桃生城

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桃生城
陸奥国
城郭構造 古代城柵
築城主 藤原朝狩
築城年 天平宝字3年(759年
主な城主 不明
廃城年 不明
位置 北緯38度32分00.7秒 東経141度16分39.2秒 / 北緯38.533528度 東経141.277556度 / 38.533528; 141.277556 (桃生城)座標: 北緯38度32分00.7秒 東経141度16分39.2秒 / 北緯38.533528度 東経141.277556度 / 38.533528; 141.277556 (桃生城)
地図
桃生城の位置(宮城県内)
桃生城
桃生城
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桃生城(ものうじょう)は、古代の朝廷陸奥国桃生郡(現・宮城県石巻市)に築いた城柵

歴史[編集]

続日本紀』によれば、桃生城は天平宝字元年(757年)に造営が始まり[1]、天平宝字3年(759年)に完成した[史料 1][史料 2]。翌年正月にはその功績によって按察使藤原朝狩従四位下が授与され、以下の者にも叙位叙勲が行われた[史料 3]。その後、桃生城は宝亀5年(774年)7月には海道蝦夷によってその西郭が敗(やぶ)られた[史料 4]桃生城襲撃事件)。翌宝亀6年(775年)11月には、陸奥国按察使兼鎮守府将軍大伴駿河麻呂以下1,790余人が、桃生城を侵した叛賊を討治、懐柔帰服した功績によって叙位叙勲を受けた[史料 5]。しかし、桃生城に関する記述はそれ以降史料上に見えず、奪還後の様相については不明である。石巻市太田地区には、かつて「上郡山」という地名が存在しており[2]、少なくとも桃生郡家はこの地で存続した可能性が高い。また、叛乱を起こした海道蝦夷の拠点となった遠山村は、「登米(とよま)郡」として建郡されている。

調査・研究[編集]

桃生城の所在地については、1895年明治28年)に桃生郡中津山村の熊谷眞弓が同郡北端にある「茶臼山」(標高159 m)説を唱え[3]、これが最有力視されて昭和30年代まではほぼ定説とされていた[4][5][6]。ただし、茶臼山からは古瓦などの考古学的な確証を得ることができず、再検討の余地を残していた。一方で、喜田貞吉1923年大正12年)に延喜式内社の「飯野山神社の向う側の山の上に平地があって、字長者森と云ひ、布目を出すといふ」ことから、「古い寺でもあったものらしい」と後の桃生城長者森説の原形となる説を提唱していた[7]。喜田の論考と同年に発行された『桃生郡誌』(桃生郡教育会)では、『続日本紀』中の「跨大河」の記述と茶臼山付近の北上川の河道変遷に齟齬があり、「史筆の虚飾にて小流を大河と記したるものか」「疑存して後考を待つ」とされた。

1963年(昭和38年)、高橋富雄は、「丘陵台地の突端、大谷地飯野新田の台上」から「奈良時代末期と推定されるところの各種の瓦」「土師器・須恵器をともない、大きな施設があったことが確認できる」とし、「桃生町太田地区と河北町大谷地地区の接壌地帯」を最も有力な桃生城擬定地とした[8]1969年(昭和44年)、地元の宮城県河南高等学校教諭(当時)の小野寺正人は、長者森には土塁等が存在すること、奈良時代末期と推定される布目瓦や土師器須恵器が出土することから、桃生城跡として有力な推定地であることを述べている[9]。桃生城の範囲は、東は桃生町太田越路から飯野本地に至る線、西は桃生町袖沢から小池を通り河北町新田にいたる線、北は桃生町九郎沢から南は河北町飯野新田に至るとしており、宗全山(愛宕山)を頂点とする丘陵全域を桃生城とし、長者森の方形土郭を桃生城の中心施設と位置づけている。小野寺の示した桃生城の範囲は、地形的にもまとまりのある一帯地を指しており、太田・飯野地区には、延喜式内社の日高見神社・飯野山神社が所在し、日高見神社からは古瓦も出土することから、桃生城擬定地のひとつとされたこともある[10][注釈 1]。また、太田地区の九郎沢・入沢・拾貫には、年代不詳ながら「を採掘した跡が無数」(みよし掘り跡[11])に残され、太田金山跡とされている[2]

1974年(昭和49年)から2001年平成13年)までの、宮城県多賀城跡調査研究所による通算10次に及ぶ発掘調査の結果、桃生城域は東西二郭構造から構成されるとの見解が出された[12]。2001年(平成13年)から始まった三陸自動車道建設に伴う発掘調査では、角山遺跡の丘陵尾根に沿って柵列跡が検出され[13]、この柵列は調査範囲を超えて延びており、桃生城の一番外側の外郭線の一部であったと考えられている。また、細谷B遺跡第2号住居の暗渠には桃生城の瓦が用いられており、同城との直接的な関連が窺われた[14]。これらは小野寺が提唱した太田・飯野全域に及ぶ「広域桃生城説」を裏付ける証左のひとつと考えられる[注釈 2]。桃生城の隣接地の調査では[14]、桃生城とされた範囲の東側から土塁(SX03)や大溝(SD02・04・05)が確認され、同城の規模と構造・変遷については今後の課題とされた。桃生城の東に接する新田東遺跡からは[15]掘立柱建物跡や竪穴建物跡が発見され、これらの中には焼失遺構が含まれていることや、764年(天平宝字8年)に反乱を起こして戦死した藤原仲麻呂(恵美押勝)・藤原朝狩らの菩提を弔うために称徳天皇が発願した百万塔を模して作った「三重小塔」が出土していること、遺跡の東縁辺には二重の土塁状の高まりが認められることから[16]、桃生城の東郭ないしは一部を構成すると考える説が有力となっている[17][注釈 3]

アクセス[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 高倉淳は、『封内風土記』(田辺希文1772)の日高見神社の条に「此地に大悲閣あり」とあり、大悲閣=大寺院が存在した可能性を指摘している[11]
  2. ^ 小野寺説に先立ち、1957年(昭和32年)に飯野川高校定時制桃生分校教諭(当時)の高倉淳が広域桃生城説の原形を作っている[11]
  3. ^ 桃生城の中枢部を西郭・中央郭・東郭とした場合、中央郭付近の地名は字「中山」であり、中央郭の遺称と考えられる。かつて、この地名から「中山柵」に擬定されたこともあるが、この地が「小田郡」であった根拠に乏しく、現在は斥けられている。

史料[編集]

  1. ^ 天平宝字二年冬十月甲子。発陸奥国浮浪人。造桃生城。既而復其調庸。便即占着。又浮宕之徒、貫為柵戸。
  2. ^ 天平宝字二年十二月丙午。徴発坂東騎兵。鎮兵。役夫。及夷俘等。造桃生城・小勝柵。 天平宝字三年九月庚寅。遷坂東八国。并越前。越中。能登。越後等四国浮浪人二千人。以為雄勝柵戸。及割留相摸。上総。下総。常陸。上野。武蔵。下野等七国所送軍士器仗。以貯雄勝・桃生二城。天平宝字三年九月己丑。勅。造陸奥国桃生城。出羽国雄勝城。所役郡司。軍毅。鎮兵。馬子。合八千一百八十人。従去春月至于秋季。既離郷土。不顧産業。朕毎念茲。情深矜憫。宜免今年所負人身挙税。始置出羽国雄勝。平鹿二郡。及玉野。避翼。平戈。横河。雄勝。助河。并陸奥国嶺基等駅家。
  3. ^ 然今陸奥国按察使兼鎮守将軍正五位下藤原恵美朝臣朝猟等。教導荒夷。馴従皇化。不労一戦。造成既畢。又於陸奥国牡鹿郡。跨大河凌峻嶺。作桃生柵。奪賊肝胆。眷言惟績。理応褒昇。宜擢朝猟。特授従四位下。陸奥介兼鎮守副将軍従五位上百済朝臣足人。出羽守従五位下小野朝臣竹良。出羽介正六位上百済王三忠。並進一階。鎮守軍監正六位上葛井連立足。出羽掾正六位上玉作金弓並授外従五位下。鎮守軍監従六位上大伴宿禰益立。不辞艱苦。自有再征之労。鎮守軍曹従八位上韓袁哲、弗難殺身。已有先入之勇。並進三階。自余従軍国郡司・軍毅、並進二階。但正六位上別給正税弐仟束。其軍士・蝦夷俘囚有功者。按察使簡定奏聞。
  4. ^ 宝亀五年七月壬戌。陸奥国言。海道蝦夷。忽発徒衆。焚橋塞道。既絶往来。侵桃生城。敗其西郭。鎮守之兵。勢不能支。国司量事。興軍討之。但未知其相戦而所殺傷。 宝亀五年八月己巳。勅坂東八国曰。陸奥国如有告急。随国大小。差発援兵二千已下五百已上。且行且奏。務赴機要。 宝亀五年十月庚午。陸奥国遠山村者。地之険阻。夷俘所憑。歴代諸将。未嘗進討。而按察使大伴宿禰駿河麻呂等。直進撃之。覆其巣穴。遂使窮寇奔亡。降者相望。於是。遣使宣慰。賜以御服綵帛。
  5. ^ 宝亀六年十一月乙巳。遣使於陸奥国宣詔。夷俘等忽発逆心。侵桃生城。鎮守将軍大伴宿禰駿河麻呂等。奉承朝委。不顧身命。討治叛賊。懐柔帰服。勤労之重。実合嘉尚。駿河麻呂已下一千七百九十余人。従其功勲加賜位階。授正四位下大伴宿禰駿河麻呂正四位上勲三等。従五位上紀朝臣広純正五位下勲五等。従六位上百済王俊哲勲六等。余各有差。其功卑不及叙勲者。賜物有差。

出典[編集]

  1. ^ 『日本歴史地名大系第四巻 宮城県の地理』(平凡社、1987年7月10日発行)
  2. ^ a b 桃生町史編纂委員会1988『桃生町史』第2巻 資料編
  3. ^ 熊谷眞弓1895「陸奥桃生城之考」『奥羽史學会会報』1
  4. ^ 池内儀八1929「東北に於ける上古の城柵遺蹟」『東北文化研究』第2巻第1号 東北帝國大學法文学部奥羽史料調査部編輯
  5. ^ 大類伸1930「桃生城址」『宮城縣史蹟名勝天然記念物調査報告』第5輯、宮城縣史蹟名勝天然記念物調査會、1-6頁
  6. ^ 伊東信雄1957「古代史」『宮城県史』第1巻
  7. ^ 喜田貞吉1923「庄内と日高見(下)-日高見地方見聞録」『社会史研究』第9巻第2号
  8. ^ 高橋富雄1963『蝦夷』日本歴史叢書2 吉川弘文館
  9. ^ 小野寺正人1969「桃生城」『石巻日々新聞』1月7日・8日号,石巻日々新聞社
  10. ^ 加藤孝1961「考古学上からみた桃生村内の古代遺跡」『桃生村史』附録 桃生村史編纂委員会
  11. ^ a b c 高倉淳桃生城と太田金山
  12. ^ 宮城県多賀城跡調査研究所 2002『桃生城跡Ⅹ』多賀城関連遺跡発掘調査研究所報告書第27 冊
  13. ^ 宮城県教育委員会 2005『角山遺跡』宮城県文化財調査報告書第200集
  14. ^ a b 宮城県教育委員会 2006『桃生城跡 細谷B遺跡』宮城県文化財調査報告書第205集
  15. ^ 宮城県教育委員会2003『新田東遺跡』宮城県文化財調査報告書第191集
  16. ^ 相原淳一・谷口宏充・千葉達朗2019「赤色立体地図・空撮写真からみた城柵官衙遺跡―宮城県石巻市桃生城跡・涌谷町日向館跡とその周辺―」『東北歴史博物館研究紀要』20
  17. ^ 宮城県多賀城跡調査研究所2010『多賀城跡―発掘調査のあゆみ2010-』 (PDF)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]