森下洋子

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森下 洋子(もりした ようこ、1948年12月7日 - )は、広島県広島市江波(現:中区江波)出身のバレエダンサー。日本の著名なプリマバレリーナ。身長150センチ、体重38キロ。広島市名誉市民。文化功労者。

経歴

少女時代

祖母、母ともに被爆を体験した被爆2世。バレエをはじめたのは、3歳のころ、体が弱くて医者から「何か運動をさせなさい」といわれたことがきっかけ。ちょうど家の前の幼稚園でバレエ教室が開かれていてバレエと出会った。教室が体操や水泳だったら、まったく違う人生になっていたのでは、と言う。葉室潔、洲和みち子に師事。小さい頃から不器用でステップも一番出来なかったが、何回も稽古をすれば出来るようになるというのが分かり、人よりも多く稽古をした。公演で見たプロのバレリーナの美しい姿に憧れ、小学2年生の時から夏休みや冬休みには、広島から東京へ一人で夜行列車に乗り12時間かけて橘バレエ団の稽古に通う。電話もない時代、「ヨウコブジツイタ」と電報が届くまで寝られなかったと森下は後で母から聞いたそうである。天性の資質と豊かな表現力、人一倍の努力でめきめきと頭角をあらわした。

1960年に東京に出してほしいと親にせがんで、勇気ある親は「バレエにあげた」と言って12歳、6年生になった時に上京。橘秋子に師事し東京で住み込みのバレエ漬け生活を始める。12歳の1961年頃から「りぼん」「少女倶楽部」「少女フレンド」「マーガレット」など、少女雑誌のグラビアページを毎号飾り“天才バレリーナ”として日本中の少女たちの憧れの的となった。

武蔵野市の私立吉祥女子高校卒業。アメリカ留学と訪中公演の後1971年、橘秋子の死と共に現在所属する松山バレエ団に移籍、松山樹子に師事。バレエの相手役でもある松山の長男・清水哲太郎と結婚。芸術選奨新人賞を受賞。

日本のバレエが本格的に根づいたのは戦後であり長く欧米の水準には遥かに及ばなかったが、1974年第12回ヴァルナ国際バレエコンクールで日本人初の金賞受賞。「日本人にはバレエは無理」という世界的な偏見を払拭し、日本にも世界的なバレリーナが育っていることを世界に知らしめた。同年よりモナコ公国へ留学しマリカ・ベゾブラゾヴァに師事する。この後森下は、世界のプリマを目指すこととなる。

プリマバレリーナとして

1975年1977年文化庁芸術祭大賞。同年エリザベス戴冠25周年記念公演、1981年パリオペラ座に日本人として初めて出演、同年毎日芸術賞受賞。これらの多くは最年少での受賞となる。

同年、男性路線のモーリス・ベジャールが森下のために大作『ライト』を振り付けている。ベジャールは森下について「彼女の小柄な肉体には西洋と日本が共存している」と語った。

1983年ルドルフ・ヌレエフのパートナーに指名され大きな話題を呼ぶ。以降正確なテクニックと演技力で、海外の多くのステージでプリマとして客演務め、英国、アメリカ、中国などで主演公演『白鳥の湖』『ジゼル』『くるみ割り人形』『ドン・キホーテ』『眠れる森の美女』他を行い多くの観衆を魅了、世界のプリマバレリーナとして活躍。また海外の国際バレエコンクールの審査員もつとめる。

1985年第1回服部智恵子賞受賞、日本芸術院賞を洋舞として初受賞[1]。同年、パリ・オペラ座の『くるみ割り人形』全幕に主演、またヌレエフと共演した『ジゼル』の演技に対して、舞台芸術に携わる者にとって世界的に最も栄誉ある賞の一つ・英国ローレンス・オリヴィエ賞を日本人で初受賞。世界的プリマバレリーナとしての地位を確固たるものにした。

1997年女性最年少の文化功労者として表彰された。2001年より松山バレエ団団長を務める。2002年より日本芸術院会員。日本バレエ最大の名花とも謳われた。NHK紅白歌合戦の審査員でもお馴染みであった。

既にバレエ歴は60年を超える。還暦を過ぎた現在も、バレリーナとして活動し続けている。長くステージを務めているダンサーとして知られているのは、森下の他にはマイヤ・プリセツカヤがあげられる。保守派の財界人稲盛和夫の盛和塾(経営者向けの私塾)の会員。

著書

映画出演

脚注

  1. ^ 『朝日新聞』1985年3月30日(東京本社発行)朝刊、22頁。

関連項目

外部リンク