桑原やよ子

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桑原 やよ子(くわはら やよこ、生没年不詳)は、江戸時代中・後期の国文学者で『うつほ物語』の研究で知られる。

略歴[編集]

仙台藩江戸詰めの藩医桑原隆朝如璋(1700年ころ-1775年)の妻で、古典文学に通じていた。特に平安時代の長編小説『うつほ物語(宇津保物語)』の年立の研究では先駆的な役割をになった[1]。著書に研究書『宇津保物語考』があり、日本古典全集『宇津保物語五』[2]や覆刻日本古典全集『うつぼ物語 4』[3]に収載されている。このなかでやよ子のつくった系図は、日本において、複雑な人間関係を図示した最初といわれている[4]

『宇津保物語考』は、安永年間(1772年-1780年)成立とみられ、国文学者村田春海賀茂真淵の高弟)はこれを読んで感心し[5]、人に書き写させて寛政3年(1792年)、巻末に自分の手でその経緯を説明した写本をつくった[6]。この写本は天保年間(1830年-1843年)に井関隆子によっても書写されており[4]、江戸後期の国学者のあいだでは有名であった。

人物像[編集]

孫にあたる工藤あや子(只野真葛)は、自著『むかしばなし』のなかで「心の力つよくかんしゃく持ち」で大笑いすることやおもしろげな浮ついたことなどの大嫌いな、「気のつまるばば様」であったと記している。『むかしばなし』によれば、子を厳しくしつけ、裁縫結髪など「女のわざ」に秀で、また書道も堪能であったという[5]。真葛が13歳ころ(安永4年ころ)に仏教の教えを学んで悟りをひらき、穏やかな人柄になったという。

家族[編集]

子としては、娘[7]と息子の隆朝純(じゅん)の名が知られる。

姉娘は工藤平助に嫁し、その子只野真葛(工藤あや子)は女流文学者として知られる。息子の桑原純は、夫の如璋のあと仙台藩医を継いだ。純は、母やよ子の手ほどきによって能書家であり、優れた手跡を残している[5]。純の娘桑原信(のぶ)は伊能忠敬の後妻となった。只野真葛と桑原信は、ともにやよ子の孫娘にあたり、2人は従姉妹同士であった。

脚注[編集]

  1. ^ 関(2008)p.15
  2. ^ 正宗敦夫編纂・校訂『日本古典全集 宇津保物語五』日本古典全集刊行會、1933年初版。
  3. ^ 『覆刻日本古典全集 うつぼ物語 4』現代思潮新社、1982年。ISBN 9784329006479
  4. ^ a b 関(2008)p.14
  5. ^ a b c 関(2008)p.12
  6. ^ 関(2008)p.13
  7. ^ 門玲子は娘の名を遊(ゆう)とする(門(2006)p.20)が、関民子は娘の名はわかっていないとしている(関(2008)p.18)。

出典[編集]