松平慶倫

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松平 慶倫(まつだいら よしとも、文政10年閏6月5日1827年7月28日) - 明治4年7月26日1871年9月10日))は、江戸時代末期の大名美作国津山藩の第9代(最後)の藩主。

第7代藩主・松平斉孝の四男。生母は中西氏。正室は黒田長溥の養女(奥平昌暢の娘)。官位正四位左近衛中将三河守

生涯

文政10年(1827年)閏6月5日生まれ。幼名は龍次郎、温之助、淵之丞。初名は有倫。弘化4年(1847年)9月、松平斉民の養子となる。同年12月1日、将軍徳川家慶御目見する。嘉永元年(1848年)1月23日、従四位上左少将・三河守に叙任される。後に正四位下左中将にまで昇進する。

安政2年(1855年)5月3日、斉民の隠居により、家督を相続する。文久3年(1863年)、国事周旋の内勅を受け上京し朝廷幕府との調停にあたり、八月十八日の政変以降は藩内の尊皇攘夷派の排斥をおこなった。明治2年(1869年)6月、版籍奉還により津山藩知事に任ぜられる。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により免職となる。同年7月26日、45歳で死去。法号:慎由。墓所:岡山県津山市八子の愛山松平家墓所の愛山廟。しかし、明治政府には死亡を隠し、公的には以下のように届け出た。明治4年(1871年)8月10日、隠居し、養子康倫(実父・斉民)に家督を譲る。同年8月12日、死去。