松平頼重
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 元和8年7月1日(1622年8月7日) |
死没 | 元禄8年4月12日(1695年5月24日) |
改名 | 竹丸・八十郎(幼名)→頼重 |
別名 | 龍雲軒源英(法号) |
諡号 | 英公 |
戒名 | 龍雲院雄蓮社大誉孤峯源英 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 常陸下館藩主→讃岐高松藩主 |
氏族 | 水戸徳川家→高松松平家 |
父母 | 父:徳川頼房、母:久昌院 |
兄弟 | 頼重、徳川光圀、頼元、頼隆、頼雄 |
妻 | 正室:万姫土井利勝の娘 |
子 |
徳川綱方、徳川綱條 ほか 養嗣子:頼常 養女:犬姫(異母妹、細川綱利室) |
松平 頼重(まつだいら よりしげ)は、江戸時代前期の大名。常陸下館藩主、のち讃岐高松藩初代藩主。水戸藩初代藩主徳川頼房の長子で、"水戸黄門"こと2代藩主徳川光圀の同母兄。3代藩主徳川綱條の父。
生涯
懐妊した母・久昌院は、父・頼房に堕胎を命じられたが、三木之次は頼房の准母英勝院に相談の上、江戸麹町の邸宅で秘密裏に出産させ、頼房に隠したまま江戸で育てられた。光圀懐妊時にはその事実が発覚しないよう、京に送られ大納言滋野井季吉に預けられて養育される。天龍寺慈済院の洞叔寿仙のもとで学問を学ぶ。その後1632年に、水戸からの招きで藩邸に入るも1637年まで、父頼房に御目見できなかった。この間、水戸藩の嗣子には同母弟の徳川光圀が決定していた。翌1638年に右京大夫を名乗り将軍徳川家光に御目見した。このときの扱いは、光圀に次ぐ次男の扱いであった。翌年常陸下館5万石を与えられた。その後1642年、生駒騒動で改易となり天領となった讃岐高松に12万石で入封される。
将軍名代として後水尾上皇に拝謁したり、交通の要所の讃岐を与えられるなど、次男扱いとされていても、長男に相応しい待遇を得ている。後に実子の徳川綱方、徳川綱條が光圀の養子となり、水戸藩の家督は綱條が継ぐ。一方、頼重は光圀の実子・松平頼常を養子に迎え、延宝元年(1673年)に家督を譲って隠居した。元禄8年(1695年)に没した。
経歴
- 1622年(元和8年):生まれる
- 1638年(寛永15年):将軍家初見
- 1639年(寛永16年):常陸下館5万石
- 1642年(寛永19年):讃岐高松12万石転封(5月28日)
- 1673年(延宝元年):隠居(2月19日)、同月28日、出家。源英と号する。
- 1695年(元禄8年) :卒、享年74。
官歴
※日付=旧暦
- 1638年(寛永15年)11月2日、従五位下に叙し、右京大夫に任官。時に、松平の苗字を称する。
- 1640年(寛永17年)3月4日、従四位下に昇叙し、侍従を兼任。
- 1656年(明暦2年)2月25日、従四位上に昇叙し、左近衛権少将に遷任。右京大夫如元。
- 1662年(寛文2年)1月27日、右京大夫から讃岐守に遷任。左近衛権少将如元。
- 1918年(大正8年):贈正三位(11月15日)
家系
- 正室:万姫(父:土井利勝)
- 側室:お六(円月院、別府氏)
- 次女:勝姫
- 三男:頼剛
- 側室:松野(松月院、樺島氏)
- 側室:関野(松林院、山本氏)
- 側室:式部(島岡氏)
- 三女:長姫(鷹司兼熙室)
- 側室:宮内(心光院、渡辺氏)
- 四女:彦姫(頼重の養子・松平頼常の養女、大久保公卓室)
- 側室:左京(芳梢院、三好氏)
逸話
玉川上水より9年早い時期の正保元年(1644年)、矢延平六に命じて、現代まで水不足で知られる高松城下に、配水枡・配水管を地中埋設した、日本で初めてといわれる本格的な上水道を敷設している。水源は亀井戸などで、跡地に今も水神社が残る。
武者小路千家の祖、一翁宗守を藩の茶道指南役に据えるなど、文化面でも大きく寄与した。神仏への崇敬厚く、藩内の寺社を再興・修復し、寄進も行った。頼重は和歌も嗜んだことから、その折に三十六歌仙扁額を金刀比羅宮(狩野探幽・尚信・安信兄弟筆)、白峯寺(同じく狩野三兄弟筆)、白鳥神社(狩野安信筆)、石清尾八幡宮(狩野安信筆、昭和61年(1986年)の火災で焼失)、善通寺、法然寺に奉納している[1]。
脚注
- ^ 田中敏雄 「讃岐の三十六歌仙扁額について─松平頼重奉納を中心に」『日本美術工芸』第615号、日本美術工芸社、1989年12月、pp.7-19。後に『近世日本絵画の研究』 作品社、2013年3月、pp.269-279に再録、ISBN 978-4-86182-412-8
参考文献
- 溝渕利博 「藩政成立期における藩主の「鵜鷹逍遥」的行為の政治文化史的意義-初代高松藩主松平頼重の藩政における「遊猟」「舟遊」等の位置づけ-(PDF)」『研究紀要』58・59号合併号、高松大学・高松短期大学共同刊行、2013年2月、pp.1-77