之儀、涯分内儀究申付候、存外をまきれ候事多御座候、常栄遠行之後より、二三千貫余毎年不調申候、これにて惣之つこう可被成御推量候、不及沙汰儀共候(常栄=隆元の卒去後から、周防四郡の段銭2 ~ 3千貫が徴収できていない)」(『毛利家文書』、第767号「元亀元年 毛利輝元自筆書状」[22])と書き送っている。
  8. ^ 隆元は元就の直臣である桂元忠・児玉就忠に「父の代からの老臣達〔口羽通良福原貞俊など〕は、それぞれの家のことばかりを考慮している」と激しく不満をぶつけている。また「古参の臣達には器量が無く、新たに拡がった領国〔大内氏の旧領〕は任せられない」(『毛利家文書』、第420号「弘治4年8月毛利元就書状写」[23])と、かなり辛辣に述べる場面も散見される。
  9. ^ 永禄7年(1564年)4月11日付けの書状において、隆景は『尊書致拝見候、常栄御書置之敷通被差上候、誠不及是非次第候、加程迄被存當候哉、忽別寄特之儀共数多面に相見え候、不及沙汰迄候〔兄の隆元の書置きを幾つか拝見しましたが、これほどまでに思い詰めて深く考えておられたとは気づきませんでした。書状の文面から、兄の生前の思いは痛いほど伝わりました。今更思い浮かべる言葉もありません〕』(『毛利家文書』、第763号「年未詳4月11日 小早川隆景書状」[21])とある。
  10. ^ 天文23年12月24日付けの書状(桂元澄宛)においても、隆元は「晴賢の要請に従って父の元就が下向すれば、晴賢は父を拘束するかもしれない。そうなったら毛利家の滅亡である」という考えを述べている。
  11. ^ 吉見正頼は山口へ討ち入った際、「義長判形」と呼ばれる木印を確保しており、これは毛利博物館に現存している。
  12. ^ 永禄5(1562年)7月27日付けの都賀陣所発給文書において、隆元は石見において義隆の名が入った象牙製判子を入手したことを書き記している。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 時山弥八編 1916, p. 81.
  2. ^ a b c d e f 時山弥八編 1916, p. 82.
  3. ^ a b 時山弥八編 1916, p. 77.
  4. ^ a b 時山弥八編 1916, p. 78.
  5. ^ a b c 時山弥八編 1916, p. 79.
  6. ^ a b 時山弥八編 1916, p. 80.
  7. ^ 光成準治 2016, p. 11.
  8. ^ 『毛利家文書283号』
  9. ^ サントリー美術館 2012, p. 162.
  10. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所編 1922, pp. 381–387.
  11. ^ a b 東京帝国大学文学部史料編纂所編 1922, p. 114.
  12. ^ 国重政恒江戸時代前期藩士。生没年:寛永15年(1638年) - 宝永8年/正徳元年(1711年))の著作『温故私記』[要文献特定詳細情報]より。
  13. ^ 岸田裕之 2014, p. 239.
  14. ^ a b c d e f 河合 1984, p. 208.
  15. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所編 1920, p. 333, 第313号「永禄3年2月21日付足利義輝御判御教書」.
  16. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所編 1920, p. 333, 第314号「永禄3年比定12月8日付足利義輝御内書」.
  17. ^ a b 東京帝国大学文学部史料編纂所編 1922, pp. 116–117.
  18. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所編 1922, p. 388.
  19. ^ a b c 東京帝国大学文学部史料編纂所編 1922, pp. 518–520.
  20. ^ 目で見る 毛利家あれこれ 〜毛利博物館収蔵資料と歴史ばなし〜 第421回(毛利博物館館長代理 柴原直樹) - 地域情報新聞ほっぷ(2018年(平成30年)11月23日号)
  21. ^ a b 東京帝国大学文学部史料編纂所編 1922, p. 521.
  22. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所編 1922, pp. 524–527.
  23. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所編 1922, pp. 127–131.
  24. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所編 1920, p. 327, 第306号「天文18年11月19日内藤興盛書状」.
  25. ^ 柴原直樹 「コラム2 毛利隆元・内藤興盛と縹糸胸紅白威胴丸」安芸高田市(2014)p23[要文献特定詳細情報]
  26. ^ 吉見正頼覚書[要文献特定詳細情報]より。
  27. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所編 1920, p. 329.
  28. ^ 毛利元就99の謎 222~225頁
  29. ^ 毛利隆元逝去の地 安芸高田市観光協会「安芸高田市観光ナビ」 (日本語)
  30. ^ 大河ドラマ 毛利元就 完全版 第壱集 DVD-BOX - NHKスクエア(NHKエンタープライズ
  31. ^ 出演作品 - 上川隆也公式サイト

参考文献[編集]

書籍[編集]

  • 安芸高田市歴史民俗博物館編集・発行 『平成二十五年度特別展 毛利隆元―名称の子の生涯と死をめぐって―』 2013年10月。
  • 金谷俊則 『毛利隆元』 中央公論事業出版、2008年1月、ISBN 4-89514-301-5
  • 河合正治『安芸 毛利一族』(新人物往来社、1984年)
  • 河合正治編 『毛利元就のすべて』 新人物往来社、1996年11月、ISBN 4-404-02435-5
  • 岸田裕之『毛利元就 武威天下無双、下民憐愍の文徳は未だ』〈ミネルヴァ日本評伝選〉2014年11月。 
  • サントリー美術館 著、石田, 佳也、上野, 友愛、佐々木, 康 編『毛利家の至宝 : 大名文化の精粋 : 国宝・雪舟筆「山水長巻」特別公開』サントリー美術館、2012年4月。 NCID BB0901855X全国書誌番号:22081009 
  • 舘鼻誠『戦国争乱を生きる : 大名・村、そして女たち』日本放送出版協会〈NHKライブラリー, 209〉、2006年12月。ISBN 4140842091NCID BA79725929OCLC 675126696全国書誌番号:21155354 
  • オープンアクセス時山弥八編『国立国会図書館デジタルコレクション 稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/969141/49 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 光成準治『毛利輝元 西国の儀任せ置かるの由候』〈ミネルヴァ日本評伝選〉2016年5月。ISBN 462307689X 
  • 森本 繁 『毛利元就99の謎』 (PHP文庫、1996年)

参考史料[編集]


先代
毛利元就
安芸毛利氏当主
第13代:1557年 - 1563年
次代
毛利輝元