根岸誠一

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根岸 誠一
名前
カタカナ ネギシ セイイチ
ラテン文字 NEGISHI Seiichi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1969-04-20) 1969年4月20日(55歳)
出身地 栃木県
身長 180cm[1]
体重 64kg[1]
選手情報
ポジション DF
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

根岸 誠一(ねぎし せいいち、1969年4月20日 - )は栃木県鹿沼市出身の元サッカー選手で、現在は宇都宮チェルトスポーツクラブの代表を務める。

来歴

高校時代

宇都宮学園高等学校に入学し、1年時から公式戦に出場し、同学年だった1985年度の全国高校サッカー選手権第64回大会では同校初のベスト4進出に貢献した。続く1986年度の第65回大会でもレギュラーとして本大会に出場し、前回大会で得点王となった1年上の黒崎久志キャプテンの下でベスト8に進出。北海道の室蘭大谷高等学校と対戦した準々決勝は0-0のスコアレスドローでPK戦まで突入し、両校それぞれの11人の選手が全員成功して二周り目に入った後も14人目まで失敗無く進んだが、宇都宮学園15人目(通算29人目)のキッカーとして再び登場した根岸が蹴ったボールは室蘭大谷のGK星野に止められ、その直後の室蘭大谷のキッカーが成功して、宇都宮学園は14-15で敗れた。この高校サッカー史に残る壮絶なPK戦で失敗して泣き崩れる根岸の姿は、当時のサッカーファンに強烈なインパクトを残している[2]。この第65回大会で根岸はベストイレブンに選出され、ヨーロッパ遠征メンバーにも選出されている。

選手時代

高校卒業後、高校の先輩の黒崎の後を追う形で日本サッカーリーグ1部の本田技研に入団し、本田が日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)への参加を見送るとプロ化を表明した住友金属に移籍。ここでも黒崎と行動を共にし、元監督の宮本征勝や同学年の本田泰人などと共に鹿島アントラーズとなった同チームの基盤を築いた元本田在籍選手の一員となった。根岸自身もU-21日本代表候補に選ばれるなど活躍したが[3]、腰と膝の怪我の影響により、1993年のJリーグ開幕を前に退団した。

コーチ・監督(現在)

Jリーグ退団後は、地元の鹿沼市に戻り、同市に拠点を置くクラブチーム、宇都宮チェルトFC・FCアネーロを創設。現在も同チームの監督を務め、幼稚園・小学生・中学生それぞれの世代で県大会1位を獲得するほどの手腕を発揮する。

監督としての教育スタイルは、選手個人を尊重し、楽しくサッカーをするということに重きを置く[4]。選手を盛りたてて選手個人が持つ潜在能力を引き出し、どの世代でも実力あるチームづくりをするため、栃木県内の中学生・高校生の監督陣から、また「根岸マジック」にやられた、と言われるほど一目を置かれる存在である。

教え子の中には、Jリーグや海外リーグで活動する金子剛和久井秀俊など、プロサッカー選手に成長した選手も多い。

所属クラブ

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯/ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1988-89 本田 JSL1部 0 0
1989-90 本田 2 JSL1部 3 0 0 0
1990-91 本田 2 JSL1部 0 0 0 0
1991-92 住金 29 JSL2部 0 0 0 0
1992 鹿島 - J - 0 0 0 0 0 0
通算 日本 J 0 0 0 0 0 0 0 0
日本 JSL1部 3 0
日本 JSL2部 0 0 0 0
総通算 3 0

参考文献

脚注

  1. ^ a b 『Jリーグオフィシャルガイド1992-1993』p29
  2. ^ この試合の模様は2012年1月7日に日本テレビ系列で放送された第90回大会準決勝のハーフタイムで紹介された。その中で根岸は「2周目に入った時からみんなが誰か外さないかと思っていた。自分のPK失敗が無ければもっと多くの先輩がプロに行けたのではないか、自分がその人生を狂わせてしまった」という心情を告白している。
  3. ^ 根岸は、上記の日本テレビでのインタビューの中で「あのPK失敗があったから人一番練習したので、自分はプロ選手になれた」と振り返っている。
  4. ^ 上記の日本テレビでのインタビュー内で、根岸はPK失敗を含む高校サッカーでの経験がこの方針の基礎になったと述べ、「サッカーは素晴らしいという事を子ども達に伝えたい」と語っている。