椎名康胤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。越中掾 (会話 | 投稿記録) による 2011年8月31日 (水) 08:16個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (妻)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

 
椎名 康胤
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 天正4年(1576年3月
別名 宮千代
官位 右衛門大夫
氏族 椎名氏
父母 父:椎名慶胤
暦(稲見茂周の次女)
テンプレートを表示

椎名 康胤(しいな やすたね)は戦国時代越中国国人松倉城主。

椎名氏越中新川郡守護代の家柄であったが、椎名慶胤が神保慶宗の乱に加担したため新川郡守護代職を越後長尾氏に奪われ、後継の椎名長常はその又守護代として越後長尾氏に服属していたが、長尾為景の死後、神保家再興を成し遂げた神保長職の攻勢を受けて衰退してしまった。そのような情勢の中、康胤が家督を継ぐことになる。

弘治3年(1557年)、能登畠山家の内紛・弘治の内乱に際し、後の康胤とみられる椎名宮千代は、八代俊盛を海路援軍として畠山義綱方へ送っている。内乱は椎名氏が支援した畠山義綱方が勝利し、畠山氏との関係を深めた。

永禄2年(1559年)夏、神保長職が再び椎名氏への攻勢を強めたため、康胤は越後の上杉謙信に援軍を要請し、翌永禄3年(1560年)3月、上杉軍により富山城増山城は陥落し、長職は逃亡した。しかし長職は間もなく再起し、永禄5年(1562年)9月5日、神通川の戦いで椎名軍は家老神前孫五郎を討ち取られるなどの大敗を喫し、居城松倉城まで攻め込まれる事態となった。

康胤は滅亡寸前かと思われたが、翌月には再び謙信が来援し、神保軍を撃破して遂に長職を降伏へと追い込んだ。康胤は長尾一族の長尾景直を養子に迎えており、上杉家との結びつきは強固であった。しかし、宿敵神保長職を降伏させたとはいえ、長職は中郡(婦負・射水郡)の支配権を安堵され、康胤には不満の残る処置であった。神保家と関係が深い能登畠山家が仲介したためであった。

永禄11年(1568年)、康胤は突如上杉氏を離反し、甲斐の武田氏と手を結んだ。折しも、永禄九年の政変で能登を追われていた畠山義綱の七尾城奪還支援の為、上杉軍の能登出兵が行われる最中であった。このため義綱の七尾奪回は失敗した。

謙信はこれに激怒し、大軍をもって松倉城を数度に及ぶ攻囲の末に攻略した。康胤はその後一向一揆に合流し、上杉軍への抵抗を続けたが、天正元年(1573年)、謙信の養子である長尾顕景を通じて、上杉家への帰参を申し入れるが拒絶されている。

天正4年(1576年)、康胤は一揆方として籠城していた砺波郡の蓮沼城を上杉軍に攻略され、自害したという。