橋本関雪

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橋本 関雪
本名 橋本 貫一
誕生日 1883年11月10日
出生地 日本の旗 日本兵庫県神戸区
死没年 (1945-02-26) 1945年2月26日(61歳没)
墓地 月心寺滋賀県大津市
国籍 日本の旗 日本
芸術分野 絵画日本画
代表作 『琵琶行』(1910)
『猟』(1915)
『玄猿』(1933)
ウェブサイト www.facebook.com/HASHIMOTOKANSETSU
会員選出組織 帝室技芸員
帝国美術院
帝国芸術院
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橋本 関雪(はしもと かんせつ、1883年明治16年〉11月10日 - 1945年昭和20年〉2月26日)は、日本画家。本名は貫一中国古典文学風物を題材にした作品や、「新南画」と呼ばれる作風を確立した。建築造園にも造詣が深く、明石市東二見町の「蟹紅鱸白荘」(現白沙荘)を初め3棟の別荘を建てた[1]

生涯[編集]

『遅日』(1913年)

楠木氏一門の橋本八郎正員の後裔である[2]橋本海関フジ夫妻の子として神戸市に生まれた。父・海関は橋本文水播磨明石藩儒)・マサ夫妻の子で学問所詰儒者を務めていた。

父から漢学を学び1903年(明治36年)、竹内栖鳳の竹杖会(ちくじょうかい)に入り1913年大正2年)と1914年(大正3年)の文展で二等賞。1916年(大正5年)と1917年(大正6年)の文展で特選を受賞。帝展審査員を務め1934年(昭和9年)12月3日、帝室技芸員に選ばれる[3]

1929年(昭和4年)には帝国美術院改革に伴い会員に選出されるが、1936年(昭和11年)年に平生文相が示した美術院改革案に反対して横山大観らとともに会員を辞任する[4]。その後、1937年(昭和12年)に帝国美術院が改組して帝国芸術院が発足すると改めて芸術院会員となった。

1940年(昭和15年)、建仁寺襖絵を製作。

1939年(昭和14年)陸軍美術協会に参加[5]1943年(昭和18年)に描いた『十二月八日の黄浦江上』は、戦後、GHQ軍事主義的であるとして他の作家の戦争画とともに没収。1970年(昭和45年)、アメリカ合衆国から無期限貸与の形で返還され東京国立近代美術館に収蔵された[6]

1945年(昭和20年)2月26日、狭心症のため京都市左京区銀閣寺前の自宅にて死去。葬儀は臨済宗管長関精拙により執り行われた[7]。画号の由来となった逢坂の関のあった滋賀県大津市の別邸・走井居(月心寺)の墓地に眠る。

人物[編集]

明石別荘「蟹紅鱸白荘」(現・丸尾カルシウム「白沙荘」)

関雪の号は藤原兼家が雪降る逢坂の関を越える夢を見、その話を聞いた大江匡衡は「関は関白の関の字、雪は白の字。必ず関白に至り給ふべし」と夢占いをしたという。果たして翌年、兼家は関白の宣旨を蒙ったという故事より父である海関が名付けたもの。

中国古典に精通したことでも知られ、たびたび中国へ渡った[8]。京都銀閣寺畔の白沙村荘に住み、白沙村人と別号した。白沙村荘の庭園は現在一般公開されている。庭を営むことが多く大津に走井居、明石に蟹紅鱸白荘[1]、宝塚に冬花庵という別邸を造営した。また、古今東西の古美術の蒐集においてもよく知られる。

1921年の洋行中にカフェで声をかけてきたウワリ・エメリスなるドイツ人少女に惚れ、帰国時に日本に連れ帰り、新聞報道される騒ぎとなった[9]。関雪は、キスをされたことに感激し、会うたびに親のように物を買い与え、日本への同行を求め[10]、日本で関雪に囲われたウワリは間もなく記者会見で日本も日本の男も大嫌いと言い残して帰国した[11]

代表作品[編集]

『秋圃』(1939年)
『秋桜老猿』(1938年)

著作・画集[編集]

単著[編集]

  • 『関雪小稿』[出版者不明]、1906年7月。 NCID BB15186016全国書誌番号:41014679 
  • 『南船集』橋本貫一、1915年4月。 NCID BN11528542全国書誌番号:43042163 
  • 『南画への道程』中央美術社、1924年5月。 NCID BN15310561全国書誌番号:52012676 
  • 『関雪随筆』中央美術社、1925年10月。 NCID BN11948479全国書誌番号:43048880 
  • 『石濤』中央美術社、1926年7月。 NCID BN11428901全国書誌番号:43052685 
  • 『浦上玉堂』アルス〈アルス美術叢書 第18編〉、1926年11月。 NCID BA34654602全国書誌番号:43049852 
  • 斎藤悳太郎編 編『関雪詩存』(増補再版)斎藤悳太郎、1940年2月。 NCID BA43089644全国書誌番号:46048148 
  • 『支那山水随縁』文友堂書店、1940年6月。 NCID BN12060865全国書誌番号:46056732 全国書誌番号:60013059 
  • 橋本節哉編 編『白沙村人随筆』中央公論社、1957年3月。 NCID BN09655944全国書誌番号:57004529 

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画集[編集]

関雪の係累[編集]

1913年-1915年(大正2-4年)、関雪が離れで逗留し多数の作品を描いた西脇市旧来住家住宅。当家にて作品の頒布会なども行った。

関雪の子供は長男・節哉、次男・正弥[12]、長女・妙子、三男・申一、四男・舜吉、次女・かづ子の6人がいるが[13]、正妻・よねとの間に生まれた子供は長男の節哉のみであり[14]、他の子供は全て庶子である[14]

銀閣寺前の白沙村荘には節哉の系統が住む。節哉の妻・田鶴子は内務官僚・池松時和の次女[13][15]。現在は3代目・歸一(節哉・田鶴子夫妻の長男)の夫人・妙が邸宅の保存維持事業を行なっている。節哉・田鶴子夫妻の三女・千穂子は歴史学者末川清に嫁いでおり[16]、白沙村荘 橋本関雪記念館の副館長を務める橋本眞次は歸一・妙夫妻の次男である[17][18]。また元京都情報大学院大学客員教授の末川研は末川清・千穂子夫妻の長男であり[19]、従弟の眞次とともに関雪の曾孫にあたる。

谷崎潤一郎の小説・『瘋癲老人日記』の颯子のモデルとされる渡邊千萬子は妙子の子である[20]随筆家渡邊たをりは千萬子とその夫・渡邊清治(谷崎潤一郎の3番目の妻・松子とその最初の夫・根津清太郎の長男で、母方の叔母・重子とその夫・渡邊明の養嗣子となった)との間に生まれた娘[20]演劇制作者の高萩宏はたをりの夫である[20]

白沙村荘に遺されているビデオフィルムには、正弥が撮影したものが多く節哉や妙子なども頻繁に画面に登場する。

また、広島県尾道市出身で大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道)を経て、京都近鉄百貨店(旧・丸物、現・近鉄百貨店)で社長となった橋本達吉も姻戚関係にある[21]

参考文献・関連著書[編集]

脚注・出典[編集]

  1. ^ a b 白沙村荘橋本関雪記念館 明石市立文化博物館「橋本海関・関雪父子展”. 2020年6月1日閲覧。
  2. ^ 『姓氏』丹羽基二樋口清之秋田書店1970年)254頁
  3. ^ 『官報』第2378号、昭和9年12月4日。
  4. ^ 再改組に反対の大観ら十四人が辞任した『東京日日新聞』昭和11年6月13日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p414-415 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  5. ^ 戦争画の名作を目指して『東京朝日新聞』(昭和14年4月16日)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p787 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  6. ^ 橋本関雪 十二月八日の黄浦江上”. 東京国立現代美術館. 2022年9月2日閲覧。
  7. ^ 日本画壇の重鎮、死去(昭和20年2月27日 朝日新聞)『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p697
  8. ^ 戦前には上海に家を持っていて、それは魯迅公園の近くだったことが分かっている。渡辺千萬子『落花流水 谷崎潤一郎と祖父関雪の思い出』(2007年、岩波書店)p. 9 より
  9. ^ 『朝日新聞100年の記事にみる恋愛と結婚』朝日新聞社, 1979 p144
  10. ^ 南画の見方 : 南画研究 梅沢和軒 雄山閣 1924 p126
  11. ^ 『日本美術工芸, 第 544~555 号』日本美術工芸社, 1984、p43
  12. ^ 正躬とも。橋本関雪家系図
  13. ^ a b 『昭和人名辞典 第3巻 近畿・中国・四国・九州編』、京都 76頁。
  14. ^ a b 関雪の◯◯が - 白沙村荘公式ブログ内のページ
  15. ^ 池松時和という人物 - 白沙村荘公式ブログ内のページ
  16. ^ 『日本紳士録 第80版 2』、す 245頁。
  17. ^ 夏季展示「江戸硝子かんざしと関雪の草稿」 - 白沙村荘公式ブログ内のページ
  18. ^ 佛大通信Vol.556 特集 京都まちあるき 大地に描かれた壮大な理想郷、白沙村荘を訪ねて哲学の道へ。2 - 佛教大学通信教育課程公式サイト内のページ
  19. ^ <訃報> 末川 研 教授 - 京都情報大学院大学公式サイト内のページ
  20. ^ a b c 小谷野 『日本の有名一族』、102-104頁。
  21. ^ "この人(涙した「丸物マン」の気概)"1977年05月28日 京都新聞 朝刊 3面(京都新聞社

外部リンク[編集]