柳生宗章

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柳生 宗章(やぎゅう むねあき、永禄9年(1566年) - 慶長8年11月14日1603年12月16日))は、安土桃山時代武将剣豪柳生宗厳の四男で、柳生厳勝の弟、柳生宗矩の兄。通称・五郎右衛門。

文禄3年(1594年)に弟の宗矩とともに徳川家康に召されたが仕官せず、武者修行の末に小早川秀秋に召抱えられる。関ヶ原の戦いでは秀秋に近侍して警護の任にあたった。その後小早川家が改易されると、中村一忠の執政家老横田村詮に乞われて伯耆米子藩に客将として仕える事になる。

しかし、村詮の才覚を妬み出世を目論む一忠の側近の安井清一郎、天野宗杷らの陰謀により、慶長8年(1603年)11月14日、城内で催された慶事において、安井らに唆された一忠によって村詮は謀殺。これに対し横田一族を支持する家臣は憤りを感じ飯山に立て篭もると、宗章も義憤と横田への恩義から加勢した。隣国の堀尾吉晴の助勢を得た一忠により鎮圧され、その際に宗章は吹雪の中で数本の刀を差して敵兵18名を切り倒すなど奮戦するが、最後は刀折れて壮絶な戦死を遂げた。