橋立丸

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船歴
建造所 川崎重工業神戸造船所
起工 1944年5月10日
進水 1944年9月17日
竣工 1944年10月31日
その後 1946年に捕鯨母船へ改装
1960年4月20日解体
主要目
総トン数 10,021トン(新造時)[1]
10,799トン(1946年改装後)[2][注 1]
純トン数
載貨重量
排水量 16,726トン(新造時)[1]
全長 160.5m(新造時)[4]
垂線間長 153.0m(新造時)[1]
型幅 26.0m(新造時)[1]
登録深 11.5m(新造時)[1]
機関 蒸気タービン1基1軸(新造時)[1]
出力 8,600馬力(新造時)[1]
速力 18.5ノット(新造時)[1]
乗員
同型船 戦中竣工:南邦丸、旭邦丸、日邦丸、東亜丸、旭栄丸、良栄丸、あまつ丸、あづさ丸、たかね丸、一心丸、八紘丸、第二八紘丸、みりい丸、興川丸、清洋丸、二洋丸、大峰山丸
戦後竣工:多度津丸、大橘丸、大邱丸(隆邦丸)
特1TL型しまね丸、大瀧山丸

橋立丸(はしだてまる)は、日本海洋漁業統制株式会社(日本水産)が太平洋戦争中の1944年に建造した戦時標準船仕様のタンカーで、戦後に捕鯨母船へ改装された。南極海での捕鯨や石油輸入に従事し、日本の戦後復興に貢献した。

太平洋戦争

本船は、太平洋戦争における日本の第1次戦時標準船のうち大型タンカー規格である1TL型戦時標準船の18番船として、川崎重工業神戸造船所で建造された。1944年(昭和19年)5月10日に起工、173日間で竣工に至っている。1TL型戦時標準船のうち戦時中に竣工したものとしては最終にあたる[5]。船名は天橋立に由来し、船主の日本水産(戦時中は日本海洋漁業統制株式会社)が所有する石油タンカー「厳島丸」(戦前建造の川崎型油槽船)および「松島丸」(2TL型戦標船)と合わせて日本三景にちなむ船名が揃っている[6]

1TL型戦標船は川崎型油槽船相当の補給艦などに転用可能な高性能タンカーで、主機関へ生産能力に比較的余裕がある蒸気タービンエンジンを採用し、船体のシアー英語版舷弧, 船首・船尾の反り上がり)を曲線ではなく直線で構成するなど若干の簡易化を施した設計となっている[7]。1TL型の後期建造船である本船は初期に起工された船とは細部に違いがあり、初期には単脚型だった2本のマストが補給艦としての運用に便利な門型に変更され、船尾構造物後端に自衛武装用の角型砲座が設置されるなどしている[6]。各種の自衛用火器のほか、魚雷撃退用の防雷網英語版展開ブームや、レーダー逆探知用の電波探知機なども装備された[6]

1944年11月14日、「橋立丸」は、最初の航海としてヒ81船団(輸送船10隻・護衛艦7隻)へ加入してシンガポールへ石油の積み取りに向かうことになった。船団は途中で輸送船2隻と護衛の空母「神鷹」が撃沈されたものの、「橋立丸」は12月4日にシンガポールへ無事に到着した[8]。「橋立丸」はさっそくガソリンを満載すると、同様にヒ81船団で到着したタンカー2隻および新規加入のタンカー2隻とともにヒ82船団(輸送船5隻・護衛艦4-5隻)を編成、12月12日に日本へと出航した。ヒ82船団はインドシナ半島沖でアメリカ潜水艦「フラッシャー」の猛攻を受け、同月22日に「音羽山丸」「ありた丸」「御室山丸」が撃沈された。逃げのびた「橋立丸」は積荷のガソリンを台湾の守備隊用に回すことになり、経由地の高雄でヒ82船団を離脱して荷を降ろした[9]

荷降ろしを終えた「橋立丸」は、再びシンガポールからの石油輸送任務を命じられた。1945年(昭和20年)1月8日に門司から高雄へ到着したヒ87船団に途中加入すると、10日に高雄を出て南下した。アメリカ海軍第38任務部隊が付近で行動中と判明したため、船団は香港へ退避したが、15日から16日にかけて猛烈な空襲にさらされた。船団は壊滅状態に陥り、「橋立丸」も損傷した[10]。ただし、日本水産の社史では香港ではなく高雄で至近弾により損傷としている[11]。「橋立丸」は護衛艦2隻を伴ってヒ87B船団として航海を続行するよう一旦は指示されたが[12]、ガス爆発による損傷が大きく修理のため日本へ回航することになった[13]

ホモ01船団(輸送船5隻・護衛艦3隻[注 2])へ加入した「橋立丸」は、1945年2月3日に香港を出港。2月11日に杭州湾北緯30度35分 東経122度00分 / 北緯30.583度 東経122.000度 / 30.583; 122.000の地点で機雷に接触して小破し、海防艦「粟国」の護衛で船団から離脱した[15]。その後しばらくの行動は不明であるが、3月16日に上海沖で「橋立丸」は貨客船「吉林丸」とモタ02船団またはモタ502船団を組み、駆逐艦「」と第二十一号掃海艇の護衛を受けて出航、3月19日に門司へ到着した[16][17]

内地に帰りついたものの、すでに戦況の悪化から南方航路は閉鎖されていたため、「橋立丸」は修理の価値がないと判断された[4][注 3]大阪港へ係留され、損傷状態のままで終戦の日を迎えた[20]

戦後

終戦後の食糧難の中、日本政府は、大洋漁業の働きかけを受けて、鯨肉生産による食糧確保と鯨油輸出による外貨獲得を目的とする南極海での捕鯨再開を計画した。日本水産は、巨額の投資を要する捕鯨再開に積極的ではなかったが、政府の強い要請と支援約束で出漁を決めた[21]連合国軍最高司令官総司令部の許可も下りた。日本水産は戦前に3隻の捕鯨母船を保有していたが、全て戦没していたため、新規に調達の必要があった。そこで、持ち船の「橋立丸」を捕鯨母船に改装することとなった[注 4]。工事は、戦前に「第三図南丸」など日本水産の捕鯨母船を建造した日立造船が受注し、因島工場で行われた[22][注 5]。1946年(昭和21年)10月15日に完工している[11]。船尾に鯨を引き上げるためのスリップウェイを設けるなど外観はほとんど原形をとどめない大改装であったが、工期を第1回の出漁に間に合わせるため鯨油生産設備はクワナーボイラー3基だけで忍び、解剖甲板上にタンカー時代の配管が露出したままなど各部に不具合が残っていた[24]

1946年(昭和21年)11月7日、橋立丸船団は、第1次南氷洋捕鯨(1946/47年漁期)へ向けて大阪港から出航した[11]。随伴船は、キャッチャーボート5隻と鯨肉を持ち帰るための塩蔵工船「多度津丸」(未成状態の1TL型戦標船を設計変更)、鯨油中積用のタンカー「さんぢゑご丸」(大洋漁業と共同運航)であった[20]南極海に到着した橋立丸船団は操業を開始したが、「橋立丸」の処理能力が小さいことから成績は低調で、捕獲頭数はシロナガスクジラ換算(BWU)391.5単位、生産物は鯨油3700トン・鯨肉10608トンにとどまった[21]。なお、大洋漁業の「第一日新丸」はクワナーボイラー内部に材料を破砕するための刃を備えるなど相対的に優れた処理能力を有したため[25]、橋立丸船団より149BWU・生産物6千トンも多い成果を挙げている[24]

翌年度以降も「橋立丸」は捕鯨母船として船団を率いて、第2次南氷洋捕鯨(1947/48年漁期)から第5次南氷洋捕鯨(1950/51年漁期)まで南極海へ出漁した。次第に陣容も強化され、例えば第3次南氷洋捕鯨での橋立丸船団は塩蔵工船「多度津丸」・冷凍工船「摂津丸」・中積タンカー「玉栄丸」・1000トン級冷凍船2隻・350トン級キャッチャーボート7隻の本船以下13隻で構成されていた[21]。漁獲成績は、第2次で383BWU、第3次で504BWU、第4次で632BWU、第5次で550BWU及びマッコウクジラと記録されている[21]。母船としての能力不足は否めず大洋漁業の第一日新丸船団に比べて成績は不良で、船団長がたびたび交代させられている[26]。この間、1950年9月3日には日立造船築港工場へ係留して整備中にジェーン台風の影響により座礁したが[27][28]、同年末の第5次南氷洋捕鯨までには復旧されている。また、オーストラリア政府から戦争賠償として本船と「第一日新丸」を譲渡するよう要求があったが、アメリカ合衆国の反対により実現を免れた[29]

捕鯨以外に、1948年(昭和23年)8月には日本のタンカーとして戦後初めて中東航路へ就航し、イラン産の石油を運んでいる[30][注 6]

「橋立丸」の捕鯨母船としての能力不足に悩んだ日本水産は、戦前の持ち船でチューク諸島に沈没している捕鯨母船「第三図南丸」の再就役を計画した[31]。1950年10月から4カ月半がかりで「第三図南丸」の海洋サルベージは成功し、「図南丸」と改称して第6次南氷洋捕鯨(1951/52年漁期)から「橋立丸」に替わって出漁することとなった[32]

1951年(昭和26年)5月8日、「橋立丸」は飯野海運へ売却された[33]。飯野海運では石油タンカーとして使用され、イランやバーレーンからの石油輸入に従事した。1957年(昭和32年)7月には、同じく飯野海運が所有していた1TL型戦標船「東亜丸」の後を追うように内外海運へ譲渡される。その後、廃船になって1960年(昭和35年)4月20日にスクラップとして解体された[23]

脚注

注釈

  1. ^ 柴(1986年)によれば10,896トン[3]。ただし、時期不明。
  2. ^ 海防艦「粟国」、第9号海防艦第18号海防艦。船団指揮官は第14運航指揮官の大野善隆大佐。第9号海防艦は2月14日に上海沖でアメリカ潜水艦「ガトー」により撃沈される[14]
  3. ^ ただし、大井篤は1945年3月上旬に本船が出動可能になっていたとする[18]。門司で準備されたが出航中止で解散となったヒ01船団(2代目)の加入船として本船を挙げる資料もある[19]
  4. ^ 大洋漁業も全母船が戦没しており、未完成状態だった3TL型戦標船「大攬丸」を取得して設計変更、捕鯨母船「第一日新丸」として竣工させている。
  5. ^ ただし、松井(1995年)によれば日立造船桜島工場で改装[23]
  6. ^ 捕鯨母船は鯨油や随伴船給油用の石油タンクを備えており、捕鯨の漁期以外はタンカーとして使用されることがある。

出典

  1. ^ a b c d e f g h 松井(1995年)、140-141頁。
  2. ^ 日本水産(1961年)、336頁。
  3. ^ 柴(1986年)、306頁。
  4. ^ a b 岩重(2011年)、126頁。
  5. ^ 松井(1995年)、142頁。
  6. ^ a b c 岩重(2011年)、53頁。
  7. ^ 岩重(2011年)、50-51頁。
  8. ^ 駒宮(1987)、292-293頁。
  9. ^ 駒宮(1987)、306-307頁。
  10. ^ 第一護衛艦隊司令部 『自昭和二十年一月一日 至昭和二十年一月三十一日 第一護衛艦隊戦時日誌』 アジア歴史資料センター(JACAR) Ref.C08030142000、画像50、52枚目。
  11. ^ a b c 日本水産(1961年)、418頁。
  12. ^ 駆逐艦 時雨 『駆逐艦時雨戦闘詳報―昭和二十年一月二十四日「グレートレダン」島沖対潜戦闘』 JACAR Ref.C08030148700、画像47-48枚目。
  13. ^ 駒宮(1987)、318-319頁。
  14. ^ Cressman, Robert J. The Official Chronology of the US Navy in World War II, Annapolis: MD, Naval Institute Press, 1999.
  15. ^ 第一護衛艦隊司令部 『自昭和二十年二月一日 至昭和二十年二月二十八日 第一護衛艦隊戦時日誌』 JACAR Ref.C08030142100、画像22、46、49枚目。
  16. ^ 第十一水雷戦隊司令部 『自昭和二十年三月一日 至昭和二十年三月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』 JACAR Ref.C08030127900、画像49枚目。
  17. ^ 第二十一号掃海艇 『自昭和二十年三月一日 至昭和二十年三月三十一日 第二十一号掃海艇戦時日誌』 JACAR Ref.C08030611700、画像27、28枚目。
  18. ^ 大井篤 『海上護衛戦』 学習研究社〈学研M文庫〉、2001年、380-381頁。
  19. ^ 岩重(2011年)、97頁。
  20. ^ a b 日本水産(1961年)、352頁。
  21. ^ a b c d 日本水産(2011年) 本編、201-203頁。
  22. ^ 日立造船株式会社 『八十周年を迎えて』 日立造船、1961年、50-51、68-69頁。
  23. ^ a b 松井(1995年)、148頁。
  24. ^ a b 柴(1986年)、317-318頁。
  25. ^ 柴(1986年)、319頁。
  26. ^ 柴(1986年)、320頁。
  27. ^ 日本水産(1961年)、421頁。
  28. ^ 大阪港の津波・高潮対策」『大阪市市政』 大阪市、2011年4月27日(2012年8月9日閲覧)
  29. ^ 柴(1986年)、292頁。
  30. ^ 日本水産(2011年) 本編、605頁。
  31. ^ 日本水産(2011年) 本編、210-211頁。
  32. ^ 日本水産(2011年) 本編、233頁。
  33. ^ 日本水産(2011年) 本編、603頁。

参考文献

  • 岩重多四郎『戦時輸送船ビジュアルガイド―日の丸船隊ギャラリー2』大日本絵画、2011年。ISBN 978-4-499-23041-4 
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年。ISBN 4-87970-047-9 
  • 柴達彦『捕鯨一代―聞書・砲手 泉井守一』青英社、1986年。ISBN 978-4882330189 
  • 日本水産株式会社(編)『日本水産50年史』日本水産、1961年。 
  • 同上(編)『日本水産百年史』同上、2011年。 
  • 日立造船株式会社『八十周年を迎えて』日立造船、1961年。 
  • 松井邦夫『日本・油槽船列伝』成山堂書店、1995年。ISBN 4-425-31271-6 

外部リンク