板垣退助
板垣 退助 | |
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1896年頃(60歳頃) | |
生年月日 |
1837年5月21日 (旧暦天保8年4月17日) |
出生地 | 土佐国 高知 |
没年月日 | 1919年7月16日(82歳没) |
死没地 | 日本 東京府 東京市 |
所属政党 | 自由党→愛国公党→自由党→憲政党 |
称号 |
従一位 勲一等旭日桐花大綬章 伯爵 |
配偶者 | #家族を参照。 |
第17代 内務大臣 | |
内閣 | 第1次大隈内閣 |
在任期間 | 1898年6月30日 - 1898年11月8日 |
内閣 |
第2次伊藤内閣 第2次松方内閣 |
在任期間 | 1896年4月14日 - 1896年9月20日 |
板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月17日(1837年5月21日) - 大正8年(1919年)7月16日)は、日本の武士(土佐藩士)、政治家。幼名は猪之助。退助は元は通称。諱は初め正躬(まさみ)、のち正形(まさかた)。号は無形(むけい)。栄典は従一位勲一等伯爵。土佐三伯の一人(他に後藤象二郎・佐々木高行)。
自由民権運動の主導者として知られ、「庶民派」の政治家として国民から圧倒的な支持を受けていた。薨去後も民主政治の草分けとして人気が高く、第二次世界大戦後は50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられた。
生涯
生い立ち
天保8年4月17日(1837年5月21日)、土佐藩上士(馬廻格・300石)乾正成の嫡男として、高知城下中島町(現 高知県高知市本町通2丁目)に生まれた。なお、乾家は武田信玄の重臣であった板垣信方を祖とした家柄である(退助の復姓については後述)。後藤象二郎とは竹馬の友である。同じ土佐藩の中岡慎太郎とは交誼があったが、坂本龍馬とは生前に一度も出会ったことは無い[1]。 しかし龍馬の桂小五郎宛ての書簡には乾退助を紹介する記述があり、また退助も龍馬の脱藩の赦免に奔走するなど、互いに面識はあったようである[注 1]。 上士と下士の身分が確立されていた土佐藩の中で谷干城や佐々木高行と同じく、下士に対し寛大だった[注 2]。
少年期は腕白そのものであったという。退助は晩年、自分の少年時代を振り返り「母が予を戒めて云ふに喧嘩しても弱い者を苛めてはならぬ、喧嘩に負けて帰れば母叱って直ぐに門に入れない。成長すると、また仮りにも卑怯な挙動をして祖先の家名を汚してはならぬと教えられた」と述懐している[3]。
幕末
安政3年(1856年)8月8日、高知城下の四ヶ村(小高坂・潮江・下知・江ノ口)の禁足を命ぜられ神田村に蟄居し、ここで身分の上下を問わず庶人と交わる機会を得る。一時は家督相続すら危ぶまれたが、父・正成の死後、家禄を220石に減ぜられて家督相続を許された。
文久元年(1861年)10月25日、江戸留守居役兼軍備御用を仰付けられ、11月21日に高知を出て江戸へ向かう。文久2年(1862年)6月、小笠原唯八とともに、佐々木高行に会い勤皇に盡忠することを誓う。10月17日、山内容堂の御前において、寺村道成と時勢について対論に及び、尊皇攘夷を唱える。文久3年(1863年)1月4日、高輪の薩摩藩邸で、大久保一蔵(のちの利通)に会う。1月11日、容堂に随行して上洛の為、品川を出帆するが、悪天候により下田港に漂着する。1月15日、容堂の本陣に勝麟太郎(のちの海舟)を招聘し坂本龍馬の脱藩を赦すことを協議。4月12日、土佐に帰藩する。
慶応元年(1865年)1月14日、洋式騎兵術修行を命ぜられ、江戸で幕臣・倉橋長門守(騎兵頭)や深尾政五郎[注 3](騎兵指図役頭取)らにオランダ式騎兵術を学ぶ[4]。慶応2年(1866年)11月、薩摩藩士の吉井友実らと交流する。慶応3年(1867年)2月、水戸浪士の中村勇吉・相楽総三らを独断で江戸の土佐藩邸に匿う。
退助は土佐藩の上士としては珍しく武力倒幕を一貫して主張していた(当時の土佐藩上士は公議政体論が主流)。慶応3年(1867年)5月には上洛し、前月に脱藩の罪を許されたばかりの中岡慎太郎の手紙を受けて5月18日、京都の料亭「近安楼」で、福岡藤次・船越洋之助らと共に中岡と会見し武力討幕を議した。さらに5月21日、中岡の仲介によって、京都の小松清廉邸で、土佐藩の谷干城・毛利恭助らと共に薩摩藩の西郷吉之助(のちの隆盛)らと武力討幕を議し、退助は「戦となれば、藩論の如何に拘らず、必ず土佐藩兵を率いて薩摩藩に合流する」と決意を語り、薩土密約を結ぶ。翌日、退助は山内容堂へ拝謁して、時勢が武力討幕へ向かっていることを説き、江戸の土佐藩邸に水戸浪士を秘かに匿っている事実を告げる。5月27日、薩土密約に基づき大坂でアルミニー銃300挺を購入し、6月2日に土佐に帰国、藩の大監察に復職し、7月22日には軍制改革を指令する。8月20日、土佐藩よりアメリカ合衆国派遣の内命を受ける(のち中止)。9月6日、土佐勤王党弾圧で投獄されていた島村寿之助、安岡覚之助等を釈放する。これに応じ、七郡勤王党幹部らが議して、退助を盟主として討幕挙兵の実行を決議する。10月、土佐藩邸に匿っていた水戸浪士らを薩摩藩邸へ移す。
戊辰戦争では土佐勤王党の流れをくむ隊士を集めた迅衝隊総督として土佐藩兵を率い、東山道先鋒総督府の参謀として従軍した。天領である甲府城の掌握目前の美濃大垣に向けて出発した慶応4年(1868年)2月14日が祖先・板垣信方の没後320年にあたるため、「甲斐源氏の流れを汲む旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して甲斐国民衆の支持を得よ」と、岩倉具視等の助言を得て、板垣氏に姓を復した。この策が講じて甲州勝沼の戦いで大久保大和(近藤勇)の率いる新選組を撃破したばかりではなく、その後に江戸に転戦した際も、旧武田家臣が多く召抱えられていた八王子千人同心たちの心を懐柔させるのにも絶大な効果があった[注 4]。
東北戦争では、三春藩を無血開城させ、二本松藩・仙台藩・会津藩などを攻略するなどの軍功によって賞典禄1,000石を賜っている。明治元年(1868年)12月には藩陸軍総督となり、家老格に進んで家禄600石に加増される。官軍の将でありながら維新後すぐから、賊軍となった会津藩の心情を慮って名誉恢復に努めるなど、徹底して公正な価値観の持ち主であった為、多くの会津人が維新後、感謝の気持ちから土佐を訪れている。
明治政府の要職を歴任
明治2年(1869年)、木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信と共に参与に就任する。明治3年(1870年)に高知藩の大参事となり「人民平均の理」を発令する。明治4年(1871年)に参議となる。
明治6年(1873年)、書契問題に端を発する度重なる朝鮮国の無礼に世論が沸騰し、板垣は率先して征韓論を主張するが、欧米視察から帰国した岩倉具視ら穏健派によって閣議決定を反故にされる(征韓論争)。これに激憤した板垣は西郷隆盛らと共に下野。世論もこれを圧倒的に支持し、板垣・西郷に倣って職を辞する官僚600余名に及び、板垣と土佐派の官僚が土佐で自由民権を唱える契機となった(明治六年政変)。
自由民権運動
下野後、退助は五箇条の御誓文の文言「万機公論に決すべし」を根拠に、明治7年(1874年)に愛国公党を結成し、後藤象二郎らと左院に民撰議院設立建白書を提出したが、却下された。また、高知に立志社を設立した。明治8年(1875年)に参議に復帰し大阪会議に参加したが、間もなく辞職して自由民権運動を推進した。
明治14年(1881年)、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党を結成して総理(党首)となった。以後、全国を遊説して廻り、党勢拡大に努めていた明治15年(1882年)4月、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐阜事件)。その際、板垣は襲われた後に竹内綱に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い [注 5]、これがやがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった。この事件の際に板垣は当時医者だった後藤新平の診療を受けており、後藤は「閣下、御本懐でございましょう」と述べ、療養後に彼の政才を見抜いた板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と語っている[6]。 11月、後藤象二郎と洋行し、翌年の6月に帰国した。明治17年(1884年)10月、自由民権運動の激化で加波山事件が起き、自由党を一旦解党した。
自由民権運動家の立場から、華族制度には消極的な立場であり、授爵の勅を二度断っていたが、明治20年(1887年)5月、三顧之礼(三度の拝辞は不敬にあたるという故事)を周囲から諭され、三度目にして、やむなく伯爵位を授爵した。その結果、衆議院議員となることはなく(華族当主には衆院選の被選挙権がない)、また、貴族院でも伯爵議員の互選にも勅選議員の任命も辞退したため、帝国議会に議席を持つことはなかった。
帝国議会開設以後
大同団結運動の分裂後、帝国議会開設を控えて高知にいた板垣は林有造らとともに愛国公党を再び組織して第1回衆議院議員総選挙に対応した。明治23年(1890年)の帝国議会開設後には河野広中や大井憲太郎らとともに旧自由党各派(愛国公党、自由党、大同倶楽部、九州同志会)を統合して立憲自由党を再興した。翌年には自由党に改称して党総理に就任した。
明治29年(1896年)、議会内で孤立していた自由党は第2次伊藤内閣と協力の道を歩み、板垣は内務大臣として入閣。続く第2次松方内閣においても留任したがすぐに辞任した。明治30年(1897年)3月、自由党総理を辞任している。
明治31年(1898年)、対立していた大隈重信の進歩党と合同して憲政党を組織し、日本初の政党内閣である第1次大隈内閣に内務大臣として入閣する。そのためこの内閣は通称・隈板内閣(わいはんないかく、大隈の「隈」と板垣の「板」を合わせたもの)とも呼ばれる。しかし、内閣は内紛が激しく、4ヶ月で総辞職せざるを得なくなる。明治33年(1900年)、立憲政友会の創立とともに政界を引退した。
晩年
政界引退後は、明治37年(1904年)に機関誌『友愛』を創刊したり、同40年(1907年)には全国の華族に書面で華族の世襲禁止を問う活動を行なった。大正2年(1913年)2月に肥田琢司を中心に結成された立憲青年自由党の相談役に就いた。大正3年(1914年)には2度台湾を訪問し、台湾同化会の設立に携わった。
大正8年(1919年)7月16日、死去。法名は邦光院殿賢徳道圓大居士。なお、「一代華族論」という主張から、嫡男・鉾太郎は家督相続をせず、孫の守正が爵位を返上してその高潔な遺志を貫いた。
逸話
- 現実主義者であったため、少年時代に自ら稲荷神社のお守りを厠に捨ててみて、神罰が当たるか試したことがある(結果、何事も起こらなかった)。同様の主旨で、退助が神田村(こうだむら)に蟄居していた時、当時の人が食べ合わせ(「うなぎと梅干」、「てんぷらと西瓜」など)を食べると死ぬと信じていた迷信に対して、自ら人を集めて食べて無害なことを実証したことがある。
- 武市瑞山の命令で自分を斬りに来た中岡慎太郎を見透かし、暗殺を留まらせた。その時、中岡と意気投合し、共に倒幕に身を投じる事となった。
- 自らの命を狙われた岐阜遭難事件の犯人である相原尚褧に対して、特赦嘆願書を明治天皇に提出した結果、相原は特赦となり、改心した相原は退助に謝罪に訪れている[7]。
- 家屋敷を売り払い、私財を擲って自由民権運動に身を投じたため晩年は金銭的に困窮していたと伝えられている。明治44年(1911年)頃、人を介して秘かに杉山茂丸に刀を売ろうとした。茂丸が鑑定すると、備前長船(大宮派)の初代「盛重」(南北朝時代の作)という名刀であり、茂丸は「これは何処で手に入れたか?」と、刀を持ち込んだ人に問うと、最初は躊躇ったものの「実は板垣伯から君(茂丸)を名指しで、『買い取って貰うように』と頼まれて持参した」と打ち明けられた。驚いた茂丸は「この刀は伯が維新の際にその功により、拝領したものだと聞いているが…」と嘆息するエピソードがある[8]。この後、杉山は「板垣ほどの者がこれほど困窮しているのだから」と山縣有朋に説いて天皇や元老から救援金が出るようはからった。
- 板垣家の宗旨は曹洞宗であり、葬儀は遺志により仏式で行われたが、自身はプロテスタントでもあり、同郷の片岡健吉・坂本直寛の受洗などに多大な影響を与えた。
- 後藤象二郎と共に日本人として初めて(1896年以前の)ルイ・ヴィトンのトランクを所持していた[9](立憲政治視察のため後藤象二郎と渡欧した1882年から1883年の間に購入したとされる)。
- 退助の曾孫の家に保管されていた、明治2年(1869年)頃撮影と見られる板垣退助と二人の武士[注 6]が写った幕末古写真が、平成24年(2012年)7月13日に記者公開され、同年8月1日から8月31日まで高知市立自由民権記念館で一般公開された[10]。
武術
- 居合は故郷に伝わる無双直伝英信流を、後に第17代となる大江正路と共に修めていた。また、居合を学ぶために高知を訪れた中山博道に、無双神伝英信流の細川義昌を紹介した。日本刀の収集家としても有名だった。
- 柔術は呑敵流小具足術を本山団蔵に学んだ。明治15年(1882年)に岐阜で相原尚褧に襲われた際(岐阜事件)には負傷しながらも、相原の腹部に肘で当身を行った。板垣は、命が助かったのは師のおかげと本山に贈り物を贈ったところ、本山から皆伝を授けられたという。
- 自宅に相撲道場を築く程の好角家としても知られており、国技館の名付け親でもある。後に第6代友綱となる幕内力士・海山をはじめ多くの力士を育てた。
学問
- 退助の教養形成に大きな影響を与えたのが、阿波国出身の学者、若山勿堂(壮吉)である。昌平坂学問所塾頭を務めた佐藤一斎に儒学を学んだ勿堂は、山田方谷、佐久間象山、渡辺華山などと並び「一斎門下の十哲」として、昌平黌の儒官として教鞭を取った人物である。[11]勿堂は儒学だけでく、幕府講武所頭取を務め、甲州流軍学、越後流、長沼流を兼修した兵学の重鎮・窪田清音から山鹿流兵学を学び、免許皆伝を許された英才である。勿堂の山鹿流は、赤穂山鹿流の正統な伝系を継いでおり、他にも勝海舟、土方久元、佐々木高行、谷干城が勿堂から山鹿流を習得している。[12][13]したがって、退助の学問的系譜は、当時の幕府側学者の最高峰である佐藤一斎、窪田清音の孫弟子ということになる。
評価
栄典
- 1887年(明治20年)5月9日 - 伯爵[14]
- 1896年(明治29年)9月29日 - 勲一等旭日大綬章[15]
- 1909年(明治42年)7月10日 - 正二位[16]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[17]
- 大正8年(1919年)7月 旭日桐花大綬章
人物評
- 中江兆民は「私情に絡まるのは政治や公党の公では良く無いに違いないが、私交上ではむしろ美徳である。板垣は政治家としてよりも、むしろ個人としての美しい徳を持っていた近世の偉人である」と評価している。
- 板垣は日本の民主主義発展に大きな功績を残した。彼は無欲恬淡、金銭欲も淡白でしたたかさが無かった。
- 小説家の海音寺潮五郎や司馬遼太郎は「板垣は政治家より軍人に向いていて、ただ板垣の功績経歴から軍人にすると西郷隆盛の次で山縣有朋の上ぐらいには置かないといけないが、土佐藩にそこまでの勢力がなかったので政治家にされた」と述べている[18]。
- 自由民権運動の思想はその基礎を王政復古に求めるものであり、天賦人権論を基盤としたものである[19]。
- 「板垣死すとも自由は死せず」の言葉が広く知られているように、板垣は自由民権運動の英雄である。その一方で、藩閥政府による懐柔や、隈板内閣内の論争などといった板垣の政治的な行動は、民衆の議論を賑わせた。内務大臣への就任については多くの風刺画が描かれ(内務大臣は警察を管轄し、言論統制や選挙干渉などを行ったことで評判の悪いポストであった)、宮武外骨の『滑稽新聞』は、自由は死んだのに板垣は生きていると揶揄した。風刺画研究者の清水勲によれば、板垣は伊藤博文・大隈重信とならんで風刺画に描かれることの多い明治の政治家の「ベスト・スリー」であるという[20]。
肖像
年代別写真
銅像
- 岐阜県岐阜市の岐阜公園(金華山の麓)
- 板垣遭難(岐阜事件)の地に大正6年(1917年)に建てられた。
- 高知県高知市の高知城登城口
- 青梅市
- 栃木県日光市の日光東照宮参道へと通じる神橋入口
- 日光東照宮に立て籠もる大鳥圭介ら旧幕臣達に対して板垣退助は「先祖の位牌の影に隠れて、こそこそ戦い、結果、歴代の文物もろとも灰燼に帰すれば、徳川家は末代までも失笑の種となるであろう。尋常に外に出て正々堂々と戦いなさい」と説得し、また強硬に破壊を主張する薩摩藩に対しては「日光東照宮には、陽明門をはじめ各所に後水尾天皇の御親筆とされる偏額が掲げられており、これを焼き討ちすることは天皇家への不敬にあたるため回避せられよ」と両者に対して理由を使い分けて説得し、日光山を戦火から守った功績によるものである。初め昭和4年(1929年)に彫刻家の本山白雲による像が作られたが、戦時に供出され昭和42年(1967年)、彫刻家・新関国臣の作による像が再建された。徳川宗家16代目を継いだ徳川家達が、板垣に感謝し銅像の題字を揮毫している。
- 国会議事堂
系譜
- 乾氏(板垣氏)
- 乾家の初代・正信は、甲斐の武田晴信(信玄)に仕えた部将・板垣信方の孫である。正信の父・板垣信憲がゆえあって改易された後に誅された事件があった為、籠居して乾氏に名を改めた。正信は長じて小田原征伐に陣借りして奮戦し、その功によって山内一豊が遠江国掛川に封ぜられた天正18年(1590年)に召抱えられた(掛川衆)。江戸時代代々土佐藩士で、家格は馬廻役(上士)。家紋は、甲斐板垣氏は元々「地黒菱[注 7]」を用いたが、姓を乾氏に改めた戦国時代末期頃より明治時代中期頃までは「榧之内十文字」を用いた。板垣退助は、土佐山内氏から賜った「土佐桐[注 8]」を明治中期以降は用いた。
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地黒花菱
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榧之内十文字
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土佐桐
系図
- 実線は実子、点線は養子。
- 江戸時代部分は(御侍中先祖書系圖牒)より
家族
- 曾祖父:乾正聰
- 曾祖母:林 藤左衛門勝周の女
- 祖父:乾信武
- 祖母:谷村久之丞自熈の女
- 父:乾正成
- 母:山内勝長の妹
- 本人:板垣退助
- 正妻:林益之丞政護の妹
- 継妻:中山弥平治秀雅の次女
- 継妻:鈴(すず)。小谷正臣の娘。天保11年8月15日(1840年9月10日)生。安政6年(1859年)婚姻。明治18年(1885年)6月28日没。
- 継妻:絹子(きぬこ)。福岡孝弟養女、荒木伊三次の七女(荒木周道の妹)。
- 権妻:板垣清子。金春芸者の小清。
- 長男:板垣鉾太郎 - 慶応4年5月15日(1868年7月4日)生。母は小谷氏。
- 次男[23](庶長子):乾正士 - 慶応4年3月25日(1868年4月18日)生。母は医師・萩原復斎の娘・龠(やく)。
- 三男[24](庶次子):板垣孫三郎 - 明治18年(1885年)10月6日生。母は福岡氏。
- 四男[25]:板垣正實 - 明治22年(1889年)4月4日生。母は福岡氏。
- 五男[26]:乾六一 - 明治30年(1897年)11月14日生。母は福岡氏。
- 長女:兵 - 片岡光房妻。万延元年6月18日(1860年8月4日)生。母は小谷氏。
- 次女:軍 - 宮地茂春妻。元治元年3月15日(1864年4月20日)生。母は小谷氏。
- 三女:猿(のち婉と改める) - 初め安川甚一妻、後小川一眞(写真家)妻。明治5年5月16日(1872年6月21日)生。母は小谷氏。
- 四女:千代子 - 浅野泰治郎(のちの二代目 浅野総一郎・浅野セメント社長)妻。明治26年(1893年)4月12日生。母は福岡氏。
- 五女:良子 - 哲学者・小山鞆絵妻。明治28年(1895年)1月1日生。母は福岡氏。小山海運社長・小山朝光は良子の三男
墓所
- 薊野山(板垣山) - 山全体が乾氏専用の大きな墓地となっており、初代・正信から退助までの10代の墓石が整然とあり、退助の墓は三番目の妻小谷氏と並んで建てられている。正信から退助まで全て「榧之内十文字」の紋が付けられている。退助の墓のみ「土佐桐」の紋が台座についている(所在地 高知県高知市薊野東町15-12の北東付近)。
- 安楽寺 - 乾氏(板垣氏)の一族の墓がある。(所在地 高知県高知市洞ヶ島町5-3)
- 品川神社 - 江戸で客死した退助の祖父・信武の墓石以外は、退助を含め明治以降に亡くなった一族の墓石があり、退助の墓は四番目の妻福岡氏と並んで建てられている。明治以降の墓のため「土佐桐」の紋がついている。墓石のとなりには、佐藤栄作の筆による「板垣死すとも自由は死せず」の石碑がある。品川神社の社域がもと東海寺の寺域であったため、社殿裏が墓となっている。(所在地 東京都品川区北品川3-7-15。昭和53年11月22日品川区史跡に指定されている)
著作
- 『板垣政法論』、板垣退助述、植木枝盛記、五古周二編、自由楼、1881年
- 『通俗無上政法論』、板垣退助立案、植木枝盛記、和田稲積編、絵入自由出版社、1883年
- 『板垣伯意見書』、板垣退助述、憲政党党報局、1899年
- 『板垣南海翁之意見』、板垣退助述、郷敏儒、1890年
- 『愛国論』板垣伯立案、出射吾三郎編、吉田書房、1890年
- 『自由党史』(上下巻)、板垣退助監修、宇田友猪、和田三郎共編、五車楼、1910年/岩波文庫 上中下巻 初版1958年、復刊1997年ほか
- 『一代華族論』、伯爵 板垣退助著、社会政策社、1912年
- 『選挙法改正意見』、板垣退助著
- 『板垣退助先生武士道観』、板垣退助著、高知 板垣會、1942年
- 『憲政と土佐』、板垣會編、1941年
脚注
補註
- ^ 明治以降、板垣家と坂本家は親戚関係となる。また千葉さな子が開業した鍼灸院には退助自ら患者としてでなく、自由党員の小田切謙明(のちに無縁仏となったさな子の身元引受人となる)をはじめ数多くの患者を紹介するなど、龍馬の縁者には何かと面倒をみている。
- ^ 退助が神田村に蟄居中、樵(きこり)や農夫たちと身分の隔てなく親しく交わり、それが後年、庶民の立場に立った自由民権運動に目覚めるきっかけとなったことや、免奉行(税務官)時代に農夫たちが、退助に平伏して話をするのを見て、万民が上下のへだたりなく文句を言ったり、議論したりするぐらいがちょうど良い。私にも遠慮なく文句があれば申し出てくださいと語った話など、下士や農民たちに対しても寛大であった(当時としては変人とみられることもあった)逸話は豊富である。そえがゆえに退助が自由民権運動に没頭し全国を遊説していた頃には庶民派として大衆の人気を博した。[2]
- ^ 『柳営補任』によると旗本・深尾善十郎の養子総領。実父は松波平兵衛。
- ^ 甲州勝沼の戦いの後、甲斐国の武田氏一族の菩提寺である恵林寺に所蔵されていた板垣信方の肖像画に対面し、感激した退助は直筆で「わが祖」と書き入れたという。
- ^ 当時、岐阜県御嵩(みたけ)警察署御用掛であった岡本都嶼吉が、3月26日から4月8日までの板垣一行の動静をまとめて4月10日に御嵩警察署長に提出した「探偵上申書」に記載されている。また岐阜県警部長の川俣正名が岐阜県令に対して提出した供覧文書には、板垣が刺客に対して、自分が死ぬことがあったとしても「自由は永世不滅ナルベキ」と笑った、と記録されている。[5]
- ^ 板垣を中央に右が後藤象二郎と左が乾正厚との所伝がある。
- ^ 「花菱」紋を陰陽反転したもの。この頃は、武田氏も「四つ割菱」紋はまだ用いてはおらず「四つ割菱」紋を陰陽反転したものでは無い。
- ^ 俗説に、板垣の紋は「五三の桐」と言うが、品川神社裏の墓石などによれば板垣の紋は葉脈の数が三本、葉型は鬼葉(刻みの尖った葉)で、花が描かれており「五三の桐」とは形が全く異なる。
出典
- ^ 『坂本龍馬とその一族』土居晴夫著、新人物往来社、1985年(昭和60年)。『坂本龍馬の系譜』土居晴夫著、新人物往来社、2006年(平成18年)。[1]
- ^ 『板垣退助君伝 第1巻』栗原亮一、宇田友猪著、自由新聞社、1893年、『自由党史』
- ^ 高知歴史散歩『武田信玄と板垣退助(2)』広谷喜十郎著。-高知市広報「あかるいまち」2007年2月号より-
- ^ 『迅衝隊出陣展』39頁
- ^ 知っていましたか? 近代日本のこんな歴史|板垣退助暗殺未遂事件〜「板垣死すとも自由は死せず」〜
- ^ 『日本の有名一族』小谷野敦、幻冬舎新書、2007
- ^ 『板垣退助君伝記』第4巻、宇田友猪著、明治百年史叢書、原書房、2009年
- ^ 『杉山茂丸伝』、野田美鴻著、島津書房、1992年
- ^ “ルイ・ヴィトン、板垣退助もご愛用 ひ孫、トランク寄託”. 朝日新聞 (2011年9月17日). 2011年9月17日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “壮年期の板垣退助の写真公開 明治初期 子孫が保管”. 高知新聞. 2015年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年7月13日閲覧。
- ^ 『佐藤一斎と其の門人』第九章
- ^ 『山鹿素行兵法学の史的研究』十一章
- ^ 風間健「武士道教育総論」(壮神社)
- ^ 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。
- ^ 『官報』第3978号「叙任及辞令」1896年9月30日。
- ^ 『官報』第7813号「叙任及辞令」1909年7月12日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ たとえば海音寺「敬天愛人西郷隆盛」学研M文庫、4巻、P103~104
- ^ 坂野潤治・田原総一朗『大日本帝国の民主主義』小学館,2006年,190頁
- ^ 清水勲編『近代日本漫画百選』(岩波書店(岩波文庫)、1997年)、p.81,92。
- ^ 永原一照次男
- ^ 板垣退助次男
- ^ 墓碑銘に「板垣退助次男 乾正士」とあり。所在地:大阪府池田市五月山(昭和46年(1971年)3月高知県高知市より移葬)
- ^ 墓碑銘に「板垣退助三男 板垣孫三郎」とあり。所在地:高知県高知市薊野東町 乾・板垣家歴代墓所
- ^ 墓碑銘に「伯爵板垣退助四男 板垣正實」とあり。所在地:東京都品川区北品川 東京板垣家歴代墓所
- ^ 墓碑銘に「伯爵板垣退助五男 板垣六一」とあり。所在地:東京都品川区北品川 東京板垣家歴代墓所
参考文献
- 『南の海自由旗揚』牧岡安次郎編、摂海社、1880年
- 『板垣退助君功名伝』上田仙吉編、1882年
- 『自由党総理板垣退助君遭難記実 第1報』細野省吾編、1882年
- 『板垣退助君演舌』前野茂久次編、1883年
- 『東洋自由泰斗板垣退助君高談集 上編』斉藤和助編、共立支社、1885年
- 『板垣君遭難実記』矢野龍渓著、1891年
- 『板垣退助君伝 第1巻』栗原亮一、宇田友猪著、自由新聞社、1893年
- 『板垣退助―孤雲去りて(上下巻)』三好徹著、人物文庫、学陽書房、1997年
- 『板垣退助君伝記 全4巻』宇田友猪著、明治百年史叢書、原書房、2009年
- 『迅衝隊出陣展』中岡慎太郎館編、2003年
関連項目
外部リンク
先代 乾正成 |
土佐板垣(乾)氏当主 第10代:1860年 - 1919年 |
次代 板垣守正 |
公職 | ||
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先代 芳川顕正 芳川顕正 |
内務大臣 第13・14代:1896年4月14日 - 同9月20日 第17代:1898年6月30日 - 同11月8日 |
次代 樺山資紀 西郷従道 |