棲雲寺

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棲雲寺

本堂
所在地 山梨県甲州市大和町木賊122
位置 北緯35度39分38.2秒 東経138度48分38.4秒 / 北緯35.660611度 東経138.810667度 / 35.660611; 138.810667座標: 北緯35度39分38.2秒 東経138度48分38.4秒 / 北緯35.660611度 東経138.810667度 / 35.660611; 138.810667
山号 天目山
宗派 臨済宗建長寺派
本尊 釈迦如来
創建年 貞和4年/正平3年(1348年)
開基 業海本浄
別称 護国禅寺・栖雲寺
札所等 甲斐百八霊場第二十番
甲斐八十八ヶ所霊場第一番
文化財 本尊釈迦如来像・銅鐘など(県指定文化財)木造普応国師坐像(国の重要文化財)庭園(県指定名勝)
法人番号 8090005003932 ウィキデータを編集
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棲雲寺(せいうんじ・栖雲寺)は、山梨県甲州市大和町木賊にある寺院臨済宗建長寺派寺院で、山号は天目山、本尊釈迦如来。創建時には護国禅寺と称した。

概要

天目山山中の標高約1,050mの日川渓谷の上流左岸にある。日川渓谷のさらに4.6kmほど下流の田野には、曹洞宗寺院の天童山景徳院がある。

南北朝時代貞和4年/正平3年(1348年)、業海本浄が当時木賊山と呼ばれていたこの山を訪れた。彼は文保2年(1318年)に仲間5人とに渡り、天目山において中峰明本(普応国師)から直に教えを受け、印可を授かって嘉暦元年(1326年)に帰国した。その後、師の教えを実践させるのに相応しい場所を求めて20年以上にわたって諸国を旅して自分の修業の場に相応しい地を求めていたが、木賊山が天目山を髣髴とさせる景勝地であるとしてこの地に天目山護国禅寺を創建した。

業海は当時一世を風靡した夢窓疎石の一派を強く批判して岩窟に普応国師像を安置して樹下で座禅を組み、地元の住民とはほとんど交わらずにに使いさせた(『本朝高僧伝』)という伝説を残している。業海は4年後に没するが、その後は甲斐守護武田氏の庇護を受けて栄え、木賊山もいつしか「天目山」と呼ばれるようになり、兵庫県丹波市にある瑞巌山高源寺(開基の遠谿祖雄(遠渓祖雄)は業海本浄とともに元に渡った1人)とともに「東天目」「西天目」と併称された。応永24年(1417年)、上杉禅秀の乱に加担したとして室町幕府の討伐を受けた甲斐守護武田信満がこの山中で自害した。信満の遺骸はこの寺に運ばれて葬られたとされ、棲雲寺には信満の宝篋印塔やともに自害した家臣達の五輪塔が存在している。武田信玄軍旗軍配・陣中鏡を同寺に奉納したと伝えられている。

戦国時代末期に武田氏を滅ぼした徳川家康天正11年4月30日1583年6月20日)の日付でこの寺に約3貫文の寺領保障と3ヶ条の禁制を発している。また、寛永20年(1643年)には家康の孫で江戸幕府3代将軍徳川家光からの寺領安堵の朱印状が発給されている。正徳6年(1716年)の検地帳による朱印地は約20石であったとされている。

文化財

普応国師坐像
石庭

重要文化財(国指定)

木造普応国師坐像
中峰明本(普応国師)の肖像彫刻。木造彩色。像高は82.5センチメートル。像内首枘に朱書の銘があり、文和癸巳年(文和2年・1353年)に、仏師法眼院広と法橋院遵によって造像されたことが判明する。院広と院遵は棲雲寺本尊の釈迦如来坐像の作者でもある[1]

県指定名勝

  • 庭園

県指定有形文化財

一幅。絹本着色。寸法は縦153.3センチメートル、横57.8センチメートル。中国・元代(13世紀14世紀)の作。山梨県立博物館寄託
六角形の豪華な多重蓮華座に刺し、頭光・身光を具備した独尊像。図上には天蓋を頂く。左右の肩に髪を数条ずつ垂らし、薄紫色の内衣の上に金・赤で縁取りされた白色の外衣をまとう。外衣の両脇と両膝の四カ所には方形の書き判があり、方形の枠内には宝冠をかぶった人物の頭部が描かれている。両手は胸前に置かれ、右手を施無畏印状に構え、左手に十字架を捧げる。肉身部の丁寧な描写や、着衣の襞(ひだ)や起伏を表す暈取り(くまどり)、金泥を多用した華やかな表現、絵絹の組織など中国・元代仏画の特徴を備えている。
本図の箱書きには虚空蔵菩薩像とあることから長い間虚空蔵菩薩像であるとされてきた。郷土史研究家の間では晴信の自画像ではないかともささやかれたが[2]、前述の特徴によりそれは有り得ない。2013年には後述の新説を受けて「十字架捧持マニ像」の名で山梨県指定文化財となった。伝来については、棲雲寺開山の業海本浄による元からの請来や、当寺で没したキリシタン大名有馬晴信の所持品とする説がある。業海本浄が十字架を持った本図を持ち込む必然性は薄いと考えられ、後者の説の方が有力である[3]
一見すると仏画にしか見えない本像だが、持物に十字架が描かれているなどよく観察すると仏画とは異なる表現がされていることから、尊格については諸説がある。持物が中国風に変形したギリシャ十字であることから、江南地方で流布されていたネストリウス派キリスト教(景教)の聖像とする説[4]。あるいは、金色と赤の縁取りがある白い上衣を羽織り、胸と膝の両側あたりに人物の上半身を描いた判子型の装飾はマニ教神話の「光の乙女」の頭部を表しているが、これらの装飾はマニ教聖職者がまとう衣の特徴で、マニ教の聖像にも用いられること、更にこうした特徴が大和文華館所蔵のマニ教絵画や泉州・草庵の摩尼光仏と共通することから、マニ教の教主・マニかマニ教におけるイエス像とする説がある。この頃の江南ではいくつかの外来宗教が、仏教道教らと混交しながらも信仰の存続を図っていたらしく、外形から判断するのは難しい。現在の時点では、元代に勢力のあった景教がわざわざ仏画に似せた像を作るとは想定しがたく、景教にイエスの肖像を描く習慣があったかどうかも不明な反面、迫害を受けたマニ教には仏画に擬態する蓋然性があり、マニ教においてもイエスは礼拝の対象になっていることから、本図はマニ教におけるイエス像とするのが有力である[5][3]。本作品の再認識をきっかけに、日本においてマニ教絵画が相次いで発見され新たな研究のきっかけになった。[6]
  • 地蔵菩薩磨崖仏
  • 文殊菩薩磨崖仏
  • 棲雲寺宝篋印塔 「文和癸巳歳」「自恣日建之」の銘あり。1353年の建立。
  • 棲雲寺開山宝篋印塔 観応壬辰七月の銘あり。1352年の建立。
  • 棲雲寺庫裏(附:諸普請作萬覚記録 1冊)
  • 銅鐘 延文四年の鋳造銘あり。1359年の作。
  • 白紗地九条袈裟
  • 棲雲寺開山墓出土常滑甕 - 平成19年4月26日指定
宝篋印塔下より破片の状態で出土。常滑焼蔵骨器で、寸法は高さ68.3cm、底径19.0cm、口径42.3cm、肩部最大径66.2cm。肩部4カ所には「天」の押捺がある。宝篋印塔(開山塔)の銘にある観応壬辰(観応3年・1352年)は業海の没年にあたることから業海の蔵骨器であると考えられている[7]

所在地

山梨県甲州市大和町木賊122

関連画像

脚注

  1. ^ 『解説版新指定重要文化財 3 彫刻』、毎日新聞社、1981、p.292
  2. ^ 大和村教育委員会企画・編集 『大和村の文化財』 大和村役場、2003年3月1日、pp.26-27。
  3. ^ a b 泉武夫「栖雲寺画像をめぐって」(吉田豊 古川攝一編 『中国江南マニ教絵画研究』 臨川書店、2015年4月7日、pp.183-195、ISBN 978-4-653-04117-7)。
  4. ^ 泉武夫 「景教聖像の可能性 ─栖雲寺藏傳虚空藏畫像について」『国華』第1330号、2006年8月、pp.3-17。『仏画の尊容表現』に補訂採収、中央公論美術出版、2010年10月、ISBN 978-4-8055-0635-6
  5. ^ 森安孝夫「特別寄稿 日本に現存するマニ教絵画の発見とその歴史的背景」『内陸アジア史研究』第25号、2010年3月、pp.1-29。
  6. ^ 板倉聖哲責任編集 『日本美術全集 第6巻 テーマ巻1 東アジアのなかの日本美術』 小学館、2015年3月2日、図版82,p.245、ISBN 978-4-09-601106-5
  7. ^ 宝篋印塔の建立年を「業海の没した翌年」とする資料もあるが、これは隣接して建つ別の宝篋印塔(文和2年・1353年建立)と混同したものと思われる(参照棲雲寺サイト

参考文献

関連項目

外部リンク