松平頼縄

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松平 頼縄
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文化2年3月29日1805年4月28日
死没 明治17年(1884年1月24日
改名 弁之助(幼名)→頼縄
墓所 茨城県常陸太田市瑞竜町の瑞龍山
官位 従四位下、右京大夫、掃部頭、播磨守、侍従正四位
幕府 江戸幕府
常陸府中藩
氏族 水戸松平氏
父母 父:松平頼説、母:曾我氏
兄弟 頼縄中山信守頼功有馬広衆谷衛滋知久頼匡
正室:軽姫奥平昌高の娘)
継室:最子二条治孝の娘)
頼策頼寿貴志頼邁頼教
娘(松平勝慈正室)、
娘(松平義生継室・徳川慶勝養女)
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松平 頼縄(まつだいら よりつぐ)は、常陸府中藩の第9代藩主。

生涯

文化2年(1805年)3月29日、第8代藩主・松平頼説の長男として生まれる。文化10年(1813年)に世子となる。

天保4年(1833年)、父の死去により家督を継ぐ。弘化元年(1844年)、本家の水戸藩主・徳川斉昭に蟄居の命令を伝える役目を果たし、その跡を継いだ慶篤の補佐を務めた。

また、蹴鞠を趣味としており、飛鳥井雅光の門下として紫組の冠懸を許された。

明治元年(1868年)12月3日、病気を理由に三男の頼策に家督を譲って隠居し、明治17年(1884年)正月24日に死去した。享年80。

経歴

※日付=旧暦(1880年は新暦)

  • 1824年文政7年)12月、従四位下掃部頭に叙任。
  • 1833年天保4年)11月、家督相続し、常陸府中(茨城県石岡市)の所領を継承する。12月、播磨守に転任し、侍従を兼任する。
  • 1868年(明治元年)12月、隠居後、右京大夫に叙任。
  • 1880年(明治13年)5月、正四位に昇任。