松本楓湖

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松本 楓湖(まつもと ふうこ、天保11年9月14日1840年10月9日) - 大正12年(1923年6月22日)は、幕末から大正時代の日本画家である。

経歴[編集]

天保11年9月14日(1840年10月9日)、常陸国河内郡寺内村[1](のちの稲敷郡新利根町寺内、現・茨城県稲敷市寺内)に、松本宗庵の三男として生まれる。名は敬忠。幼名は藤四郎、通称藤吉郎。父宗庵は漢方医で、漢学の素養もあり近所の子弟に教えていたという。

楓湖は幼いころから絵を好み、一般に人物を描くのに右向きの顔ばかりで左向きの顔は容易に描けないものだが、楓湖は左右どちらも自在に描けたという。最初息子が絵師になるのを反対していた父もこれを見て画人になるのを許し、数え12歳の楓湖を連れ嘉永4年(1851年)秋に江戸に出て、浮世絵師歌川国貞への弟子入りを頼むが、断られて帰国している。

2年後の嘉永6年(1853年)再び江戸へ出て、鳥取藩御用絵師沖一峨に学ぶ。一峨は狩野派琳派南蘋派に学んで濃彩華麗な花鳥画を得意とした絵師であり、楓湖も一峨から華やかな色彩感覚を学んだ。安政2年(1855年)16歳のとき「洋峨」の号で、地元茨城県の実家近くの逢善寺本堂天井画「天人図」などを描いている。

一峨が亡くなった翌年安政3年(1856年)17歳で、谷文晁の高弟で彦根藩御用絵師佐竹永海の画塾に入り、画号を永峨と改める。5年後には塾頭となったが、文久2年(1861年)前後から尊皇運動に転じており、勤皇画家として知られた。自身も剣術を修め、水戸藩武田耕雲斎藤田小四郎らと交わり勤王党を援助している。元治元年(1864年天狗党の乱が起きるとこれに参加、幕府軍に敗れて一時郷里で蟄居する。

慶応元年(1865年)江戸に戻り、再び画道に専心する。明治元年(1868年)、歴史人物画の画題を『前賢故実』に依っていた楓湖は、永海の許しを得て菊池容斎に入門、画号を楓湖に改める。画号の由来は、郷里が霞ヶ浦に近く、その一入江が通称「カエデ湖」と呼ばれていたことに因む。

明治10年代には、浅草の自宅に安雅堂画塾(あんがどうがじゅく)を創設し、今村紫紅(いまむら しこう)、速水御舟(はやみ ぎょしゅう)、小茂田青樹(おもだ せいじゅ)など非常に多くの画家を世に送り出した。

画道に専心する一方で、生活の糧として輸出商アーレンス商会の依頼で、輸出用七宝の下絵なども描いている。明治15年(1882年)、宮内省より出版された欽定教科書『幼学綱要』において、大庭学仙竹本石亭月岡芳年五姓田芳柳らの候補の中から楓湖が選ばれ、全7巻62図の挿絵を描き一躍名を轟かせた。

明治20年(1887年)には、その姉妹編といえる『婦女鑑』(全6巻)でも挿絵を担当している。なお、楓湖はこのころまで断髪せず、丁髷姿で通したという。明治21年から明治27年には末広鉄腸らの小説の木版口絵を手がけており、政治小説などの口絵初期のもので白黒のものなどを描いている。

明治29年(1896年)、東京深川の3人の絵師により設立され、のちに新傾向派の青年画家の拠点となる巽画会(たつみがかい)が設立され、楓湖はその顧問をつとめた。同会には鏑木清方はじめ、岡倉天心と決裂した小竹兄弟や上村松園や菊池契月ら京都の画家まで参加するほどであった。

明治31年(1898年)、日本美術院の創設に参加、文展開設当初から(第4回まで)審査員にあげられた。歴史画に長じ、第4回内国勧業博覧会に「蒙古襲来・碧蹄館図屏風」(明治27年(1894年))、第1回文展に「静女舞」(明治40年(1907年))などを発表、大正8年(1919年)、帝国美術院会員となった。大正12年(1923年)6月22日歿。東京谷中初音町の全生庵に葬られた。

画風[編集]

山本勘助画像(部分、「武田二十四将図」のうち)

楓湖は師である容斎の歴史画を継承し、それを次代へ橋渡ししたと評価される一方で、容斎の枠から大きく出なかった画家と言われる。しかし、楓湖が容斎の画風を墨守したのは、明治35年刊『日本美術画家列伝』の楓湖の項目によると容斎の意向が大きく、楓湖も師恩に報いようとしたと考えられる。また、依頼画は当時需要が高かった容斎風を堅持する一方、展覧会出品作は容斎の図様に基づきながらも、写実を取り込んだ独自性を打ち出そうとした意欲が認められる。また初期の宮内庁からの公的な仕事では、一峨から学んだ濃彩の作品が目立つ。また、旧派の画家と見做されがちであるが、保守的な日本美術協会には反対している。

門人[編集]

明治10年代に浅草栄久町の自宅に「安雅堂画塾」という私塾を開き、約400人とも言われる門下生を輩出した。本人は師・容斎から受け継いだ自由放任主義を貫き、自ら“投げやり教育”と言っていたが、初心者には親切で温情に富んだ指導をしたという。また、楓湖や容斎が模写した古名画の粉本模写を奨励し、モデルを用いた人物写生も行った。主な門下生に村岡応東中島光村今村紫紅牛田鷄村速水御舟島崎柳塢鴨下晁湖高橋廣湖前田錦楓小茂田青樹村上鳳湖岩井昇山松本凌湖(楓湖の四男)、椿桜湖木本大果中島清之高橋松亭(甥)、富取風堂上原古年田中以知庵永峰秀湖坂巻耕漁大久保楓閣森作湖仙などがいる。

代表作[編集]

日本画[編集]

作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款・落款 備考
武田二十四将 紙本著色 24幅 恵林寺武田信玄公宝物館保管・展示) 1871-73年(明治4-6年) 落款「楓湖」(山県昌景像のみ)/「松本楓湖忠宇義卿號楓湖」白文方印・「松本永峨」白文方印「樵舟」朱文方印(山県昌景像のみ) 真下晩菘が明治4年(1871年)の武田信玄公三百回忌のために恵林寺に奉納した作品。ただし、24幅中6幅に明治5年から6年の識語があり、明治4年の識語でない点に不審が残る。画像上部の題字は、土浦藩に仕えた能書家の関思敬[2]
花籠と幽霊 紙本淡彩 1幅 全生庵 1875年(明治8年)
和装西洋婦人像 絹本著色 1幅 102.0x45.2 島根県立石見美術館 明治前期(11年から12年以降)
日本武尊 絹本著色 1幅 青梅市立美術館 1894年(明治27年)
蒙古襲来碧蹄館 絹本著色 六曲一双 静嘉堂文庫美術館 1895年(明治28年) 第4回内国勧業博覧会へ出品し、妙技三等賞。
為朝護白川殿図 板絵著色金泥 絵馬一面 金刀比羅宮 1896年(明治29年) 楓湖自身が奉納。この10年後にも修営料を寄進し、その後も作品を複数奉納しており、楓湖が金刀比羅宮に厚い信仰を持っていたことが窺えるが、その理由はよくわかっていない。
天照大神と須佐男命 絹本著色 1幅 広島県立美術館 1908年(明治41年)
神変大菩薩渡唐之図 絹本著色 1幅 金刀比羅宮 1910年(明治43年) 第4回文展に「役小角渡唐図」の題で出品[3]
七卿落 絹本著色 1幅 123.9x44.9 毛利博物館 明治時代[4]
招賢閣相見図 絹本著色 1幅 123.9x44.8 毛利博物館 明治時代 七卿と随行の志士たちを毛利敬親元徳親子が招賢閣で出迎えた様子[4]
十二ヶ月図 絹本著色 12幅 茨城県近代美術館 大正初期

口絵[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 楓湖の生地は、添田達嶺『半古と楓湖』以来「河内郡小野村」という記述が繰り返されているが、同書収録の全生庵謝恩碑文や地元の最新の研究により正しくは「河内郡寺内村」と確認がされている(Bien 46(2007)p.21、25)。
  2. ^ 花園大学歴史博物館編集・発行 『花園大学歴史博物館二〇一四年度秋季企画展 滅却心頭火自涼 甲斐の名刹恵林寺の名宝』 2014年10月6日、pp.37-43、103。
  3. ^ 伊藤大輔責任編集 『平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝─絵画』 金刀比羅宮、2004年、p.358.
  4. ^ a b 山田稔 河野通孝 網野ゆかり編集 『明治150年記念特別展 激動の幕末長州藩主 毛利敬親』 ミュージアム・タウン・ヤマグチ実行委員会 山口県立美術館、2018年7月13日、第56,57図。

関係資料[編集]

  • 添田達嶺 『半古と楓湖』 睦月社、1955年
  • 日本美術院百年史編集室編 『日本美術院百年史 第一巻 上』 日本美術院、1989年
  • 図録『第16回企画展 松本楓湖展 師弟と交友』 東町立歴史民俗資料館、1998年
  • 山田奈々子 『木版口絵総覧』 文生書院、2005年
  • 中田智則 「松本楓湖研究 ─制作の実像解明を中心に─」『二〇〇六年度 鹿島美術研究 年報第24号別冊』、2007年11月15日、pp.379-388
  • 美術誌『Bien(美庵)』Vol.46「【特集】 朱鞘の勤皇志士、いざ容斎派の魂を伝えん 松本楓湖、見参!」、藝術出版社、2007年10月25日、ISBN 978-4-434-11140-2
    • 塩谷純「逸脱する松本楓湖」(註/桃投伸二)
    • 添田達嶺「松本楓湖」(『半古と楓湖』より全文)
    • 森田忠治「姫宮と楓湖と商豆と」
    • 野村弘インタビュー「出会いが継承する〈松本楓湖安雅堂記念館〉」(註/桃投伸二)
    • 結城庵「武田信玄菩提寺に眠る、楓湖の描いた山本勘助」
    • 結城庵「楓湖の弟子たち—安雅堂画塾門人列伝—」

外部リンク[編集]

  • 容斎派梁山泊(容斎派系図)[1]