樺太の戦い (1945年)

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樺太の戦い (1945年)

日本の第88師団司令部が置かれた樺太庁博物館
戦争太平洋戦争
年月日:1945年8月11日-8月25日
場所南樺太
結果:日本軍の降伏
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
指導者・指揮官
大日本帝国峯木十一郎 ソビエト連邦レオンチー・チェレミソフ
ソビエト連邦ウラジーミル・アンドレエフ
戦力
約20,000 1個師団・4個旅団
損害
戦死 700-2,000
民間死者 3,500-3,700
不明
日本本土の戦い

樺太の戦い(からふとのたたかい)は、太平洋戦争/大東亜戦争末期の1945年昭和20年)8月11日から8月25日にかけ、日本内地であった樺太南部で、日本とソビエト連邦の間で行われた戦闘である。

1945年8月9日対日参戦したソ連は、8月11日に南樺太の占領作戦を開始した。その目的は南樺太の獲得と、次に予定された北海道侵攻の拠点確保だった。ソ連軍は北樺太から陸上侵攻する歩兵師団・歩兵旅団戦車旅団各1個が攻撃の中心で、補助攻勢として北太平洋艦隊と歩兵旅団1個による上陸作戦が実施された。日本軍は、歩兵師団1個を中心に応戦し、国境地帯ではソ連軍の拘束に成功した。

8月15日に日本のポツダム宣言受諾が布告されて、太平洋戦争は停戦に向かったが、樺太を含めてソ連軍の侵攻は止まらず、自衛戦闘を命じられた日本軍との戦闘が続いた。樺太での停戦は8月19日以降に徐々に進んだものの、ソ連軍の上陸作戦による戦線拡大もあった。8月23日頃までに日本軍の主要部隊との停戦が成立し、8月25日の大泊占領をもって樺太の戦いは終わった。

当時、南樺太には40万人以上の日本の民間人が居住しており、ソ連軍侵攻後に北海道方面への緊急疎開が行われた。自力脱出者を含めて10万人が島外避難に成功したが、避難船3隻がソ連軍に攻撃されて約1,700名が死亡した(三船殉難事件)。陸上でもソ連軍の無差別攻撃がしばしば行われ、約2,000人の民間人が死亡した。

背景

北緯50度の国境標柱と日本の国境警察隊
豊原市の大通りの風景

ポーツマス条約によって日本領となった南樺太には、1913年(大正2年)の樺太守備隊廃止以来、日本軍は常駐していなかった。軽武装の国境警察隊が国境警備を担当していた[1]。しかし、1939年(昭和14年)5月に至り、対ソ連の防備のため樺太混成旅団が設置された。その後、第7師団(北海道駐屯)の改編や関東軍特種演習に伴い次第に駐屯兵力が増強された。

太平洋戦争中盤になると、従来はソ連を仮想敵としていた南樺太の戦備も、対アメリカ戦重視に方針が転換された。北樺太侵攻作戦は放棄されて、専守防衛型となった。北方軍司令官樋口季一郎中将は、対ソ国境陣地を重視せず、主にアメリカ軍上陸に備えた南部の防備強化を指導した[2]本土決戦が想定され始めた1945年(昭和20年)2月には駐屯部隊の大部分を再編成して第88師団が創設されたが、その主力は南部地区に置かれた。

予備役(在郷軍人)主体の予備戦力の整備も進められ、1944年(昭和19年)5月に特設警備隊である特設警備大隊3個・特設警備中隊8個・特設警備工兵隊3個、1945年3月には地区特設警備隊9個が各地に設置された[3]。このほか、国民義勇戦闘隊の組織も準備されていた。地区特設警備隊や国民義勇戦闘隊は、日中戦争での中国共産党軍にならい遊撃戦を行うことが期待されており、3月下旬に7700人が2日間の召集訓練を受けたほか、7月以降には陸軍中野学校出身者による教育が多少実施された[4]

約40万人の一般住民については北海道への緊急疎開が予定され、大津敏男樺太庁長官と第88師団参謀長の鈴木康大佐、豊原駐在海軍武官の黒木剛一少将による3者協定が締結されていた。樺太庁長官を責任者として陸海軍は船舶提供などの協力をするという内容であったが、実態は腹案の域を出ず、3人以外には極秘とされて組織的な事前打ち合わせは無かった[4]

一方、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、南樺太の奪還を狙っていた。ソ連の対日参戦を密約した1945年2月のヤルタ会談において、ソ連は南樺太占領を参戦後に予定する作戦の第一として挙げ、実際にヤルタ協定には「南樺太のソ連への返還」が盛り込まれた[5]。当時、ソ連は北海道北部(留萌釧路以北)の軍事占領も計画しており、南樺太は北海道侵攻の拠点としてすぐさま使用される予定であった。南樺太攻略担当には、北樺太に主力を置く第2極東戦線の第16軍(司令官:L・G・チェレミソフ(Л. Г. Черемисов)少将)が充てられた。もっとも、7月28日に通達された実際の作戦計画では、樺太・千島方面の攻略は満州方面に劣後した順位となっており、発動時期は戦況に応じて調整されることになっていた。現場では日本軍守備隊に関する情報を把握できないでおり、南樺太に日本軍戦車が配備されていないことすらも知らなかった[6]

日ソ間には日ソ中立条約が存在し、1945年(昭和20年)8月時点でも有効期間内であったが、ソ連の対日参戦は実施されることになった。なお、同年5月頃、日本はソ連を仲介者とした連合国との和平交渉を模索しており、その中でソ連への報酬として南樺太の返還も検討されていた[7]。(日ソ中立条約との関係については日ソ中立条約及びソ連対日宣戦布告を参照)

ソ連軍侵攻前の樺太での戦闘としてはアメリカ潜水艦の活動があり、日本商船が攻撃されたり、海豹島などが砲撃を受けていた。7月23日には、アメリカ潜水艦「バーブ」から少数の水兵が密かに上陸して、樺太東線の線路を爆破している[8]

戦闘経過

全般状況

樺太庁の支庁区分

日ソ開戦前、日本軍の配置は北地区(敷香支庁恵須取支庁)と南地区(豊原支庁真岡支庁)に分かれていた。北地区は歩兵第125連隊が、南地区は第88師団主力が分担し、対ソ戦・対米戦のいずれでも各個に持久戦を行う作戦であった。北地区はツンドラに覆われて交通網が発達しておらず、国境から上敷香駅付近までは軍道と鉄道の実質一本道で、敵進路の予想は容易だった。現地の第88師団では、対ソ戦重視への配置転換を第5方面軍へ6月下旬から上申し続けていたが、ようやく8月3日にソ連軍襲来の場合には迎撃せよとの許可を得られた[9]

8月9日にソ連は対日宣戦布告を行ったが、ソ連軍の第16軍に樺太侵攻命令が出たのは翌10日夜であった。作戦計画は3段階で、第1期に第1梯団(第79狙撃師団・第214戦車旅団基幹)が国境警戒線を突破し、第2期で古屯要塞[注 1]」を攻略、第3期には第2梯団(第2狙撃旅団基幹)が一気に超越進撃して南樺太占領を終えるというものだった。国境地帯からの2個梯団が主軸で、塔路真岡には補助的な上陸作戦が計画されていた[6]。ソ連側の侵攻が開戦直後ではなかったことは、日本側が兵力配置を対ソ戦用に変更する余裕を生んだ。ソ連軍は第1期作戦から激しく抵抗を受けてしまい、第2期の古屯攻略のための部隊集結も遅れだした。

日本の第5方面軍は、8月9日早朝にソ連参戦の一報を受けたが、隷下部隊に対し積極的戦闘行動は慎むよう指示を発した。この自重命令は翌日に解除されたが、通信の遅延から解除連絡は最前線には届かないままに終わり、日本側前線部隊が過度に消極的な戦術行動をとる結果につながった[11]。自重命令解除に続き、第5方面軍は、第1飛行師団の飛行第54戦隊に対して落合飛行場進出を命じたが、悪天候のために実施できなかった。一方、ソ連軍機も悪天候には苦しんでいたが、なんとか地上支援を成功させている。第5方面軍は、13日には北海道の第7師団から3個大隊の増援を決めるとともに、手薄と見られたソ連領北樺太への1個連隊逆上陸(16日予定)まで企図したが、15日のポツダム宣言受諾発表と大本営からの積極侵攻停止命令(大陸命1382号)によって中止となった[12]

日本側現地の第88師団は、8月9日に防衛召集をかけて地区特設警備隊を動員した。10日には上敷香に戦闘司令所を出して参謀数名を送り、13日には国民義勇戦闘隊の召集を行った。一般住民による義勇戦闘隊の召集は樺太戦が唯一の実施例で、ねらいは兵力配置があるように見せかけてソ連軍の進撃を牽制することだった[13]。師団は、15日に玉音放送などでポツダム宣言受諾を知り、防衛召集解除・一部兵員の現地除隊軍旗処分など停戦準備に移ったが、16日に塔路上陸作戦が始まると、第5方面軍から自衛戦闘と南樺太死守を命じられて戦闘を続けた。第5方面軍の死守命令は、ソ連軍の北海道上陸を予防する意図に基づいていた[14]

8月16日以降も、ソ連軍は引き続き侵攻作戦を続けた。18-19日には、極東ソ連軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥が、25日までの樺太と千島の占領、9月1日までの北海道北部の占領を下令した[15][14]。古屯付近では16日に総攻撃を開始したが、日本側守備隊の歩兵第125連隊が即時停戦命令を受けて19日に武装解除するまで、主陣地制圧はできなかった。ソ連軍は同じ16日に塔路上陸作戦も行ったが、上陸部隊の進撃は低調だった。交通路は避難民で混雑し、日本軍は橋の破壊などによる敵軍阻止は断念することが多かった。この間、日本側は現在位置で停止しての停戦を各地で交渉し、峯木師団長自身も北地区へ交渉に向かっていたが、進撃停止は全てソ連側に拒否され、しばしば軍使が処刑される事件も起きた。

8月19日、日本の大本営は第5方面軍に対して、停戦のための武器引き渡しを許可した(大陸指2546号)。満州方面よりも3日遅れの発令であった。21日から22日にかけて峯木師団長に武器引き渡し許可が届き、知取でソ連軍との停戦合意に達した[16]。この間にも、20日には真岡にソ連軍が上陸して多数の民間人が犠牲となり、やむなく応戦した日本軍と激戦となっていた。ソ連側は、日本人と財産の本土引き揚げ阻止を図り、22日に引揚船3隻を撃沈破したうえ、23日には島外移動禁止を通達した。24日に樺太庁所在地の豊原市はソ連軍占領下となり、25日の大泊上陸をもって南樺太占領は終わった。

国境地帯への侵攻

国境の北地区守備を担当する歩兵第125連隊は、8月9日の時点では主力は内路・上敷香にあり、第2大隊だけが古屯でソ連軍に備えていた。開戦と同時に、連隊長の小林大佐は、国境付近の分哨や住民の後退と道路破壊を命じ、連隊主力を率いて北上した。ソ連軍が砲撃を行うだけで進撃に着手しなかったため、10日には古屯北西の八方山へ布陣を終えることができた[17]。住民誘導や道路破壊作業は、上敷香に進出した師団参謀の指導で、特設警備隊や地区特設警備隊を中心に進められた。

日本の国境警察隊。陸軍部隊とともにソ連軍を迎撃した。

ソ連軍の中央軍道方面からの侵攻は、8月11日午前5時頃に始まった。最前線の半田集落は歩兵2個小隊と国境警察隊28名の計100名程度の守備兵力ながら、戦車と航空機に支援されたソ連軍先遣隊を丸一昼夜阻止した後、12日にほぼ全滅した。この玉砕は付近の日本軍に士気高揚をもたらし、他方、ソ連軍には野戦築城レベルの半田に要塞[注 2]があったかのように記録させるほど衝撃を与えた[19]。12日昼には、武意加からツンドラ地帯を強行突破したソ連軍第179狙撃連隊が古屯に進出しはじめたが、訓練用の木銃銃剣で武装した輜重兵第88連隊第2大隊や憲兵の突撃で足止めされている[20]。なお、第5方面軍が9日に発した積極攻撃禁止命令は、この頃に歩兵第125連隊へと届き、以後の戦術を制約していった[21]

8月13日、ソ連軍第1梯団は、日本の歩兵第125連隊に対し、軍道上の梯団主力と迂回した第179狙撃連隊による包囲攻撃を開始した。日本軍の速射砲などではソ連戦車を撃破できず、軍道上の師走陣地守備隊は大損害を受けて撤退したが、激しい抵抗に驚いたソ連第1梯団主力も数百m前進しただけで防御態勢に移行した。古屯の兵舎周辺では、日本の歩兵第125連隊第1大隊とソ連軍第179狙撃連隊との激戦が続いたが、16日夕刻までに日本側は大隊長小林貞治少佐、岩貝大隊副官戦死し、撤退に追い込まれた。16日にソ連軍主力も火砲213門等を投じた総攻撃を再開し、古屯までの軍道を開通させたが、主陣地である八方山は陥とせなかった。17日から18日頃、日本の歩兵第125連隊本部に師団からの停戦命令が届き、自衛戦闘に移行した。日本側は軍使を派遣して停戦交渉をし、19日10時に武装解除して戦闘を終えた[22]

北地区の日本側指揮は、歩兵第125連隊降伏後、上敷香にいた第88師団参謀らが実質的に引き継いでいる。中央軍道方面での戦闘の間に、8月17日朝には上敷香の住民避難が終わり、その市街地は放火とソ連軍機20機の空襲で全焼している[23]。敷香も20日に放棄され、総引き揚げとなった。内路鉄橋や知取川鉄橋爆破による防衛線構築が検討されたが、避難民が残っていることから断念された[24]#全般状況で既述のように、前進してきた日本側の師団長・師団参謀長らとソ連側の交渉の結果、22日に停戦合意が成立した。

また、中央軍道とは別に、8月12日に西海岸の西柵丹村安別にもソ連軍の侵攻があったが、歩兵第125連隊の安別派遣隊(1個中隊)などが住民の支援を受けて対抗した。安別派遣隊は、20日に連隊本部からの停戦命令を受けた後も投降せず、他隊の人員を吸収して約500人で南下した。名好町北部に至って部隊を解散し、私服に着替えて自由行動をとり、一部は北海道の第5方面軍司令部への報告に成功している[25]

北地区の戦闘で日本軍の受けた損害は、戦死568名であった。そのほとんどは古屯周辺の戦闘で生じた。他方、ソ連側の損害は不明であるが、日本軍の推定では戦死1千名と戦車破壊数十両となっている[25]

なお、日本海軍の敷香基地部隊は飛行場周辺で対空戦闘を行っていたが、8月14日夕刻、陸軍とは連絡を取らずに独断で大泊基地への撤退を決めた。北東空司令部の制止も無視して通信設備を破壊し、翌15日早朝に高角砲台などを爆破して大泊基地へと自動車で撤退した。当初は大泊を守備する構想だったが、移動中にポツダム宣言受諾を知って戦闘を放棄し、大泊基地部隊とともに海防艦占守」へ優先的に搭乗して北海道へ引き揚げた[26]。ただし、豊原海軍武官府は同行せずに残留し、民間人の保護にあたっている。

塔路上陸作戦

恵須取町の市街地(浜市街)。

ソ連軍は、第2期作戦の一環として、南樺太第2の都市である恵須取町に近い塔路上陸作戦を計画していた。そのため8月10日以降、恵須取港と塔路港はソ連北太平洋艦隊航空隊の攻撃目標とされていた。13日には魚雷艇カッターボートによる偵察が行われ、ほとんど守備兵力はないと判断された。上陸決行は陸上侵攻と連携して実施する予定だったが、アンドレエフ北太平洋艦隊司令官は好機と考えて、16日の上陸を独断で決めた[27]

恵須取町・塔路町付近は、開戦時には歩兵第125連隊の1個中隊と若干の後方部隊がいるだけだった。安別へのソ連軍侵攻後、本斗安別線からの襲来の危険が生じたため、歩兵第25連隊の正規1個中隊(機関銃小隊配属)と訓練中の初年兵1個中隊(山砲1門配属)などが8月14日に増派されていた。そのほか、特設警備第301中隊と豊原地区第8特設警備隊、義勇戦闘隊(学徒600名と女子80名を含む)も召集されている。豊原地区司令部から出張中だった富澤健三大佐が臨時に指揮官に任じられた。日本軍は正規歩兵2個中隊を恵須取市街から内陸の上恵須取へ続く隘路に配備して防衛線を張り、特設警備第301中隊のうち1個小隊(義勇戦闘隊40人配属)を塔路飛行場の破壊と塔路港守備に充て、残りは住民避難の援護のため恵須取市街に置いた。住民の多くは上恵須取方面へ避難に移り、塔路ではソ連軍上陸時に約20%だけが残っていた。なお、日本軍は13日のソ連軍偵察隊を本格上陸と誤認し、特設警備中隊の射撃で撃退に成功したと考えていた[28]

8月15日、ソ連軍は警備艦1隻・機雷敷設艦1隻・輸送船2隻・小艦艇多数を、ソヴィエツカヤ・ガヴァニから4波に分けて出撃させた。16日早朝、第365海軍歩兵大隊と第113狙撃旅団第2大隊が、艦砲射撃と海軍機の援護下で塔路港に上陸を開始した。塔路の町は焼失し、守備の1個小隊は壊滅した。阿部庄松塔路町長(義勇戦闘隊長も兼務)らは、恵須取支庁から終戦と抵抗中止を通知されてソ連海軍歩兵との停戦交渉に向かったが、武装解除と住民の呼び戻しを要求されて人質に取られ、まもなく処刑された。上恵須取へ避難する民間人は、無差別な機銃掃射を受けて死傷者が続出した[29]

日本の特設警備第301中隊(中垣重男大尉)は、初年兵中隊や地区特設警備隊、国民義勇戦闘隊、警察隊などをかき集めて、塔路から続く道の恵須取の山市街入口に布陣し、避難民の援護にあたった。中垣隊は、塔路から南下侵攻してきたソ連海軍歩兵2個中隊を阻止したうえ、逆襲に転じて敗走させ、王子製紙工場付近まで追撃した。その後、中垣隊は恵須取支庁長以下400名の避難民の後衛を務め、翌17日午前3時頃には上恵須取へ到着した。ソ連軍は17日午前7時~8時30分に恵須取山市街を占領、午前10時30分頃に恵須取港から上陸した独立機関銃中隊とともに浜市街を占領した。ソ連側記録によると17日にも恵須取で市街戦があったことになっているが、実際には日本側の部隊は残っていなかった[30]

上恵須取の町は8月17日午後に空襲を受けて焼失し、疎開する中で特設警備隊や義勇戦闘隊は隊員が家族のもとに戻って解散状態となっていった。恵須取方面総指揮官として派遣された吉野貞吾少佐(富澤大佐から指揮権引き継ぎ)によって停戦交渉も行われたが、ソ連側が要求する住民の帰還を避難民らが拒み、武装解除にも応じず妥結に至らなかった。恵須取支庁長や吉野少佐は日本兵の士気が高く戦闘拡大のおそれがあると判断し、避難民や軍部隊をまとめ、内路恵須取線を東進してソ連軍から離れることにした[31]。内路付近まで達した24日に、師団司令部から連絡将校が到着して投降命令が伝達され、部隊は武装解除を受け入れた。

真岡・大泊上陸作戦

ソ連軍侵攻以前の真岡町の市街

ソ連軍は、第3期作戦の補助作戦として真岡上陸作戦を計画していたが、国境方面の戦況などにかんがみ、8月15日に真岡上陸作戦の発動準備を下令した。その目的は、日本側の本土への引き揚げ阻止と、北海道侵攻のための拠点の早期確保にあった[32]。上陸部隊の第113狙撃旅団主力(約2,600人)と海軍混成歩兵大隊(820人)は、18日に間宮海峡付近のポストヴァヤ湾とワニノ湾で輸送船5隻と掃海艇4隻、警備艇9隻に乗船し、翌19日朝に出航した。上陸部隊指揮官は第113狙撃旅団長のI・Z・ザハーロフ大佐、船団指揮官はA・I・レオーノフ海軍大佐だった[33]

日本側は、真岡港を本土への引き揚げ乗船地として使用中で、町は地元住民と避難民1万5000人以上であふれていた。守備隊としては歩兵第25連隊主力が置かれていたが、すでに軍旗の焼却や約1割を占める古年次兵の除隊、特設警備隊の召集解除などを完了していた。守備隊主力は戦闘発生を予防するため海岸から1km以上離れた地点で待機した。市街地付近に配置されたのは、機関銃・連隊砲各1個分隊程度であった[34]

8月20日の日本側時間午前6時頃(ソ連側記録によると午前7時半頃)、警備艦と敷設艦各1隻に護衛されたソ連軍船団が、霧の真岡に上陸を開始した。ソ連軍は浅瀬に座礁した魚雷艇が日本軍の先制射撃を受けたため艦砲射撃で応戦したと記録しているのに対し、日本側は舟艇の座礁は目撃したが射撃を加えていないと記録している[33][35]。ソ連軍は艦砲射撃に援護されて侵攻、ソ連側記録で12時頃までに港湾地区を、14時頃までに市街地を占領した[33]。港内にあった貨物船「交通丸」と機帆船漁船は、拿捕されるか撃沈された。日本側記録によると、日本軍は一切の発砲を禁じて内陸の高地の影に後退し、豊原方面へと民間人を誘導するとともに軍用物資を放出して配布した[35]。ソ連側記録は、市街戦で建物や地下室に立て篭もった日本軍を掃討し、日本兵300名以上を死傷させ、600名以上を捕虜にしたとするが[33]、日本側記録によると真岡市街には防御陣地はなく、日本軍も応戦していない。攻撃目標にされたのは民間人、特に軍服類似の国民服を着用していた者だった[36]。ソ連軍に捕まった町長は銃殺刑(重傷で生存)[36]、日本軍が派遣した軍使の第1大隊副官らも拘束のうえ処刑された[37]。電信局の女性職員が集団自決した真岡郵便電信局事件も起きている。ソ連側は、自軍の損害として、陸軍兵60人と海軍歩兵17人が死傷したとしている[33]

豊真線宝台ループ線。付近で8月21-22日にソ連の真岡上陸軍と日本軍の戦闘が行われた。

ソ連軍の行動を見た日本軍は、衛戍勤務令12条と13条(警察行動に類する規定)に基づいて限定的な武器使用許可を行い、20日15時30分頃に山中でソ連軍と小競り合いを生じた[37]。21日になって豊原へ向けて進撃を始めたソ連軍は、日本の歩兵第25連隊第1大隊を攻撃し、日本側も自衛のため応戦した。次第に浸透された日本側は同日夜に逢坂へ撤退し、新たに第3大隊を熊笹峠宝台ループ線へ布陣させた。ソ連側は逢坂集落など各地に空襲と艦砲射撃を行いながら進撃し、日本側は豊原防衛のために熊笹峠などで22日まで遅滞戦術をとった。日本側は衛生兵までが白兵戦を行った。豊原も22日には空襲を受け、避難民が終結していた駅前広場周辺が焼夷弾などを浴びた。豊原駅には白旗が掲げられ、広場の救護所には赤十字の対空標示があったが、何度も空襲が繰り返されて100名以上が死亡、400戸が焼失した[38]。全ての民家の屋根には大きな白旗が取り付けられたがソビエト軍は猛爆撃を行った[39]

22日夕刻に、第88師団司令部からの降伏命令が歩兵第25連隊に届き、ソ連側と交渉の後に23日までに武装解除が終わった。この交渉の際にも軍使一行が銃撃を受けて死傷している。その後の豊原占領時にも、海軍武官府から派遣された軍使の主計大尉が、「交渉中にで斬りかかった」として射殺されている[40]。真岡の戦いでの日本軍の損害は、停戦直後の調査では第88師団所属の137人戦死とされたが、その後の調査で総数300人を超えると推定されている[41]

23日早朝、ソ連軍は真岡から海軍歩兵混成旅団(3個大隊)を出航させ、翌日に本斗を経由して、25日に大泊へ上陸した。日本軍の抵抗はなく、大泊の海軍基地などが占領された。このほか真岡北方の小能登呂飛行場は、輸送機で強行着陸したソ連海軍空挺部隊によって、22日に占領されている[42]

結果

日本軍の損害は、戦死者700人[43]ないし戦死・行方不明2,000人[44]とされる。ソ連軍の記録によれば、日本兵18,302人が捕虜となった[40]。戦闘中の民間人の被害は軍人を上回っており、3,700人に及ぶと見られている(詳細は#民間人で後述)。なお、厚生労働省の資料で「樺太・千島等」の戦没者総数24,400人となっているのはアッツ島の戦いなどアリューシャン方面の戦いを含めた数値で[45]、樺太・千島及び周辺海域での大戦全期間の戦没者数は18,900人とされている[46]

生き残った日本軍将兵は、いち早く北海道へ引き揚げた海軍部隊主力と、現地復員して民間人に紛れることができた一部兵士を除いて、シベリア抑留による強制労働を課された。シベリアへ多くは移送されたが、一部は樺太島内に設けられた捕虜収容所での労役に従事した。

ソ連軍は、予定されていた北海道及び北方四島への上陸作戦のために南樺太の前進基地としての整備を進め、ウラジオストクから第87狙撃軍団を移送し始めた。8月25日までに、計15隻の客船を中心とした3回の護送船団で、3個師団が真岡へ送られている[47]。しかし、以後の作戦のうちソ連軍による北海道占領は、8月18日にアメリカ大統領ハリー・S・トルーマンが、占領を認めない旨の書簡をスターリンに送ったのをふまえて、8月22日以降に中止命令が出された。北方四島の占領は、大泊から出航した第113狙撃旅団などによって8月28日から9月3日に行われた。北方四島やその他の千島列島で捕虜となった日本兵は、樺太を経由してシベリアへと送られた。

樺太の戦いでの日本軍の抵抗は、占守島の戦いと並んで、ソ連の北海道占領断念につながったと評価する見解もある。元防衛大学校教授の中山隆志によると、スターリンがトルーマンから反対されてから作戦中止命令まで4日間もかかったのは、日本の降伏文書調印(9月2日)までに北海道占領の既成事実化が可能かを検討していたためと見られる。その上で中山は、侵攻拠点となる南樺太確保の遅れや占守島での抵抗の激しさが、早期の既成事実化は困難との判断をソ連側にさせたものと分析した[48]

なお、戦闘後の南樺太はソ連(後にロシア連邦)によって実効支配されているが、日本政府は帰属未確定の地域であると主張している。(領土問題の詳細は樺太を参照)

民間人

緊急疎開

ソ連軍侵攻時の南樺太には、季節労働者を加えて約40万人、一説によると45-46万人[43]の民間人が居住していた。ソ連の参戦後に北海道への避難が始まったが、多くの民間人が戦渦に巻き込まれて被害を受けた。

8月9日のソ連の対日参戦後、大津樺太庁長官と鈴木第88師団参謀長、黒木海軍武官の三者が前述の事前協定を確認し、北海道への民間人の避難作業が始まった。といっても具体的な事前計画が無かったので、樺太庁長官主催で樺太鉄道局船舶運営会が加わった緊急輸送協議会が開かれたものの、輸送計画が決まって各市町村へ通達されたのは12日になってからだった[49]

日ソ開戦前の真岡港

立案された計画では、本土避難の対象者は65歳以上の男性と41歳以上の女性、14歳以下の男女とされ、16万人を15日間で移送することが目標だった。この選別基準には、戦力とならない足手まといを片付ける意図と、食糧不足や冬季に渡る野外行動が予想されるために体力の弱い者から優先避難させるという意図があった[50]。大泊を主たる乗船地として稚泊連絡船宗谷丸」や海軍特設砲艦「第二号新興丸」など艦船15隻を使用するほか、本斗から稚斗連絡船樺太丸」と小型艇30隻、真岡からも貨客船「大宝丸」などを運航することに決まった。陸上では乗船地に向けた疎開列車編成とトラック輸送が行われた。

避難指示を受けた住民は、乗船地を目指して列を成した。多くの住民は、尼港事件の再現となるのではないかと恐怖していたという[43]

13日夕に大泊を出港した「宗谷丸」を皮切りに、16日に真岡、18日には本斗からも引揚船が出始めた。本斗への「能登呂丸」や砕氷艦「大泊」の追加投入も行われた。避難民側の準備が間に合わなかった大泊第1便を除くほか、定員の数倍ずつ乗船するなど、急ピッチで海上輸送が進められた。しかし、真岡は20日にソ連軍に占領されて使用不能となり、本斗も危険なため運用断念された。最終的に8月23日にソ連軍から島外への移動禁止が通達され、同日夜に緊急脱出した「宗谷丸」「春日丸」で終了となった。この間8月22日に「小笠原丸」「泰東丸」「第二号新興丸」の3隻が、北海道沿岸で国籍不明潜水艦の攻撃で撃沈破され、計1,708人が死亡する三船殉難事件が発生している。ソ連潜水艦による攻撃であると推定されている。同じ日に「能登呂丸」も樺太へ向かう途中、宗谷海峡でソ連機の空襲を受けて撃沈された。

結果、目標の約半数にあたる76,000人が島外への緊急疎開に成功したとみられている。その後の密航による自力脱出者約24,000人を合わせても、南樺太住民の1/4以下だけが避難できたことになる。市町村単位で見ると、42市町村のうちで疎開が完了したのは8町村のみであった。『戦史叢書』は、今日思うと避難の決行時期があまりにも遅かったと評している[51]。急な避難指示で準備が間に合わず、第1便の「宗谷丸」は乗船定員を割り込み、軍や官庁の関係者が多くを占める事態も起き、満州の疎開列車での類似事例と並んで後日非難されることにもなった[52]

犠牲者

住民台帳などの行政記録が失われているため、正確な犠牲者数は不明である。厚生省資料では、空襲や艦砲射撃、地上戦など島内での戦闘に巻き込まれて死亡した民間人の数は、真岡の約1,000人を筆頭に、塔路で約170-180名、恵須取で約190名、豊原で約100名、敷香で約70名、落合で約60名など合計で約2,000人と推定されている。前述の引揚船での犠牲者を合わせると、約3,700人に達する[53]。なお、前述のように、厚生労働省資料にいう「樺太・千島等」の戦没者数24,400人はアリューシャン方面を含めた数値である[45]

落伍したり避難が間に合わなかった民間人の中には、ソ連兵に捕えられることを恐れ、自殺するものもあった。8月20日に郵便局の女性職員12人が集団自決を図った(真岡郵便電信局事件)ほか、塔路上陸作戦時には大平炭鉱病院の看護婦23人の集団自決(6人死亡)が発生している[54]

停戦後

1945年8月23日にソ連は樺太島外への住民の移動を禁止し、脱出できなかった住民はソ連の行政下に入ることになった。一般住民を中心とした引揚事業は、1946年(昭和21年)12月に本格的に始まり、日本側では函館援護局が受け入れを担当した[55]1949年(昭和24年)6-7月の第5次引き揚げまで、千島方面とあわせて20隻の引揚船が投入され、樺太からは軍民合わせて279,356人が、千島からの13,404人とともに北海道へと渡った[56]。2006年1月1日時点の厚生労働省データでは、千島方面と合わせた引き揚げ総数が軍人・軍属16,006人、民間人277,540人となっている[57]。樺太に長期在住していた者が多かったことから、本土に縁故の無い引揚者が約1/3と高い割合を占めていた[56]。そのため、住宅の入手や就職にはかなりの困難が伴い、長期にわたって引揚者援護寮に滞在せざるを得ない者も多くあった。身元引受先がないまま函館滞留中に死亡した引揚者も、航海中の死者とあわせて1,000人を超えた。引揚者とその遺族の相互扶助のために、1948年(昭和23年)に全国樺太連盟が結成されている[58]

ソ連軍の占領直後に約2万3千人いた朝鮮系住民は、ほとんどがソ連当局の意向によって樺太に残留させられ、1952年(昭和27年)6月にはこの在地系の朝鮮系住民が2万7千人と記録されている。戦後に北朝鮮から移民した者や、ソ連によって中央アジアから強制移住させられた「高麗人」と合わせて、在樺コリアンと呼ばれ、多くはそのまま定住を余儀なくされた[59]。(詳細は在樺コリアンを参照)

朝鮮系以外の日本人住民でも、経済的事情から朝鮮系住民やロシア人と結婚するなどしたため、樺太残留を選択した者があった。1990年代中ごろには、終戦後に生まれた子孫も含めて約300人が樺太で生活していたが、高齢化による死去やソ連崩壊後の日本や韓国への移住などで2010年には約200人に減少している。日本政府は、これらの残留者を対象に集団一時帰国事業を行っており、1年半に1回程度の日本帰国が実現している[39]

参加兵力

日本軍

ソ連軍

脚注

注釈

  1. ^ 古屯には歩兵第125連隊第2大隊の兵舎があり、北側の幌見峠には北樺太侵攻作戦を援護するための鉄筋コンクリート製構築物などから成る陣地が建設されていた。ただし、実戦では日本軍は幌見峠にほとんど守備兵を配置しなかった[10]
  2. ^ 実際には少数の軽掩蓋や半田川護岸を利用した対戦車障害物程度で、湿潤なツンドラのため塹壕も不十分であった[18]
  3. ^ 在樺太海軍軍人で最高階級であるが、指揮系統外。

出典

  1. ^ 中山(2001年)、48頁。
  2. ^ 中山(2001年)、61頁。
  3. ^ 示村(1984年)、227-228頁。
  4. ^ a b 『北東方面陸軍作戦(2)』、420-422頁。
  5. ^ 中山(2001年)、25-26頁。
  6. ^ a b 中山(2001年)、84-87頁。
  7. ^ 中山(2001年)、30頁。
  8. ^ Cressman, Robert J. The Official Chronology of the US Navy in World War II, Annapolis: MD, Naval Institute Press, 1999.
  9. ^ 中山(2001年)、63頁。
  10. ^ 中山(2001年)、59、123頁。
  11. ^ 中山(2001年)、83-84頁。
  12. ^ 中山(2001年)、112-113頁。
  13. ^ 中山(2001年)、111頁。
  14. ^ a b 中山(2001年)、129頁。
  15. ^ スラヴィンスキー(1993年)、70-72頁。
  16. ^ 中山(2001年)、167-168頁。
  17. ^ 中山(2001年)、76-79頁。
  18. ^ 中山(2001年)、92頁。
  19. ^ 中山(2001年)、94-95頁。
  20. ^ 中山(2001年)、98-99頁。
  21. ^ 中山(2001年)、95頁。
  22. ^ 中山(2001年)、118-126頁。
  23. ^ 中山(2001年)、125頁。
  24. ^ 中山(2001年)、166頁。
  25. ^ a b 中山(2001年)、127-128頁。
  26. ^ 久堀(1993年)、57-59頁。
  27. ^ 中山(2001年)、137頁。
  28. ^ 中山(2001年)、135頁。
  29. ^ 中山(2001年)、142-143頁。
  30. ^ 中山(2001年)、143-145頁。
  31. ^ 中山(2001年)、147頁。
  32. ^ 中山(2001年)、152頁。
  33. ^ a b c d e スラヴィンスキー(1993年)、73-74頁。
  34. ^ 中山(2001年)、149-150頁。
  35. ^ a b 中山(2001年)、155頁。
  36. ^ a b 中山(2001年)、158-159頁。
  37. ^ a b 中山(2001年)、160頁。
  38. ^ 中山(2001年)、175頁。
  39. ^ a b “解放戦争”の現実 白旗に猛爆撃 サハリン残留日本人産経新聞 2010年9月2日。
  40. ^ a b 中山(2001年)、177頁。
  41. ^ 中山(2001年)、174頁。
  42. ^ 『北東方面陸軍作戦(2)』、510頁。
  43. ^ a b c 示村(1984年)、354頁。
  44. ^ 中山(2001年)、179頁;厚生省資料に基づく数値。
  45. ^ a b 厚生労働省援護局外事室 「地域別戦没者概見図(平成23年1月31日現在)」『社会・援護局関係主管課長会議資料について』 厚生労働省 2011年3月3日(2012年2月17日閲覧)。
  46. ^ 厚生労働省 戦没者慰霊事業:樺太・千島戦没者慰霊碑(2012年2月17日閲覧)。
  47. ^ スラヴィンスキー(1993年)、80-81頁。
  48. ^ 中山(2001年)、244-245頁。
  49. ^ 中山(2001年)、80頁。
  50. ^ 『北東方面陸軍作戦(2)』、422頁。
  51. ^ 『北東方面陸軍作戦(2)』、536頁。
  52. ^ 中山(2001年)、178頁。
  53. ^ 中山(2001年)、179頁。
  54. ^ 今明かす旧樺太・集団自決の記憶-登別の桜庭さん室蘭民報、2007年8月24日朝刊。
  55. ^ 『函館市史 通説編第4巻』、98-99頁。
  56. ^ a b 『函館市史 通説編第4巻』、99-101頁。
  57. ^ 東京新聞 2007年8月19日。
  58. ^ 『函館市史 通説編第4巻』、221-224頁。
  59. ^ 半谷史郎 「サハリン朝鮮人のソ連社会統合―モスクワ共産党文書が語る1950年代半ばの一断面―」『21世紀COEプログラム研究報告集 No.5 ロシアの中のアジア/アジアの中のロシア(II)』 北海道大学スラブ研究センター、2004年。
  60. ^ 久堀(1992年)、44頁。

参考文献

  • 木俣滋郎 「ソ連潜水艦L19」『撃沈戦記 PART IV』 朝日ソノラマ、1993年。
  • 示村貞夫 『旭川第七師団』(覆刻版) 総北海、1984年。
  • ボリス・ニコラエヴィチ・スラヴィンスキー(著)、加藤幸広(訳) 『千島占領―一九四五年夏』 共同通信、1993年。
  • 中山隆志 『一九四五年夏 最後の日ソ戦』 中央公論新社〈中公文庫〉、2001年。
  • 函館市史編さん室(編) 『函館市史 通説編第4巻』 函館市、2002年。
  • 久堀通義 「白夜の北緯五十度線―樺太国境の海軍部隊による対ソ戦闘顛末記」『丸別冊 秘めたる戦記』 潮書房、1992年。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『北東方面陸軍作戦(2)千島・樺太・北海道の防衛』 朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1971年。

関連項目